チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

感染症も一段落して

ダナンの帽子売り

フエの夜

同上

カイディン帝陵

同上

同上

 

 

感染症も一段落して

■まだマスク着用

2021年11月に感染症騒ぎの東京を後にしてチェンライに戻った。日本からタイへ入国するにも一苦労で、ワクチン接種済みの英文証明書を作成してもらったり、陰性証明を取るためバンコク1泊を強いられたし、タイの保険会社の疾病保険を義務付けられた。あとで考えてみたらあの感染症騒ぎは何だったんだろうと、頭をかしげることはいくつもある。自分が日本にいたころ、山梨県に帰省した女性が陽性と分かり、山梨で彼女と「濃厚接触」した男性が何人も炙り出された。個人情報も何もあったものではない。でもこれくらいならまだいい方で、陽性と判断された人が「多くの人に迷惑をかけた」と自殺したという痛ましい例もあった。

2年前の5,6月はチェンライでも感染症が流行った。あっちの村でもこっちの村でも同じ症状の人が続出した。病院も面倒だから一々検査などしない。風邪薬を出すだけだ。自分も女中のニイさんと同じ喉の痛み、咳、声嗄れの症状が出た。絶対、武漢から発生した感染症だ。日本でもインフルエンザ同様、現在もこの感染症に罹患している人は少なからずいる。まだ天皇、皇后両陛下がマスクをされているので、感染症は完全終息していないとわかる。

チェンライでもサンサーイ市場に行くと2,3割の人がマスクをしている。病院や出入国管理事務所、銀行の待合室になるとマスク率は高くなる。でも自分がタイに戻った頃はマスク無しではコンビニに入店できなかったし、個人商店の店員にもマスクを、と命令される状況で、ノーマスクは非国民という風潮で満ち溢れていた。その後は、タイ人も罹ってみたけれど大したことなかったし、ただの風邪だよ、と分かったのだろう、今はマスク無しで街を歩ける。

 

■旅に出る

チェンライに戻った翌年、2022年もまだ感染症騒ぎで動きづらくタイ国外には出ていない。国内もフアヒンに2,3泊行ったくらいで旅行らしい旅行はしていない。2023年は9月に日本へ一時帰国、11月にベトナムに1週間ほど行った。

一時帰国は、カード更新や健診、歯科治療など目的を持った旅であったが、ベトナムはさしたる用事はなく、これこそ旅らしい旅だった。日頃、クイッティオのピセ(大盛)は10B高いからタマダ-(普通盛)にしよう、とか吝嗇に暮らしているのだが、外国旅行となれば話は別だ。フエではタクシーを半日借り切って、ミンマン、カイディン、トゥドゥックの3つの帝陵を回った。自分としては思い切った大散財と思ったが、90万ドン(約5400円)だったから、それほどの額ではない。

旅の目的は何ですか、という調査によると1位、気分転換(78%)、2位、癒し(64%)、3位、刺激(23%)となっている。旅に出るとワクワクする。チェンライに蟄居していても毎日がワクワク続きで、という人を知っているが、自分には若いフェーン(愛人)がいるわけでもないので、せめて言葉の通じない外国で新しい体験や美味しい料理に出会いたいというところだ。

 

■支払いに注意

先月、チェンライの友人がベトナムに旅行してきた。自分と同じ場所に行っているので、話が弾む。ネット上の体験談では、ベトナム人はお釣りをくれないから気をつけろ、と書いてある。ベトナムの通貨はドンでやたらと桁数が多い。20万ドン札か2万ドン札か一瞬わからなくなる。彼も1万ドン札と2万ドン札合計3万ドンを払ったつもりが1万ドン札と20万ドン札を渡してしまった。すると店員はすぐお札を隠して、ハイ、終わり。また、バイクの帽子売りから麦藁帽を一つ買って20万ドン渡したら、お釣りをくれない、抗議したら帽子、もう3ついらないか、と言われたそうだ。

自分も缶ビールを高く買わされたが、せいぜい100円くらいだった。ネットには50万ドン(3000円)の靴をカードで購入し、言われるままにサインした。日本に帰ってよく見たら500万ドン支払っていたというケースがあった。

自分もイタリアのフィレンツェで食事代のゼロを一つ間違えそうになったことがある。桁数の多いドン、リラ、ルピアなど気をつけないと「これも旅のスパイスさ」などと呑気なことを言っていられなくなる。

