パナセリの起業家アダム
■アカの村
チェンライを初めて訪れたのは2002年のことだった。それ以来、チェンライに行くたびに、2,3泊はアカ族の村、パナセリに滞在するようになった。パナセリは標高1000mを越える山岳地帯にある。パナセリより更に100mほど上にあるアカ村、メーチャンタイにお寺があって、そこの住職パヤップ師と懇意になり、寺の本堂で寝泊まりしていたこともある。
初訪問の2002年からウズへ渡る2006年までの5年間はアカ族や少数山岳民族についてよく調べたものだ。日本語の本やレポートが少ないものだから、英語で書かれた資料も読んだ。パナセリでの見聞とネット資料を基に書いたレポートを友人にメールしたり、ロングステイクラブの会報に掲載して貰っていた。あるNPOのブログでに「タイ民俗研究家」と紹介されたことがある。アカ族について書く大学の先生はいるが、仕事があるから長期滞在はできない。アカ族の村に住み着いている日本人はいるが、書かない、あるいは書けない人が多い。
もし、自分がアカ語を覚えて、2年も村で過ごせば、研究家の名に恥じないレポートが書けるのでは、と自負していた。今更、教職に就くつもりは全くなく、自分の趣味としてまとまったものが書ければという、まあ漠然とした望みではあった。まさか母と兄を伴って、チェンライに移り住む、などという考えは、当時はこれっぽっちもなかった。
■変貌する村、パナセリ
2002年当時、パナセリは農業中心ののどかな村だった。概ね茅葺の家ばかりで貧富の差はあまりないようだった。農業指導員を兼ねた米国の宣教師がいたため、村人は古来の精霊信仰からキリスト教に改宗していたが、戸口に猫のミイラが貼り付けてあったり、焼酎の1杯目を土地神のために地面に流すなどそれなりの風習が残っていた。パナセリではいつも副村長、アダムの家に居候した。アダムは当時30代半ば、言葉の通じない日本人をいつも歓待してくれた。彼は村人に先駆けて、茶、コーヒーなどの植え付けにいそしんでいた。少しでも豊かになろう、という心意気はあった。
でも彼は結局、農業に見切りをつける。メーサイで仕入れてきた装飾品を観光地パタヤで売る、当時としては画期的なビジネスを始める。手に持てるだけの商品を持ち、パタヤの浜を何度も往復する。色黒ではあるが、その頃の彼は日に焼けて黒人並みの黒さになり、体力的にきついのか、すっかり痩せていた。しかし、20Bで仕入れたブローチを200B、300Bでファランに売る、この商売は儲かった。彼の成功を見て兄弟、親戚、村人がパタヤに出稼ぎに行くようになった。
実は、何度かパタヤにいるアダムに会いに行ったことがある。アパートの一室に顔見知りのパナセリのおばちゃんたち20=30人と暮らしていた。アダム商品の売り子だ。次回行ったときは新車のピックアップを持ち、1軒家に住んでいた。そのうちアダムはパタヤに土産物店を構え、パナセリから来た村人の何人かはそれに倣った。
パナセリに新築の家が何軒も建つようになった。茅葺ではなく、スレートか瓦葺きのタイ式の家だ。ただし、家の窓は閉ざされて人の気配がない。働く場所はパタヤ、年に1,2回里帰りができればいいほう。あまり貧富の差のなかった村ではあるが、出稼ぎと村に残った農業専従者で格差が広がった。
■農産品加工工場
アダムがいないし、とここ2年ほどパナセリに行っていなかった。ところが先日、ひょっこりアダムが我が家に顔を出した。パタヤの土産店は人に任せ、今は日本のNPOの援助でできた農産品加工工場をやっているという。アルコール度10%の梅酒、プラム酒、ネクタリンジャム、梅干し、それに今がシーズンの柿などをお土産にくれた。
昨年、アダムの家の新築祝いに招かれたのだが、旅に出ていて行けなかった。それで今回、新築祝いを兼ねてパナセリに行くことにした。加工工場も見学したい。
家から約70キロ1時間、118号線のメタムに着く。ここを右折して約25キロ山道を登る。この道が未舗装のドロドロ道、雨季にはスリップしてトラックでも立往生するという悪路で村まで1時間半はかかった。ところが2年ぶりに行ってみると、勾配は相変わらずだが全線舗装済。驚いた。メタムから40分ほどで着いた。もうパナセリは秘境ではない。
パナセリでは酒類のほか、各種ジュース、ジャム、梅加工食品、干し柿、更に焙煎珈琲豆を自主ブランドで製造していた。今はパタヤで売る分で精一杯とのことだが、工場が本格稼働してメーサイやチェンマイで売られるようになれば、村の経済はまた一変するだろう。アダムの起業家精神には脱帽するばかりだ。
写真は加工場のプレート、製品の一部、アダムとのスナップ、柿の贈呈式、パナセリヘの道と風景