チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

コロナ新型肺炎

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チェンライ花博から

 

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1月でもコスモスの花盛り

 

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ボランティアガイド

 

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チューリップはタイ人のお気に入り

 

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ユリも好まれる

 

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3色すみれか


コロナ新型肺炎

 

■70都市の封鎖、4億人の隔離
1月以降、ニュースと言えばコロナ新型肺炎のことばかりだ。カルロス・ゴーン氏の逃亡事件も、米中経済戦争も、イラン・米国の軋轢も、北朝鮮制裁も、日本の経済不安もすっかり霞んでいる。

産経ではコロナ新型肺炎の呼称を「新型肺炎」に統一しているが、ネットでは武漢肺炎、コロナ肺炎、コロナウィルス感染症などが使われている。米国の中国コロナウイルス論議では日本と異なり「肺炎」という言葉がまったく使われない。この感染症を肺炎だとする根拠はなく、実態はなお不明だという思考からという。WHOでは中国共産党の意向を受けて新型肺炎には中国を連想させない呼称を使うとのことだから、これからは武漢肺炎や中国コロナウィルスは姿を消すだろう。

これまで新型肺炎について書かなかったのは、毎日のように報道が変わるというか、情報が錯綜するからだ。武漢市で昨年12月初めにコロナウイルス感染者が確認され、地元の医療関係者が警告しても、習政権はその情報を隠蔽し、人から人への感染はないと報じた。習政権が感染症を認めた後も対外的には感染症武漢市内だけに抑えられたという虚偽の報告をしていた。

ノンフィクション作家の川添恵子さんの報告によると、英国の複数メディアは、ロンドン大学インペリアル・カレッジ公衆衛生学部副学部長のニール・ファーガソン教授による「感染症学のモデルによると、中国では毎日少なくとも5万人が新たに新型コロナウイルスに感染し、感染者数は5日ごとに倍増すると計算した」という発言を、五月雨式に報じているという。
中国メディアの一部は「70都市が封鎖された」と報じ、英字メディアの一部は「すでに4億人が隔離されている」と報じている。各省・各都市は“封鎖式管理”という名の未曽有の自治状態になっている。

これは2月11日のネット記事から拾ったもので、この原稿アップ時には更に患者数が増えているだろう。10日にテニス仲間のスイス人、ロバートが見せてくれた携帯には感染者数は25万人、死者は2万5千人となっていた。とにかく中国が外国医療チームの調査を認めず、コロコロ変わる数字を出してくるので何が本当かわからない。

■米国には予め情報提供
河添レポートはさらに続く。
外交部の華春瑩報道官は2月3日、「非常時の非日常の方法」として、前代未聞のネット上での記者会見を開いた。その際、「1月3日以降、新型コロナウイルスのアウトブレーク(集団発生)に関する情報と、予防対策について米国に計30回通知した」「真っ先に撤退したのが武漢市の米国領事館員で、米国は中国の出入国に対する包括的な制限を発表した」との不満を漏らした。

この直後から、武漢市民のみならず中国人民の怒りが爆発した。
「中国政府は、米国に先に伝えた?」「米国は1月3日に知り、武漢市民は1月20日、ようやく知ったのだ」「これこそが党の機密の漏洩(ろうえい)であり、湖北省政府が早々に北京に伝えていたことの証明だ!」「ウイルスの発生を開示した医師を捕まえ、人民には事実を伝えないどころか、重要な発生初期段階に隠蔽工作をしていたとはどういうことか!」。

■良心的医師の死
というのも武漢市の医療関係者8人が昨年末、SNSで「SARS重症急性呼吸器症候群)のような症状の患者がいる」と警鐘を鳴らした。その1人、眼科医の李文亮氏(34)が、新型コロナウイルスに感染して集中治療室にいることが、CNNのインタビューで分かったのだ。
その後、李医師に対して、武漢市保健衛生当局から、市内の医療機関に「いかなる組織または個人も、関連する治療情報を無断で公開してはならない」との通知、警告があった。
 さらに、1月3日には、武漢市の公安から「SNSで噂を広めた」「社会秩序を著しく損ねた」として李医師は軽犯罪に問われ、「違法行為をしない」と約束する声明への署名を迫られたという。
 その李医師は2月7日未明、新型肺炎でこの世を去った。所属する武漢中央病院が発表し、国内外で報じられた。彼の死を知った全国の人民が、「習政権への不信感」を強烈に強めたことは間違いない。