ベトナムは数年前にラオス国境から半日だけディエンビエンフーを見物しただけで昨年11月が実質、初のベトナム旅行であった。安いし、食べ物、特にパンが美味しい。ベトナムの大都市はハノイ、ダナン、ホーチミン東シナ海に面している。

今月にタイの1年ビザが取れたことだし、次回はホイアン辺りに長逗留して海で泳ぐか、開高健さんが彷徨った旧サイゴンホーチミンの夜を経験してみようかと思っている。

 

 

 

トード・タイへ行く

 

トードタイの朝市

同上

同上

同上

クンサーとツーショット、昔の写真


ヤングソルジャーと書いてあるがどう見てもまだ小学生



トード・タイへ行く

■日較差(日中の気温差)

チェンライの気温はこのところ最低気温14度、最高気温34度前後である。日較差が20度もある。うっかりすると朝晩の冷え込みで風邪をひいてしまう。年を取ると「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」という。そういえばテニス仲間のスイス人、ロバートが風邪をひいて1週間ほどコートに来なかった。気温14度というと自分にとっては極寒である。転びそうになるし、極寒下でのプレー、テニスのせいで世間の義理を欠くことになりかねない。

極寒はタイ人にとっても同じ、バイクにはダウンジャケット着用、左手はポケットに突っ込んで片手運転の人もいる。寒い割にはノーヘルで、代わりにフードを目深に被っている。危ないな、と思うがそれほどバイクが転がっていないところをみると運転技術が高いのかもしれない。

朝10時過ぎからどんどん気温が高くなって15時には33,4度になるのだが、湿度が30%以下であるから気温の割には過ごしやすい。冷房はもちろん扇風機もいらない。

日較差が大きい地方の米や果物は美味しいという。それは稲や果物は光合成でCO2と自ら澱粉(または糖)を作る。夜は光合成ができないので日中に合成した澱粉を消費する。夜間の気温が高いと澱粉の消費量が増える。夜間の気温が低ければ澱粉の消費量は少なくなり、より多くの澱粉が実に蓄えられる。山梨のブドウが甘いのも山間部で日較差が大きく、日当りのいい斜面にブドウ畑が広がっているおかげだろう。

チェンライ県は平均海抜500Mと言われている。それで市内でも日較差が大きいわけだ。さらに標高1000Mの山、ドイチャンはタイ珈琲の名産地で知られている。やはり日当りと日較差のお蔭だろう。

 

■朝靄と共に消える朝市

10年ほど前、泰緬国境に近いホエイモというアカ族の村に「ブランコ祭り」を見に行った。偶然、祭りを取材に来ていたバンコクのテレビクルーと一緒になった。あとで番組のDVDを見る機会があった。「お祭りには日本人も来ていました」といったナレーションが流れる中で餅をモソモソ食べている自分の姿が映っていて恥ずかしい思いをした。

その番組の中で村から一番近い街、トード・タイの朝市が紹介されていた。トード・タイの朝市は朝靄の中で始まり、朝靄の消える午前9時頃には店も人も姿を消す、とあった。朝市には国民党の流れの中国人やアカ族、ラフ族、モン族などいろいろな人々が集まる。豆腐を買うと「コップクンカー」の代わりに「謝、謝」と言われることもある。素朴かつエキゾチックな市場である。

その後、トード・タイには何度も行っている。何度も友人を案内している。みな、朝市散策を喜んでくれた。朝市で買い求めた油条(揚げパン)、豆乳、ゴマ餅、饅頭をGHのテーブルに並べた朝食も評判がいい。油条2B、饅頭5B、豆乳15Bと値段を数え上げ、こんなに安くてこんなに豪華な朝食は初めてだ、と感動した友人もいる。

トード・タイは海抜約1000Mの山間の街だ。チェンライ市内に比べ、さらに日較差は激しい。少数山岳民族のおばさんが1メートル四方の茣蓙の上に菜っ葉やキノコを売っている。もちろんもっと大きな屋台の店もあるが、いずれにしても9時過ぎには消えてしまう。ここの野菜は柔らかくて新鮮で甘みがある。何時もあるとは限らないが、春菊があったときは嬉しい。ポリ袋にぎっしり詰めて20B、おすそ分け用に4つは買う。

 

