チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

バーツ高と経済発展

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アダムのお母さんとお兄さんの奥さん

 

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舞台では少女の踊りが

 

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ハイティーンから20代の女性は村を出ている

 

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中学生か

 

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テーブルがいっぱい

 

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若いお母さんと赤ん坊

 

バーツ高と経済発展


■バーツが高い
チェンライで暮らすロングステイヤーの多くは年金を頼りに暮らしている。円で振り込まれた年金をタイバーツに両替して日々の費えに供しているわけだから、為替に敏感になる。年金額は変わらなくても為替に依って実収入が異なってくる。思えば民主党政権、日銀白川総裁のもとでは1万円は4000Bを越えていた。それが今は1万円の交換レートが2800Bを割っている。実収入が3割以上減ったことになる。

2010年当時、円は1ドル80円ちょっとだった。今は108円、円安のせいもあるが、タイバーツがドルに対しても強くなっている。バーツがなぜ高いかというとタイの国力が上がってきたという見方がある。GDPの伸びは堅調だし、物価、平均賃金の伸びも著しい。10年前は日当300Bでいくらでも田植えの手伝いが集まったが、今はメバーンのニイさんでも1日400-500B貰わないと、と言っている。物価も1杯30Bが普通だったクイッティオは今は40B、カオマンガイは30Bが今は45B、珈琲花園のアメリカン珈琲も20Bから今は35Bだ。

3割も為替が上がれば、訪タイ観光客が減りそうなものだが、中国人を筆頭に訪タイ観光客は増えている。逆に3割もおトクなったのだからと日本へ観光旅行に出かけるタイ人が激増している。景気がいいのだろう。しばらくは1万円-2800B近辺のバーツ高が続くという見方が一般的だ。

■責任者出てこい
それにしても日本の経済評論家はあてにならない。10月に消費税が10%に増税される、日本はデフレ経済に突入し、円高、恐らく1ドル100円割れになるという人が多かった。自分も自分の希望に合わせて評論家のご託宣、つまり円高、バーツ安を信じ、両替の機会を窺っていたがさっぱり円高にならない。昔から1ドル50円、日経平均1万円割れと言い続けている通称「紫婆」の大学教授を始めとして、デフレ、円高を予測していた人には責任取ってもらいたい。

マスコミも身の丈発言の萩生田文科相や雨男発言の河野防衛相を非難するくらいなら、ウソを振りまき、年金生活者の心を乱した評論家を少しは糾弾してもらいたいものだ。
チェンライの邦人はせめて1万円が3000Bにならないかねえ、と言っているが為替動向と秋の空、どうにかなるものではない。だからといって「もとの濁りの民主恋しき」というほど利己的にはなれないところが日本人だ、といえようか。

■パナセリの変化を見ても
タイは目まぐるしく発展している。物価の上昇もさることながら、ここ10年、街を走る車が多くなったと感じる。つまり一般の人が車を所有できる程、所得が向上したということだろう。ほとんど見かけなかった大型オートバイが、今はバンバン走っている。チェンライ市内の道路には交通信号が整備され始めた。以前は車が少なかったから交差点でも交通信号が必要なかった。

昭和20年代の半ば、新橋から日本橋まで赤信号に引っ掛からずに行けた、という話を聞いたことがある。チェンライも昭和30年から一挙に令和、とまでは行かないが昭和50年ほどの進歩を遂げたといっていいと思う。

初めてアカ族の村パナセリを訪れたのは2002年のことだった。1号線から未舗装の山道を2時間かけて行った。茅葺き屋根のアカ家屋が軒を連ねていた。車を所有している家はなくバイクがあればいいほう、村人は深夜、村を徒歩で出発し、翌朝に麓の郡役所に着く、という生活だった。今はこの道は完全舗装、時間は半減された。

副村長、アダムと知り合い、毎年のようにパナセリ滞在を繰り返した。アダムはメーサイで仕入れた装飾品をパタヤで売る商売を始めた。これ大当たり、彼の成功を見て大挙村人がパタヤに移動して同じ商売、村は茅葺きから瓦屋根の新築ブームとなったが、村人はパタヤ在住だから空き家だらけ。ところがパタヤにロシア人の足が途絶えると同時に装飾品ビジネスはゼロとなった。アダムは村の産品である烏龍茶を中国に輸出するビジネスに乗り換える。これで村人は村に戻って仕事ができる。村人の足はバイクから中古トラック、そして新車となっていった。えっ、アカ族がビールを飲んでたの?とタイ人に驚かれたのがついこの間の話だ。

11月2日、アダムのお母さんの80歳の誕生祝の宴席に招かれた。近郷の村から300人ほどが集まっていた。アダムの影響力の強さを感じた。車で乗り付ける人も多い。ラオカオ、ビールどころかウィスキーもふんだんに振舞われ、次から次へ運ばれる料理も肉、魚と豪華。2002年に行った時は庭を走っていた鶏を1羽締め、鳥スープ、野草、白米の食事だった。アカ族でさえ生活向上著しいのだから、タイの経済発展は推して知るべし、バーツ高は仕方ないか。