■医療と無縁の人たち
武漢は人口1100万人、そのうち500万人は医療の恩恵を受けられない農民工だ。病院での死者は感染死にカウントされる。しかし病院にも行けず、ひっそりと死んでいる農民工はどうなるのか。30人しか医師、看護師のいない病院に2万人の患者が押し寄せているという。封鎖されているのなら医薬品は届かない。日本から送ったマスク、保護衣も現地には届かず、どこかに転売されているものもあるらしい。何時、中国人民の怒りが爆発するか注目している。

 

六氏先生の碑に詣でる

 

 

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六氏先生の写真

 

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六氏先生遭難の碑

 

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碑の周りで子供がかくれんぼをしていた

 

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故教育者姓名、この碑が4枚ある。

 

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閉っていたが展示室を窓から撮った

 

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神社であったことを偲ばせる石段

 

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士林駅前 206番のバスで6番目


六氏先生の碑に詣でる

■芝山巌(しざんがん)へ
六氏先生(ろくしせんせい / りくしせんせい)または六士先生は、日本統治時代の台湾に設立された小学校、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)で抗日事件により殺害された日本人教師6人のことである。

MRT淡水信義線・士林駅で下車する邦人観光客は少なくない。台北でも最も賑やかな士林夜市はこの駅前から始まっている。また世界4大博物館の一つ、故宮博物院へは士林駅からバスで行くことになる。駅前にはひっきりなしに故宮博物院行きのバスが停車し、観光客を乗せて慌ただしく走り去っていく。

博物院方面ではなく、士林駅から206番、天母行きのバスに乗って約15分、6番目のバス停が芝山公園だ。八田興一、根本中将ゆかりの地を巡ってきたが、台北ではこの芝山公園にある六氏先生の碑を見たいと思っていた。戦前、台湾を訪れた日本人は必ず、六氏先生の碑に詣でたという。

■芝山巌事件
1895年、下関条約により台湾が日本に割譲され、日本による統治が始まると、当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、初代台湾総督に就任した樺山資紀に「(台湾の統治政策の中で)教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え、同年6月、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮の一部を借りて同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。

最初は生徒6人を集め、台湾総督府学務部長となった伊沢と教師7人の計8人で日本語を教えていた。次第に周辺住人に受け入れられ、同年9月には生徒数が21人になり甲、乙、丙の3組に分けて授業を行っていた。

1895年の暮れになると台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかった。

1896年1月1日、6人の教師と用務員が元旦の拝賀式に出席するために芝山巌を下山しようとした時、約100人の抗日ゲリラに遭遇した。教師たちはゲリラたちに説諭したが聞き入れられず、用務員を含む7人全員が惨殺された。ゲリラ達は、日本人の首を取ったら賞金が貰えるとの流言から襲撃を掛けたと言われており、7 人を殺害した上に着衣や所持品を奪い、さらに芝山巌学堂の物品も略奪した。この事件は、台湾にいた日本人を震撼させたのみならず、日本政府にも重大視され、丁重に葬儀を行うとともに、台湾統治の強化が行われた。芝山巌学堂は3ヶ月間の授業停止の後に再開された。


「六氏先生」と呼ばれる教師は以下の6人である。

楫取(かとり)道明(山口県華族、38歳、吉田松陰の甥)
関口長太郎(愛知県士族、37歳)
中島長吉(群馬県平民、25歳)
桂金太郎(東京府平民、27歳)
井原順之助(山口県士族、23歳)
平井数馬(熊本県平民、17歳)
ウィキペディアより)

■事件その後
彼らの命をかけて教育の必要性を説いた姿は「芝山巌精神」と言われ、人々の間で語り継がれるようになった。
この「芝山巌精神」は当時の教育者に影響を与え、多くの教師が危険を顧みず陸続として台湾に赴いた。統治直後、総人口の0.5~0.6%だった台湾の学齢児童の就学率は1943年頃には70%にもなった。また終戦時には識字率が92.5%に登り、後に台湾が経済発展をする基礎となった。