■クンサー旧キャンプ

朝市だけで字数は埋まるが、今回は久しぶりにトード・タイにあるクンサーの旧キャンプを訪れた。時折、旧キャンプの訪問記がネットにアップされているが、クンサーって何者?という人が少なくない。ラフ族の春節祭りで出会った英国人教授もクンサーのことは何も知らなかった。阿片をめぐるゴールデントライアングルの抗争といえばクンサー抜きには語れない。

クンサーは泰緬国境に覇を唱えたシャン族解放軍の指導者だった。米国は始め、彼らを訓練し、ゴールデントライアングルの共産軍と戦わせた。ところがベトナム戦争が終わるとタイ軍と共にトード・タイに立て籠るクンサーを攻める。一説には阿片利権をクンサーが米国に渡すことを拒否したからという。米国は麻薬王クンサーを200万ドルの懸賞金をかけて国際手配した。協力者を犯罪者に仕立て上げる。クンサーとビン・ラディンには通じるところがある。クンサーは2007年に亡命先のミャンマーで73歳の生涯を実業家として閉じた。

一時はシャン邦共和国の大統領だった。共和国が存続したら毛沢東ホーチミンと同じく民衆に崇められていたはずだ。クンサーゆかりの旧キャンプには10年前と同じく訪問者は誰もいなかった。

観光に行けない国

メーサイ、建物の向こうがミャンマー

奥のゲートの向こうがミャンマー

ラオス、ルアンプラバンのメコン

同上、夕暮

船でルアンプラバンに到着したファラン 望遠で

今は中国人ばかりでこういった雰囲気はないそうです。




観光に行けない国

■ビザランとメーサイ

日本人の場合、タイ入国に関してノービザで30日の滞在が認められる。一般的な観光や親族訪問であれば30日あれば十分だ。30日を越えて滞在したいときには有償ではあるがタイの入管事務所に行って観光ビザを取得する、あるいは空路で一度外国へ出てタイに再入国すればさらに30日の滞在が認められる。タイで出入国を繰り返して滞在期間を延ばす方法はビザランと言われ、昔はバンコクカオサン通り近辺の安宿街に沈没するバックパッカーに人気のあった方法だ。バンコクからカンボジアに日帰りで往復するバスも走っていた。でもタイ政府のルールが厳しくなり、現在、ノービザ入国の場合、観光ビザ、ビザランを含め、年間120日以上のタイ国内の滞在は認められていない。

チェンライなど北タイに滞在する旅行者は最北端のメーサイからミャンマーのタチレクに渡り、ビザランをしたものであるがそれが空路なら30日だがタチレクは陸路だからと延長日数が15日に短縮された。更に現在はタチレク経由でのミャンマー入国ができなくなっているので、メーサイに行く観光客やビザラン目的の外国人は激減している。

メーサイには中国製の物資が溢れ、ミャンマーやタイの買い物客で商店街は賑わっていた。でも今は人通りも少なく、道路際に並んでいた屋台も姿を消してしまった。メーサイには「ここがタイの最北端」と書かれた看板のあるテラスがあり、渋谷のハチ公前ほどではないがここで記念写真を撮る観光客で賑わっていた。ヤミ煙草や偽バイアグラを売る人が出没し、うるさいくらいに付きまとってきたものだが、今は人影もない。

 

■ビザのルールはコロコロ変わる

2022年10月から翌年の3月末までの期間限定で、日本人はビザなしで45日滞在できた。日本人だけでなく世界52ヵ国が対象だった。最近、中国とタイは相互に30日のノービザ滞在を認めるというニュースがあったところを見ると、これまで中国人はビザを取ってタイに来ていたようだ。2023年にタイを訪れた中国人は350万人であるが、コロナ騒ぎ以前の2019年の1100万人に比べ、3分の1に減っている。観光客を増やしたいタイ政府の気持ちが見て取れる。

また、タイ政府は2023年11月から今年の4月末までの期間限定であるがロシア人に対して90日のノービザ滞在を認めている。プーケットはホテル代や飲食代が滅茶苦茶高いと聞くが、ロシア人で溢れかえっているという。戦争に行く人たちとは別の階層(または階級)の人たちなのだろう。観光収入がGDPの10%以上を占めるタイにとっては外人観光客の落とす金は無視できない。タイ観光庁は欧米各国からの観光客に対しても90日のノービザ滞在を認めるよう政府に働きかけているという。日本人観光客に対しては同様の対策の働きかけはまだない。ノービザ滞在延長で邦人訪タイ客の増加は期待できないと思われているのだろう。

