プーカオ寺の慰霊碑(2)
■慰霊碑建立の経緯
チェンセーン、ゴールデン・トライ・アングルを見下ろすプーカオ寺の境内に建立された戦没者慰霊碑にどうして興味を持ったのか。それはチェンライ日本人会の一部にチェンライでも戦没者慰霊碑を建立し、しかるべき日に慰霊祭を行ってはどうかという話が持ち上がったからだ。その慰霊碑を建立する場所としてすでに慰霊碑が存在するプーカオ寺が候補に挙がっている。
チェンマイではチェンマイ戦没者慰霊祭実行委員会が毎年、チェンマイのバンガード高校、ムーサン寺の2会場で慰霊祭を行っている。バンガード、ムーサンにはビルマから敗走してきた多くの将兵が亡くなった野戦病院があった。その意味では戦死、戦病死者を慰霊するにふさわしい場所と言える。
チェンライ県にも日本将兵がいたようであるが、チェンセーン辺りで亡くなった将兵の話は聞いたことがない。でもプーカオ寺に慰霊碑があるということはゴールデン・トラアイ・アングルと戦没日本将兵との何かの縁があるのかもしれない。
■NPO慧燈
3つの慰霊碑のうち1つはNPO慧燈が、あとの2つは世田谷区のS.N氏が個人的に建立したものと分かった。NPO慧燈は、バンガード高校の慰霊塔や鐘楼を寄付し、タイ教育機関への奨学金援助活動を長く続けている佐賀県にある非営利活動法人である。
今はネットの時代、NPO慧燈に慰霊碑建立の経緯をお聞きしてみた。
NPO慧燈御中
突然のメールで失礼します。チェンライに住む中西と申します。
チェンライ県ゴールデントライアングルにあるプーカオ寺の境内に添付写真の慰霊碑があります。この慰霊碑は貴団体ゆかりの碑と聞いております。差し支えなければ、建立に至った経緯などお教え願えれば幸いです。
バンガード高校には何度か慰霊祭等で訪問したことがあり、貴団体のことは存じております。
お忙しいところ恐れ入りますが何卒よろしくお願い申し上げます。
チェンライ 中西英樹
同返答メール
中西英樹 様
このたびは、ご連絡頂きありがとうございます。
遺骨取集、慰霊に訪れた慧燈財団関係者が、プラタート・プーカオ寺内に平成3年(1991年)に木製の追悼之位を建立しました。
その後、老朽化した木製の追悼之位から大理石の石碑に立替することとして、平成16年(2004年)11月4日に起工式を行いました。
平成21年(2009年)11月11日に完成した石碑の落慶法要を行いました。
年に1回(今年は6月25日予定)バーンガード学校を訪問し、追悼法要をしておりますが、チェンライには訪問できないでおります。
私共の事情をお話し、プラタート・プーカオ寺の僧にお守り頂くことをお願いしております。
今後の慰霊祭の予定は今のところ計画しておりません。
プラタート・プーカオ寺は小高い丘の上にあり、タイ・ミャンマー・ラオスの三国国境が接する地点を見下せます。
この地に碑を立てることで、これらの国が植民地支配から独立することを願い戦って亡くなられた日本軍の慰霊になると考え、このお寺を選定したと聞いております。
NPO慧燈
M.T
■蟠龍寺
残り2つの慰霊碑の建立者、S.N.氏については何も情報が得られなかった。ただ碑に刻まれた「蟠龍寺芳誉嚞雄」を頼りに大阪と東京にある同名の寺にメールを送った。大阪からは東京のお寺でしょうという連絡を、東京目黒の蟠龍寺からは下記の返信を頂いた。
中西様
この度はお問い合わせを頂きありがとうございます。
さて、お問い合わせいただきました慰霊碑についてですが、製作にあたり当山先代住職の吉田嚞雄(よしだてつゆう)が揮毫を致しました文字が使用されておりますようですが、残念ながら詳細な資料が残っておりません。当代住職夫妻の話では、先代は先の大戦時、中国黒竜江省で従軍経験があり、そのため平成に入ってからは、戦友会等からお声がけを頂くと慰霊法要のために旧戦地へ参っておりました。
しかしながら、当代住職の話ではチェンライ県での慰霊法要へ参加した記憶はなく、建立者でいらっしゃるN様との関りも、誰かに紹介されて揮毫の依頼をされたようだとの見解でした。石碑の建立年代近辺の法務日鑑を現在あたっておりますので、新たな記述等が見つかりましたらあらためてご連絡申し上げます。
蟠龍寺 副住職 吉田龍雄
偶然であるが蟠龍寺はわが家から歩いて20分の距離にあった。メールのお礼がてら訪問して住職、副住職から先代の人となりをお伺いした。それなりに有益だったが、S.N.氏との関連はわからないままだった。
どうも戦没将兵とチェンライの関連はなさそうだ。それでもプーカオ寺に慰霊碑を新たに建てるのだろうか。