1930年には「芝山巌神社」が創建され、六氏先生をはじめ、台湾で殉職した教師が、台湾人を含め、1933年までに330人祀られた。

■歴史に翻弄
戦後、日本色を一掃しようとする国民党の支配が始まり、神社は破壊され、六氏先生を惨殺したゲリラは侵略者の手先を成敗した抗日義士として称揚された。
芝山巌学堂の後身である台北市立士林国民小学の卒業生により、教育に命をかけた「六氏先生の墓」が再建されたのは事件から100年余経った1995年、李登輝総統の政権の時だった。

芝山公園は台北盆地を見下ろす丘にあり。緑に囲まれ、市民の散歩道となっている。神社の名残である100段余りの石段を登る。登り切ると、事件のあった1896年に建てられた「学務官僚遭難之碑」が目に付く。伊藤博文の揮毫、幅60㎝高さは約3m。戦後、この石碑は国民党政府によって引き倒され、大きなベンチになっていた。しかし、郷土の歴史を物語る遺構として、2000 年に建て直された。

石碑の近くには台湾の地で殉職した教師たちの名が刻まれた石碑が4枚ほどある。一度は叩き壊されていたものを復元したものという。女性の名も台湾人の名もある。台湾を日本と同じように、という先人の気概と、それに引き換え戦後の我々は、の思いを抑えることができなかった。

マウンテンバイクの応援

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力走する日本女子

 

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ゴール直後、力尽きる

 

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男子エリートスタート

 

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1,2位は日本

 

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大きくジャンプ、かなりのスピード、迫力満点

 

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1,2位の表彰台



マウンテンバイクの応援

 

■自転車合宿のメッカ、トゥーン
1月の末のことである。チェンライから60キロほど離れた街、トゥーンに住むNさんがふらりと現われた。Nさんはラオス縦断、それにチュンポン、タカの渡り見学3000キロのツーリングを共にしたバイク仲間である。

Nさんの奥さんはトゥーンでGHを営んでいる。いつの頃からか、このGHに自転車競技の選手が冬の合宿に日本から集まるようになった。日本では交通法で、自転車が並走して公道を走ることができない。その点、チェンライ郊外の舗装道路は車の往来が少なく、数十キロの練習コースはいくらもあるし、山にはマウンテンバイクに適したダートコースもある。北タイの乾季はほぼ晴天続きで気候も温暖である。トゥーンに集まる選手の中にはオリンピックやツールドフランス出場者もいる。そういった一流選手と一緒に練習ができるというのでアジア各国の選手も集まるようになった。Nさんはもともと自転車競技の経験があり、競技団体の役員も務めている。コーチとしても有名らしい。

その彼がアジアマウンテンバイク選手権がチェンライ県のメコン河近くのチェンセーンで開かれるから、よろしかったら応援に来て下さい、と予定表を呉れた。1月29日から2月6日まで9日間の日程、男女、ユース、混合、リレーなど様々なジャンルがある。えー、どれを見に行けばいいですかね。4日の女子エリートファイナル、並びに男子エリートファイナル、これを見に来ればいいでしょう。

■マウンテンバイク
マウンテンバイク(MTB)とは、荒野、山岳地帯等での高速走行、急坂登降、段差越えなどを含む広範囲の乗用に対応して、軽量化並びに耐衝撃性、走行性能および乗車姿勢の自由度等の向上を図った構造の自転車である。自転車競技というとロードレースやトラックレースのように軽快な自転車でスピードを競うものを連想するが、MTBは太い、ゴムイボ付きの頑丈な自転車である。

自転車競技の歴史は1868年のパリ郊外サンクルーで行われた1200mレースに始まり、1892年にはロードレースが行われ、1896年の第一回アテネオリンピックの正式種目となっている。自転車競技自体は由緒ある競技であるが、MTBが登場したのは1970年代、そしてMTB競技がオリンピックの正式種目となったのは1996年のアトランタ大会からというからまだそれほど競技の歴史はない。MTBの歴史は構成部品開発の歴史といってもよく、アルミ合金、クロモリ鋼、チタン、カーボン等が使用された最高級品になると1台100万円を超える。欧米、アジアで自転車競技がハイソサエティのスポーツと言われているのもこんなところにその理由があるのかもしれない

