チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

アカ教育文化協会

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アカ教育文化協会

■アカ協会にコンタクト
将来はアカの村に入ってアカ語を勉強したいと思っている。チェンライに来るときにネットから印刷した約2千語の英‐アカ単語集の他、「タイ山岳民俗言語入門」、ハニ-英、英-ハニ辞典を持ってきた。ハニ族は中国に住むアカ族のことである。その後、「アカ語会話 入門・初級練習長」というA4で140ページほどの冊子をA先生に送って頂いた。1500語の小辞典付き、アカ語の自習書としては申し分ない。さらにこの冊子にはアカ文化、社会の手引きも載っている。その中にチェンライにあるアカ教育文化協会(以下、アカ協会)でアカ語辞典(英語版)が手に入ると書いてあった。(写真中)
タイ語のジアップ先生はアカ族の支援を行っている。その関係でアカ協会の人と親しい。女中さんも協会の紹介でアカの子を雇っているくらい、住所を教えてもらってメーコック川沿いの協会を訪ねてみた。応対してくれたのは40前後の精悍な顔つきのアカ男性で名前はアトゥ、協会の代表者だった。結果として協会では辞書を頒布していなかったのであるが、雑談の中でアトゥと自分は何人かの共通の知人を持っていることが分かり、是非また会いましょう、ということで別れた。

■農業支援の可能性
A先生はアカ族の支援の一つとして農業を考えておられる。パナセリでも農業支援の可能性を探られたが、結果ははかばかしくはなかった。というのは、パナセリの村人が農業から他のビジネスへ目を向け始めているからである。アカ族は元々、移動焼畑、狩猟民で山の斜面を焼き払って陸稲、玉蜀黍を栽培してきた。ただ食べていくだけであれば、これでいいのかもしれないが電化製品、バイク等を買うためには換金作物を作る必要がある。アダムもこれまでに農業指導員を兼ねた宣教師や政府の指導の下に、生姜、お茶、コーヒー豆 プラム、梅などを栽培してきた。バイクや中古トラックを持っていたから一定の成果はあったのだろう。
しかし、農作物は年に一度しか収入がなく、豊作となれば価格は暴落し、安定性に欠ける。アダムは現在、国境の街メーサイで仕入れた首飾り、腕輪などの宝飾品をタイのビーチリゾート、パタヤで販売している。みやげ物を持って暑い砂浜を行ったりきたりしながらデッキチェアーに寝そべる白人観光客に、文字通り行商しているのである。それでなくても黒いアダムの顔色が一段と黒くなったのは日焼けのせいである。
楽な仕事ではないが農業とは違って、月々一定の収入が見込める。これでアダムは長男を授業料の高い全寮制の高校に入れているし、トラックの新車も買った。彼は村の成功者と見なされている。彼に習ってパナセリからも50人以上の村人が、パタヤでみやげ物販売をしている。実は一度、パタヤにアダムを訪ねたことがある。アパートの一室に村で会ったことのある親族、知人が10人以上いた。アパートのある一角は500人ものアカがまとまって住んでいると聞いた。夫婦、親族を挙げてパタヤに出稼ぎに行っているアダムは農業に見切りをつけているのだろう。

■アカ協会の野外施設にアトゥを訪ねる
しかし、アダムの例は稀で、アカ族の9割以上は農業に依存して生活している。アカの農業についてはアカ協会のアトゥに聞くのがいいだろう。連絡を取ってみると丁度、アカのブランコ祭りのためメーサーロンにあるアカ文化センターに行っているとのこと。センターに宿泊できるから、とA先生と自分をブランコ祭りに招待してくれた。
ブランコ祭りアカ語で「イエークアーペウ」と呼ばれ、8月末から9月の始めにかけて4日間行われるアカ族の重要な宗教行事である。7,8メートルはある蔓のブランコにアカの民族衣装に身を包んだ美女が揺られている様子はテレビで見たことがある。ホンモノはまだ見たことがない。
アカセンター(アカ生活文化と環境の家、別名、アカ・ハニ民間医療センター)はアカ協会の野外施設だ。チェンライから約50キロ、メーサーロン近くのセンジャイパタナという村の中にある。
ミャンマーとの国境に近い場所であるので、舗装道路が整備されている。なぜ国境に近い村は舗装道路になっているかというと、かつては国境を越えてミャンマー軍やラオスのパテト・ラオ軍が、現在では麻薬密輸団がしばしば侵入してくる。侵入者に対し、迅速、適確に軍隊を展開する必要から、タイ国境地帯には道路が整備されたというわけだ。タイの赤化を防ぐことができたのは道路整備のお陰といわれるゆえんである。センターではアトゥが人懐こい笑顔で迎えてくれた。(続く)

写真下右側がアトゥ、左は日テレの「ブランコ祭り」取材班。