昨年、2023年にタイを訪れた日本人は約81万人、2019年の181万人に比べ激減している。これは円安のせいで海外旅行が割高になり、それなら国内の温泉にでも、という人が増えたせいだろう。なお2023年に日本を訪れたタイ人観光客数は100万人である。人口比が日タイで約2対1であることを考えると、タイ人が日本に押し寄せている、といってもいいのではないか。

 

ミャンマーに行ってみたいが

ビザランの必要はないが泰緬国境のタチレクには行ってみたい。タチレク経由で空路マンダレーに行ったこともあるし、ランナー王国の古都、チェントンにもタチレクからバスで行った。3年前にミャンマーで軍事クーデタが起き、現在も戒厳令が敷かれている。

ミャンマー軍部はタイでずっとプラユットの軍政が続き、国際的にも認知されていることから、我々も、と思っていたらしいが、タイと違って民主化のシンボル、スー・チーがいたため軍事政権は悪の烙印を押されてしまう。ミャンマー国軍は少数民族と国内で戦っている。昨年10月に国軍が北部シャン州で少数民族連合軍と戦って敗走した。ミャンマーは徴兵制で43万といわれるが実態は15万人で士気は低い。

チェントンまでのバスの道すがら、あちこちで国軍の駐屯地を見たが、こんな山の中ではゲリラの討伐はムリと素人目にもわかった。評論家の宮崎正弘氏もこの地域の治安の安定はあり得ないと言う。西側の経済制裁の陰で中国がミャンマー政府に肩入れしている。しかし中国は少数民族にも武器を売っているし、資金源である覚醒剤製造にも関与している。武器、弾薬が手に入るのだから内戦状態はしばらく続く。観光どころではない、がミャンマーの現状だ。

(尚、この2月に陸路でラオスに1日で入出国し、30日延長のタイビザが貰えたという情報があります。)

ラフ族の春節祭り

踊りの前の神事

柱の周りを囲む村人

 

踊り

ラフ族の母子

村の女の子

同上

 

 

 

ラフ族の春節祭

■タイの少数民族

タイは陸続きの国であるから歴史的に多くの民族が流入してきた。約6600万のタイ国民は、民族的には、タイ族が約85%、中華系が10%となっている。他にはモーン・クメール系、マレー系、ラオス系、インド系が暮らしており、山岳部にはそれぞれの文化や言語をもった少数民族が暮らしている。山岳民族は人口の1.5%、約100万人と言われている。山岳民族にはカレン族、モン族、アカ族、ラフ族、リス族、ミャオ族など、その多くは北タイの山地に住んでいる。そのうちラフ族は中国と同じく春節旧正月を祝う習慣がある。このたび、日本人会のHさんのお招きでラフ族の新年祭りに参加した。

ラフ族は中国、ミャンマーラオス、タイに居住する少数山岳民族で雲南省に45万、ミャンマーに15万、タイに10万いると推定されている。もともとはアカ族と同じくチベットが起源のようだ。アカ語とラフ語は共通点が多く、意思疎通は可能とのこと、アカ族とラフ族が同じ村に住んでいることも珍しくない。ラフ族はタイ語でムソーと呼ばれる。ムソーとは虎を狩る人という意味だそうだ。アカ族と同じく狩猟焼き畑移動農民である。焼き畑は2,3年すると土壌が瘦せて使えなくなる。そうなると新しい土地を求めて移動する。尾根から尾根への移住を繰り返しているうちにいつの間にかタイ国内に入り込んでいたというわけだ。タイの先住民族と書いているネットもあるが、実際にタイに移り住んできたのはせいぜい100年前くらいらしい。

 

■ラフ村で暮らすHさん

Hさんはチェンライの空港から30分ほどコック川を遡ったところに位置するラフ族の村に住んでいる。奥さんは明るく働き者のラフ女性だ。Hさんと自分は日本人会を通じて10年以上の付き合いだ。Hさんは「こんなところに日本人」といった日本のテレビ番組に出演したことがある。バンコクに到着したリポーターがHさんの住むチェンライのジャトロ村を知らないか、と街の人に聞く。知っているわけはない。それでチェンライまで来てどうしたら村にたどり着けるかと訊く。怪しげなお爺さんが「この村は僻地だ」と言って象で行くことを勧める。それでリポーターは象に跨ってHさん宅を訪れる。空港からH邸まで舗装道路が続いているのに、だ。北タイの山奥でラフ族と暮らしながら農作業に励む日本人、という設定だった。自分はその脚色に呆れたがHさんはテレビの「ツクリ」を承知で楽しく出演したそうだ。