チェンライで開催されたアジアマウンテンバイク選手権は今年で26回目という。あまり知られていないがタイでは自転車競技が盛ん、王室で自転車を推奨しているせいかもしれない。またタイには日本では考えられないほどの大金持がいて、その子弟が滅多にみられない最高級自転車を携えて競技大会に現われる。

■スリルと迫力のレース
チェンセンのゴム林と山を切り開いて作られたコースは1周4.8キロ、関係者によると、コースは「赤土の粒子の細かいダスティーな路面に、きつい登りとスイッチバックスのコーナーやジャンプにバームの人工物などバリエーションが豊富で、クライミングも長い登りやきつい登りなどバランスの取れた」ものという。

このコースを5周する女子エリートファイナルにはオリンピック選手を含む4名の日本女子が参戦したが、5位が最高の成績に終わった。1,2位は中国勢のワンツーフィニッシュ、3位はイラン。かなり過酷なレースで、ゴール直後に気を失い、救急車で運ばれる選手もいた。

女子レースの後に開催された男子エリートでは、序盤から日本勢がレースを掌握。全日本王者である山本幸平と平野星矢が他国選手を振り落として1周目からワンツー体制を敷き、後半にかけて表彰台確保を磐石のものとしていく。終盤に入ると山本が独走体制に入り、そのままアジア選手権10勝目を手にした。平野選手は2位と日本勢でワンツーフィニッシュ。異国で聞く君が代と日の丸は格別のものがある。

山本選手はNさんのGHで見かけたことがあるが、オリンピックに3度も出場しているとは知らなかった。スピード、安定性、ジャンプ、あらゆる面で他の選手を圧倒しており、走りに風格を漂わせていた。ぶっちぎり優勝の山本選手であるが、スイス、フランスの横綱大関クラスの選手に比べると前頭上位がいいところという。でも幕尻優勝の例もあることだから東京五輪では是非、日の丸を上げてほしいものだ。

金門島にて死す?

 

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高粱畑

 

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翟山坑道内部

 

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同上

 

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内部見取り図

 

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こんな良い道でも走れなくなった

 

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雨川食堂内部



金門島に死す?

■サイクリング
金門島の広さは約150平方キロ、瀬戸内海の小豆島と同じ位である。小豆島と言えば素麺、醤油、オリーブ油、それに坪井栄の小説、「二十四の瞳」が思い浮かぶ。多くの入り江、半島に恵まれ、温泉もあるところから訪れる観光客は少なくない。最近は電動自転車も借りられるので、全島一周のサイクリングに人気が出ているという。

携帯で予約したホテルはホテルは畑の中の一軒家だった。ホテル入口横には30台ほどの自転車があった。観光地に出かけるには自転車を使えということであろうか。小豆島でもサイクリングが盛んなのだから、金門島も自転車で回れるということらしい。
到着した日にタクシーで主だった名所、戦跡を見て回った。それほど道路の数があるわけではない。その夜、行った場所を空港で貰った金門島全図で確認してみた。古寧頭や都市部である金城市には10キロほどしか離れておらず。充分自転車で行けることがわかった。また、島であるからそれほど道路の数があるわけではない。道を間違う心配もなさそうだ。

■高粱畑
金門島2日目の朝8時過ぎ、数ある自転車の空気圧、ブレーキの利き具合を確かめて、先ずは金城市へ向かう。前日に気が付いたのだが、金門島には水田がない。やたらと穂が長い玉蜀黍畑が広がっている。これは玉蜀黍ではなく高粱と後で知った。金門島は水がなく、かつてはサツマイモ、落花生くらいしかできなかった。高粱が栽培され、それを醸造、蒸留した高粱酒が金門島名物になったのは比較的最近のことで、古寧頭、金門砲戦で活躍した胡璉将軍が高粱酒の会社を作ったのが始めとか。

糸杉に似た並木道の道路を金城市へ向かう。途中、右手に古寧頭戦史館へ曲がる道があったが、帰りに寄ろうとそのまま通りすぎた。金城市のある金城鎮は人口4万、商店や飲食店が立ち並ぶ都市である。ここまで1時間余り、道路は空いているし、暑くもなく、寒くもなく快適である。海にぶつかったので道路を南下して翟山坑道へ向かった。

■翟山坑道
翟山坑道は金門島の南西部、海に直結して作られたトンネルである。金門国立公園管理處によって改修が行なわれ、1998年正式に観光地として公開された。全長357mのA字型隠し水路は、金門砲戦のあと3年の歳月をかけ1966年に完成したもので、小型上陸艇の基地として使用された。洞内には波止場も設置されている。

有事の際は、ここに40隻以上の小型舟艇を避難させ、またここから海上へ出撃することができるという。幅6m、高さ3.5mの地下道を100mほど行くと、外海につながる水道に行き当たる。海とつながっているので水路を覗きこむと多分クロダイと思われる魚が数匹遊弋しているのが見えた。洞窟内部は青い照明に照らされて、軍事施設とは思えないほど幻想的である。音響効果が素晴らしいということで時折、演奏会が開かれるという。そういえば獅山砲陣地も花崗岩をくり抜いた坑道で、坑内の天井が高く、広い場所でコンサートが開催されるとあった。金門島にはこのほかにも坑道を掘った軍事施設があるから、坑道演奏会を巡る旅を売りだせば更に観光客が増えるかもしれない。坑道の入り口の前は広い公園となっていて、戦車や大砲、高角砲、上陸用舟艇などが展示されていた。

■ステントが外れた?
翟山坑道見物を終え、昼食を摂ろうと金城市に戻ろうとした。来るときは気が付かなかったが、なだらかな坂になっていて、登ろうとしても力が入らない。おりて自転車を押す。下り坂になったら再び自転車に乗る。週に数回テニスをしていても、テニスと自転車では使う筋肉が違うようだ。日差しも強くなってきて、ペダルを踏む足が動かなくなってきた。目の前が暗くなる。市内に入ったものの金門楊家、雨川食堂という牛飯店の前の歩道にへたり込んでしまった。このへばり方は尋常でない。もしかしたら数カ月前に施術した心臓冠動脈のステントが外れたのではないか。日本の老人観光客、自転車に凭れたまま不審死、と新聞に載るのであろうか。金門島にまで来て外務省や兄弟に迷惑をかけることになるのか。

食堂横にあった自販機でお茶を2本買い、それをゆっくり飲んでいるうちに眩暈も治まってきた。何か食わなくては、と雨川食堂に入り、牛肉ご飯とテールスープの昼食を摂った。食べたら元気になったと言いたいが体力は低下したまま。ペダルを踏む足は重い。左手に古寧頭戦史館への道が出てきたが、とても行く元気はない。なんとか3時過ぎにホテルへ帰着、6時間のサイクリングだったが、サイクリングはほぼ半世紀ぶりだったことに気付いた。慣れないことと合わせ、暑さで熱中症に罹ったのだろう。

金門島観光スポット

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獅山砲陣地入口の薬莢

 

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8インチ榴弾砲

 

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触っても怒られない

 

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馬山観測所入口、かなり狭い

 

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大陸反攻のスローガン

 

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テレサテンが大陸呼び掛けの放送をした部屋




金門島観光スポット

 


■タクシー利用
空路、高雄から金門島へ渡った。ホテルは携帯のWiFiで予約した。タクシーで着いたホテルは周りに何もなかった。食事はホテル備え付けの自転車で5分ほど離れた食堂に行くしかない。泊り客は中国本土からの団体客が多かった。習近平主席は1国2制度を拒否した蔡英文総統への嫌がらせとして中国本土からの個人旅行を禁止したが、団体客は今のところ台湾観光が認められている。金門島福建省厦門から10キロ、フェリーで1時間足らずの近さだから、2001年に951人だった中国人観光客は2017年には35万人に激増したという。この島では中国の人民元も使える。

到着した日の午後はタクシーで観光名所を回ることにした。4時間貸し切りで4千円程。40代の女性運転手はガイドではないのだが、携帯の翻訳アプリを使って、行く場所のことを説明してくれた。お任せであったが、山后民俗文化村、獅山砲陣地、馬山観測所、古寧頭戰史館、北山古洋楼など、金門島で行くべき所を案内してくれたと思う。