彼の村の春節の祭りには何度か参加させて頂き、丸餅などをご馳走になったものだ。またチェンライ全域のラフ族の合同新年祭りが大々的に、全員民族衣装で開催されてことがあり、この時もHさんの案内で参加した。プミポン前国王の時代には王室から少数山岳民族を援助する資金が少なからず投ぜられていた。でも現ワチラロンコン国王が援助予算を大幅カットしたため、少数山岳民族の大規模な祭典はさっぱり開催されなくなった。

 

■弟さんの村で

今回の祭りはHさんの奥さんの弟さんの住むバーン・ナーレンナイ村で開催された。この村はラフ族の村としては大きく約100戸の家があるという。住民が多ければそれだけ踊りの輪も広がる。

村の広場の中央には高さ5Mほどの竹柱が4本据えられて、その柱に色とりどりのリボンがはためいていた。関係者の演説セレモニーが終わって、陽も暮れなずむころ、胴長の太鼓と銅鑼の音に合わせて踊りが始まる。太鼓がリード役になって時計と反対周りでステップを踏む。日本の盆踊りを思わせる。4種類ほどのステップがあるそうだ。太鼓のリズムが時折変わり、ステップもそれに応じて即座に変わる。ラフの民族衣装を着ている人は3分の1くらいだろうか。アカ族の村と同じく、若い女性は少ない。若い人は学校や仕事で村を離れてしまう。子供、年寄り、おじさん、おばさんが中心だ。

外国人は我々日本人だけかと思ったが、ファランが一人いて我々のグループに合流した。英国人で大学の英語教師、、教え子のラフの女の子が3,4人いた。彼女たちも我々と一緒にビールを飲んでくれた。20Bずつチップでも、と一瞬考えたのは、若い女性を見る機会と場所に乏しいせいだろう。

男女が2列になってお互い逆回転で踊る。これは万葉集にもある歌垣ではないか。歌垣の風習は、日本の他に、中国南部からベトナムインドシナ半島、フィリピンやインドネシアにも存在する。歌垣の習俗は、特に山岳焼畑地帯で顕著であり、もとは山岳地帯の焼畑耕作民の文化だったと考えられている。歌垣、ラフの踊り、盆踊りと話は広がる。チェンライの邦人だって偶には高尚な話をするのです。

 

 

 

裏金、派閥、統一教会

4年前訪問した故宮博物院から

桃の部分を望遠で

青磁

青花雲龍紋天球瓶、明時代

こんな器でお茶が飲みたい

感染症騒ぎで展示室にはほとんど人がいなかった

 

 

裏金、派閥、統一教会

■裏金問題

タイでも日本のテレビニュースを視聴できるし新聞も読める。テレビは68チャンネルがクリアな画像で楽しめるサービスがある。これでNetflixなどの映画視聴チャンネルがあれば、ほとんどカウチポテト状態で一生を終えることができる。阿片を吸いながら恍惚のうちに生涯を終えるのとどっちが幸せかなあ、などと考えるが、ニュースは気分がよくなるどころか、なんでかなあ、と呆れることが多い。

昨今、日本では裏金問題と派閥解消、それに統一教会のニュースばかりだ。裏金といってもパー券の売り上げ収入の分配と帳簿付けの問題だ。異論はあろうが、関係者が納得してパー券を購入したわけで、詐欺で巻き上げたとか税金をちょろまかしたわけではない。売上をどう分配しようが、何に使おうが「汚い」お金ではないのだから個人的には「勝手にしたら」と思う。

政治家に限らず、領収書をもらえない出費は誰にもある。タイ観光にやってくるおじさんに、出費明細を出せ、といっても「あのビヤバーのお姉ちゃんからは領収書もらえなかったけど」と正直に使途を明かすことはないのではないか。

岸田首相は、岸田派の会計責任者が立件され、首相自身が責任を追及されることを恐れて、派閥解消を言い出した。確かに立件どころか、まだ東京地検の捜査、事情聴取が始まっていない段階で安倍派の4閣僚5副大臣を更迭したのだから、同じ視点に立つならば、岸田派トップだった首相は首相職を辞してもおかしくない。マスコミはあっという間にこの目晦ましに乗って、派閥が悪いのだと言い出した。

派閥ではなくて、悪いのは裏金だったのではないか。裏金だって利益金の分配であり、政治資金規正法では金額が記帳されていれば問題ないことになっている。記帳漏れでした、と修正すれば、何千万円でも脱税には問われず、お咎めなし、は納税者として「なんだかなあ」と思うが法律の建前はそうなっている。何十億の政治資金を私物化し、土地を買った政治家もいるが、政治資金規正法、政党助成法に違反していないので罪には問われていない。

 

■派閥解消

車のハンドルに遊びがあるように、政治と金の問題ではある程度の許容範囲があっていい、と個人的には考えている。ガチガチに法律で縛れば、結局どこかに綻びが出る。

会社の購買担当が、出入り業者に夕方になると「今日はちょっと喉が渇いてねえ」と接待をねだることがあった。1,2度なら良好な人間関係を作っての情報交換、と大目に見られる。だが度重なってくると上司を含め、多くの人の知るところとなって、異動で担当を外される。政治家の場合、異動は選挙だ。適材適所に人を配置するのはトップの仕事、トップがだらしないと組織が緩む。政府与党がそうでないことを祈るばかりだ。

ところで、派閥の閥とは、出身や利害関係を同じくするもので結成する排他的な集まりをさす。この意味で財閥、学閥、軍閥藩閥などがある。与野党を問わず派閥はある。県はもちろん市町村議会にも派閥はあるだろう。医師会、相撲協会、柔道連盟、経営学会、歴史学会、会社や趣味の同好会などあらゆる組織には排他的集まりがある。

因みに2014年の学会名鑑によると、人文・社会科学系だけで464の学会があり、小分類の心理学・教育学には112の、経営学でも43の学会がある。学会同士の、また学会内部で議論を戦わして学問の進歩に貢献しているのだろう。だから政党の派閥解消で政治がよくなるとは俄かに信じがたい。国民もこれまでほとんど派閥解消など望んでいなかったし、派閥解消に対する国民の評価も低い。どーせ、またしばらくしたら派閥復活だ、と庶民は達観しているのではないか。

 

統一教会

統一教会は昔、「霊感商法」で悪名が高かった。安倍第2次政権時代に消費者契約法が改正され、契約の取り消し期間が10年延長されたので霊感商法はほとんど姿を消した。安倍さんは統一教会の敵といってもいいと思うのだが、安倍派は統一教会とべったり、という報道が多い。政治の圧力を受けて主管官庁である文科省統一教会潰しに躍起になっているようにみえるが、これはムリ筋ではないか。常識外のお布施要求は新興宗教にはつきものだ。創価学会員はいくつも仏壇を買い、聖教新聞を何部も取っている。統一教会が悪いのであれば、創価学会はじめ、他の宗教団体の集金活動はどうなのか。マスコミは宗教団体の実態を公平に検証すべきだと思う。

それに派閥解消を言うなら、与党内最大の派閥である公明党との連立を解消すべきだ、という声もある。書き出すと長くなるので本日はこれまで。

 

ビザ延長にヒヤヒヤ

チェンライ花祭りから

同上

同上

同上

同上

やはり蘭はきれい

 

ビザ延長にヒヤヒヤ

■1年ビザ

何処の国でも入国したらずっと滞在できるものではない。まず相手国の許可がないと入国さえできないことがある。この入国許可を査証(ビザ)という。日本の旅券保持者は世界70ヵ国にビザなしで入国できる。タイにはノービザで30日滞在できる。それ以上滞在するには通常はビザを取得する必要がある。

自分の場合、リタイアメントビザ(O-ビザ)と言われるビザを1年ごとに延長してタイに滞在している。このビザは満50歳以上で、タイ国内銀行に80万バーツ以上の預金がある人、または月6万5千バーツ以上の年金収入がある人。あるいは預金と年金の年間収入を合せて80万バーツ以上ある人が申請できる。要するに就労意志がなくて財政基盤のある人が対象だ。