■獅山砲陣地
1958年8月23日午後6時に中国人民解放軍は、中華民国の大金門島・小金門島に対し火砲459門で砲撃を開始した。戦闘開始2時間で4万発、1日では5万7千発もの砲弾が使用された。世にいう「823戦役(金門島砲撃戦)」である。人民解放軍による砲撃は、米中国交樹立が成る1979年1月1日までの約21年間にわたって定期的に続けられた。その間、金門島に打ち込まれた砲弾は総計47万発にのぼるという。

制空権、制海権がなく、また米軍が台湾の後ろで睨みをきかせていたため、結局、人民解放軍金門島への上陸、武力制圧を果たすことができず、砲撃戦は失敗に終わった。国民党政府は米国から提供された8インチ榴弾砲厦門人民解放軍砲兵陣地を攻撃し多大な損害を与えた。この8インチ榴弾砲が今でも中国本土に向けられているのが獅山砲陣地である。陣地入口に珈琲ショップのような案内所があったが、その建物全体が直径20センチ、長さ50センチほどの薬莢で囲まれていた。

岩をくりぬいた隠し砦の先端にピカピカの大砲が据えられている。即、使用に耐えられるなと思ってみていたが、1日に何度か観光客のために空砲を発射するパフォーマンスがあると後で知った。陣地から対岸の建物がかすかに見える。発射音は中国にも届くのではないか。

■馬山観測所
金門島東部の最北端にある「馬山観測所」は、対岸の中国を警戒・監視するための軍事施設である。入口には「還我河山」(故郷の河と山をかえせ)、という大陸反攻のスローガンが掲げられている。ここから厦門の高層ビル群が望見できる。この観測所の建物は日本統治時代にできたらしい。厚いコンクリートに仕切られた迷路のような観測所内を巡るうちに、旧式のマイクが置かれた小部屋が目についた。この観測所から大陸へ向けた宣伝放送を行っていた時期がある。部屋の中に軍服姿の女性の等身大写真がある。テレサ・テンではないか。
テレサ・テンがこの観測所から「大陸の同胞たちが、私たちと同じ民主と自由を享受できることを期待します」と呼びかけたのは1990年代のことという。

■鄧麗君の時代
彼女の曲は海賊版カセットテープにより、1980年代初めには中国大陸の人々の心を掴んでいた。1986年、改革開放路線を進める中華人民共和国においてテレサの歌が事実上解禁されたことで「昼は鄧(小平国家主席)が、夜は鄧(麗君)が中国を支配する」と言われるほど人気が拡大した。

1989年5月27日には、かねてから中華人民共和国内で起きていた民主化要求デモを支援する目的で行われた、香港ハッピーヴァレー競馬場での中華人民共和国民主化支援コンサートに参加。約30万人の前で、平和を願う「我的家在山的那一邊」(私の家は山の向こう)を歌い、亡命した民主化活動家とも交流を持った。その直後、天安門事件が起こり、1990年に予定されていた中国本土での初のコンサートが中止になった。当時、彼女は「夢は殺され 夢は見ることさえできなくなってしまった」とその心境を語っている。

90年代から次第に体調を崩していく。そして1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメーピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。42歳という若さだった。

放送室の等身大パネルは顔と身体部分の写真を別につなぎ合わせたのか、不自然な印象を受ける。壁際の戸棚には雑然とカセットテープが積み重ねられて殺風景な室内と合わせて、侘しい感じがつのる。終焉の地となったメーピンホテルも改装のため取り壊された。80年、90年代はもう遠い時代になるのだろうか。

 

1月も終わり

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チェンライ花博から

 

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花博、ボランティアガイド

 

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ミャンマーチェントンの市場から

 

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チェントン中央市場にて

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チェントン、お経を聞く少女

 

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チェントンの暴走族? よく見るとビールを飲んでる

 


1月も終わり

 