毎年延長手続きが必要で面倒という人もいるがビザは相互主義が原則である。タイは日本人に30日のノービザ滞在を認めているが、日本がタイ人に15日のノービザ滞在を認めたのは2013年7月で、それまではタイ人は日本に観光に行くためにビザ取得が必要だった。更に日本はタイ人に1年のリタイアメントビザは認めていない。今、自分が1年ごとの延長とはいえ、安穏にタイで暮らせるということは、タイ国のお情けによるものと言っていい。相互主義だから来年はみんな日本に帰って下さい、と言われても仕方がない。この時、日本政府が何とかしてくれるという可能性はゼロと言っていい。

 

■度々のルール変更

毎年のことではあるがビザ延長の申請には神経を使う。何せ、お情けでタイ国にいさせてもらうのだから、申請書類に遺漏がないように気を遣う。申請書類は毎年同じはずである。でも旅券のコピー必要箇所が、年によって、入管事務所によって、担当者によって、その日の気分によって変わる。難癖をつけられて書類を突き返されたら、翌日出なおすことになる。出直しが数度にわたる場合もある。

以前は貸家に住んでいたため、家屋の貸借契約書、大家の身分証明書のコピー添付が必要だった。コピーには大家自筆のサインがいる。サインの色は青インクでなければ、言いかえれば本紙でなければ突き返される。当時は兄や母の1年ビザにも同じ書類が必要だったから、大家さんのサイン入り身分証明書をカラーコピーして青色サインの原本として提出した。上に政策あれば下に対策ありだ。母が銀行、入管に出頭できない理由書となる医師の診断書もカラーコピーで何年か凌いだ。

ブログにも書いたが、ある年、銀行が本人でなければ残高証明書は出せないと言い出した。母は寝たきりだ。窓口の銀行員はルールが変わったの一点張り、本店の偉い人と電話でやり取りしたが結果は同じ。もちろん、入管窓口では残高証明がないと、という。タイ人の口利きで家庭裁判所や怪しげな弁護士を回ったがどうにもならない。あの時は心労で頭髪が全部抜けてしまうのではないかと心配した。だが法王庁にも抜け穴がある。タイも結果的にはチェンライ地裁だかの高官のおばさん(勲章付きカーキ色の制服を着て広い個室にいた)が入管事務所の所長さんに電話をしてくれて、通帳があればいい、で母の1年ビザは下りた。

女中のブアさんは炊き立ての日本米の丼飯とふりかけを高官のおばさんに持っていった。おばさんはオホー、と相好を崩して受け取ってくれた。入管事務所には茹でたての玉蜀黍を10本ほど差し入れた。こっちも喜んで受け取ってくれた。

 

■今年の入管は

十数年前はビザ手続きに際して旅券に500B札を挟んで係官に渡すようにと言われたものだ。古くからいる邦人には常識のようだったが、今は裏金を払う人はいない。

ともあれ、今年の1年ビザの延長は、6カ月の預金証明の取り直しと旅券コピーの不備を指摘されたものの、申請は当日に終わり翌日にビザが交付された。昨年は感染症騒ぎの影響か入管事務所の待合室は人がまばらで申請、即交付に近く、時間も30分ほどだったが、今年はファランや中国人で待合室はぎっしり、10時前に行って呼び出されたのが11時半、書類不備で午後またおいで。昨年までは当日の残高証明でよかったのだが、これから人によっては1年の預金証明(要するに通帳の当該期間の出入金明細の証明)を要求されるようになった。旅券のコピーページは係官によって言うことが違うから、無駄となってもいいから全頁のコピーを持参したほうがよさそうだ。

13時に再度、入管に出向いたところ、待合室はすでに一杯となっていた。ああ、2時間待ちかと諦めかけたら、午前中の係官が手招きで呼んでくれ、最優先で手続きをしてくれた。昔からいる係官で玉蜀黍を喜んでくれた人だったことを思い出した。

 

チェンライの2月

 

タイ米、手植えだと思う。

育っている

 

直播か

育っている

 

タイ米の苗だと思う

直播、生育状況はいろいろ

 

チェンライの2月

■乾季の終り

11月から2月までは乾季で旅行のベストシーズンである。まず雨の心配がない。乾季だから全く降雨がないということはないが、チェンライの2月の平均降水量は8mm/月だ。東京の2月の平均降水量は56mm/月も比べると少なさがわかる。気温も最低気温は15度前後、最高気温は31度前後、平均気温は22.4度と快適だ。ただ日中の気温差が15度くらいあるので、朝晩の冷え込みで風邪をひく人もいる。