■時事解説を見て過ごす
ついこの間、新年を祝ったと思ったら、もう1月も終わりである。月日の経つ早さに愕然とする。己の生きてきた70年余の年月で一年とかひと月を振り返るわけだから、益々時間の経過の速さを感じる。速さを感じなくなった時が命尽きる時か。
とはいえ、このひと月、いろいろな出来事があって退屈はしなかった。先ず、カルロス・ゴーン氏の逃亡、スレイマニ司令官殺害に伴う中東の緊張、金正恩北朝鮮労働党委員長の病気1129説、蔡英文氏の圧勝に終わった台湾の総統選、日本経済の先行指標が軒並み下落、米中経済戦争で追いつめられた習近平主席、更には中国武漢で発生し、世界に蔓延している新型肺炎問題など、どれも2,3本はブログがかけそうな大事件ばかりである。
テニス以外はさしてやるべきこともないので1月は概ねネットでニュースの後追いをしていた。ユーチューブで産経新聞の阿比留記者がいつも産経の電子版をとって下さい、と懇願するので産経の電子版をとろうと思ったが、手続きがよくわからない。精神的だけではなく経済的にも産経を応援したいというのにAIに疎い老人は全く救いようがない。取りあえず産経のネット記事の有料会員に登録できたので阿比留さんには暫くこれで我慢して貰うことにした。

■花の写真を撮り溜める
毎年、年末から2月にかけてチェンライでは花博が開催される。蘭の花を中心にダリアやチューリップなど美しい花が人の目を楽しませてくれる。チェンライ県とチェンライ市が競うように行うのであるが、それは県知事と市長が別の政党出身なので、対抗心を燃やして予算措置を講じるとのこと。でも花を愛でる身としては同じような趣向であっても綺麗であれば言うことはない。ブログ原稿によっては本文に関係する写真が見つからない場合がある。そういった場合、花博で撮ってきた写真をブログに貼付する。内容と関係ね―じゃねーかという批判を受けたこともあるが、まあ花を見て怒る人は少ないと思うので、我がブログは結構、蘭を中心とした花の写真が多くなる。今月は県の花博に2回、市の花博に2回行って、写真を何百枚も撮ってきた。これで今年はブログ添付の写真には困らない。

■カメラを換えたので
昨年5月にオリンパスE-PL3からニコンのクールピックス900にカメラを換えた。オリンパスも悪くはないがニコンは何と言っても超望遠83倍、いくら携帯で撮れる写真が鮮明といっても望遠はムリだろう。オリンパスが机の横で「すっかりお見限りですね、いい人でもできたんじゃない」とすねているような気がするがついつい、ニコンに手が伸びる。蘭や百合を近くに寄らずともズームで撮れるのはなかなかいい。枚数とズームでいくらかは腕の悪さをカバーできるように思う。
花博では可愛い女高生がボランティアのガイドを務めている。もちろん頼めば一緒にカメラにおさまってくれる。望遠で彼女たちの表情をとらえたが、ごく自然な感じのポートレートが何枚かあって自分なりに満足できた。

■チェントン撮影旅行
1月は3日から2,3日、ミャンマーのチェントンに行っていた。昨年4月にも行っており、2回目の訪問となる。かつてのランナー王国の都、こじんまりしていて心が落ち着く街だ。休憩もいれてタチレクから片道5時間のバスの旅となるが川に沿って走るので、風景写真も撮り方によってはこれまでよりいい写真が撮れるはず。チェントンには近郊の山岳民族が集まる中央市場がある。それぞれ特有の衣装、頭巾を付けている。田舎であるから垢ぬけた美女はいないが、深いシワの刻まれたお婆さんは味のある顔をしている。超望遠のカメラで市場の人物写真に挑戦してみよう。カメラにつられてミャンマー旅行だ。

チェントンのワン・ツリー(高さ66mの大木)のある公園では、たむろしていたバイク男女が自分のカメラに気づくと「ニーハオ」と言いながら全員でポーズをとってくれた。ラオスカンボジアでは中々こうはいかない。チェンライでは子供も女高生もニッコリとポーズをキメてくれる。タイが好きだからタイに住み続けているわけだが、こういった人懐こさもタイのいいところだと思う。

タイに住んで12年目に入る。自分はタイ化しているから、つい日本でも子供や女性にカメラを向けてしまうかもしれない。変なおじいさんがいるんです、と通報されて、警察のお世話になり、数少ない友人、息子や娘に愛想を尽かされる。文化の違いでとんだ目に合わないとも限らない。タイにいても日本に帰っても、また何処の国に行ってもそれなりの緊張は必要である。

金門島4

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右最上段が38式歩兵銃

 

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これが人民解放軍上陸用舟艇

 

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古寧頭の浜、対岸の中国本土が見える。

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トーチカ内部から浜を見る。

 

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長閑な風景

 