8時過ぎにはテニスコートでラケットを振っているが気温は17,8度、青い空には燕の群れが飛び交っている。先日、新入りの英国人が「このコートのいいところはどこかね」と訊いてきた。そりゃもちろんお金を請求されないことだよ。十数年ここでプレーしているがコート代を払ったことがない。仲間と楽しくプレーできることが一番だが、二番目の魅力は、週5日もコートを使わせてもらっているのにタダということではないかと思う。

2月は中国正月、春節があるので交通機関が混みあう。何年か前はチェンライにも中国ナンバーの車が我が物顔に走り回って結構、事故っていた。でも今年は中国経済の悪化の影響で春節にチェンライに押し掛ける中国人は少ないのではないか。2019年にタイを訪問した外国人観光客数は4千万人弱、そのうち1千万人以上が中国人だった。外人観光客の4人に1人は中国人だった。でも2023年、昨年タイを訪れた中国人観光客はコロナ後であったにも拘わらず、351万人と激減している。訪日中国人数も同様な傾向を示している。

■タイ農業の変化

12月から2月にかけてチェンライの田んぼでは田植えが行われている。チェンライでは1年を通して米が収穫できるのであるが、気温の関係か乾季に田植えを行う田んぼが多い。別に収穫期に台風が来るとか、霜がおりるとかの心配はないから、適当な間隔をあけて田植えが行われる。12月から2月にかけて田植え、とのんびりしていられるのは常夏の恵まれた気候のお蔭だ。

十数年前は田んぼに村人が十数人入り込んで和気藹々と田植えをしていたが、昨今は自動田植え機が主流、日本並みに整然と苗が並んでいる。田植え機も2,3カ月に亘って稼働するから効率がいい。日本のように農家毎に耕運機や田植え機を揃える必要はない。米の収穫には大きなトラクターがやってきて1ヘクタールほどの田んぼでも30分くらいで籾を収穫し、稲藁は粉砕して田んぼに撒きちらしていく。刈取り脱穀機も長期間稼働できるから収穫作業は専門業者に委託するようだ。

タイの稲作作業の大型化、専門化が進んでいることはアジア経済研究所のタイの稲作農業における経営規模分布:機械化と農業サービスの影響という研究でも示されている。機械化が進むと農業の経営規模の大型化が進む。(タイの稲作農業における経営規模分布:機械化と農業サービスの影響、タイの稲作農業における経営規模分布:機械化と農業サービスの影響 (ide.go.jp) など)

■タイの日本米

自分がチェンライに来た2009年には日本米は本当に限られたところで手に入る貴重品だった。でも今ではスーパーでも手に入る。機械化、品種改良で日本米の生産拡大が進んだのだろう。タイでササニシキ、ひとめぼれなどの銘柄米、最初は随喜の涙で味わっていたが、日本に帰国してみたら、日本の米はタイの日本米のはるか先を行っていることに気づいた。日本の米はご飯をおかずにして食が進むほど美味しい。

MOMOKA JAPANでも外国人が日本のお米はどうしてこんなに美味しいのか、と愕然としている。南欧をはじめ欧米でもコメを食べるが、主食ではなく野菜扱いのせいか銘柄米の話は聞かない。日本米の味を知った外人から日本米の需要が世界に広がるかもしれない。

中国人が日本の米を買って帰国するという話はあった。中国人も日本米のおいしさを知っている。そこで日本米を中国に輸出しようという動きがあったが、関税、防疫制度などの制限があって拡大しているとはいいがたい。その前に中国では日本米をルーツとする「稲花香」という米が開発され、銘柄米として人気を呼んでいるという。偶然に開発されたというが日本の銘柄米を掛け合わせて改良したことは明白だ。無断でなんだよ、となじると中国の農業専門家は、もともと稲作は中国から日本に伝わったものだ、何の問題がある、と開き直るそうだ。(最近のDNA研究によると縄文人が日本から大陸に渡って殷以前に稲作を教えたという)

テニスの行き帰り、道路際から広がる青田を眺めて心が洗われるような気がしている。でもタイはもとより、世界中どこの国でも日本の米を越える美味しい米は生産できない。これだけは日本を信じている。