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古寧頭村の家屋に残る銃弾のあと





 

 

金門島4

 

■雪中送炭
根本中将は行きのときの漁船での船酔いがよほどこたえたのか、はたまた蒋介石のお礼の気持ちか、帰りは飛行機で帰国している。羽田に着いたとき、タラップを降りる根本中将の手には釣り竿が一本握られていた。中将は家を出るとき、家族に「釣りに行って来る」と言って出た。そのときの釣り竿を3年間ずっと持っていたのである。

根本中将は無欲の人であったが、帰国後、日本バナナ輸入協会会長を長らく勤めている。戦後のバナナ輸入と言えば、蓮舫さんのお祖母さんを持ち出すまでもなく利権の塊だ。これは根本中将に対する中華民国政府のせめてものお礼の気持ちであったのだろう。

平成21年に台湾で古寧頭戦役60周年式典が行われた。この慰霊祭に根本の出国に尽力した明石元長の息子・明石元紹や、根本の通訳として長年行動を共にし、古寧頭の戦いにも同行した吉村是二の息子・吉村勝行、その他日本人軍事顧問団の家族が中華民国(台湾)政府に招待され、中華民国総統馬英九(当時)と会見した。
また、明石元紹と吉村勝行の帰国の際、中華民国国防部常務次長の黄奕炳中将は報道陣の前で「国防部を代表して、当時の古寧頭戦役における日本人関係者の協力に感謝しており、これは『雪中炭を送る(困った時に手を差し延べる)』の行為と言える。」とした感謝の言葉を述べた。

■アジア独立のために戦った残留日本兵
金門島北西部は金門国家公園となっている。この公園の海岸近くに古寧頭戦史記念館がある。記念館、正面の壁には戦闘場面のレリーフが、その前にはカーキ色の戦車がある。古寧頭戦役で活躍した米国製M5軽戦車だ。弾を打ち尽くしたこの戦車は古寧頭海岸を縦横無尽に走り、ロードローラーとして人民解放軍兵士を押し潰した。
戦闘においては兵士の士気もさることながら、武器の優劣が勝敗を分ける。人民解放軍は歩兵中心、空からも海からも援護はなかった。それに引き換え、国民党軍は戦車はあったし、空軍の援護、更には海軍の戦車揚陸艦が解放軍の上陸用舟艇を破壊したように装備面で共産軍を上回っていた。

記念館の中には戦闘場面の絵画が飾られていた。蒋介石総統が凱旋パレードに使用したジープもあった。兵士が使用した武器も展示されていたが、歩兵銃の中に日本の38式歩兵銃があった。人民解放軍は旧日本陸軍の武器をソ連から供与されて国民党軍を大陸から駆逐した、と言われている。でも国民党軍も一部、旧日本陸軍の武器を使用していたことがわかる。日本に関する展示物は歩兵銃だけで、根本中将始め、日本軍人の記述は全くなかった。これは中将の願いでもあったのだから仕方がない。

インドネシアではスカルノ独立戦争に数千名と言われる日本兵が参加したし、フランスを追いだしたベトナム戦争では数百名の日本軍人がベトミンを指導した。マレーシアでは300名ほどの日本兵がマラヤ民族解放軍に参戦した。台湾でも根本中将とは別に白団(パイ団)という旧日本軍人の一団が国民党軍の近代化に協力している。

もちろん八路軍、即ち人民解放軍日本兵を含む残留日本人を八路軍編入することで軍事技術や専門技術を得た。空軍のなかった八路軍は林弥一郎少佐以下、関東軍第二航空団第四練精飛行隊員を取り込み、東北民主連軍航空学校を設立し、航空部隊を養成した。また、正規の砲兵隊がなかったので日向勝を筆頭とした日本人教官の基で砲兵学校を設立した。医師や衛生兵、看護婦など、戦争に欠かせない技術を持つものは日本に帰国させず、国共内戦勝利後も長きにわたって徴用した。人民解放軍と共に戦った日本兵は一説によると3万人というが、前記の一部を除いて歴史から抹殺されている。

■穏やかな風景
古寧頭戦史記念館の裏は砂浜になっていた。対岸の大陸が望見できる。砂浜には鉄杭が無数に刺さっている。敵の上陸を阻止した名残だろうか。浜を見下ろすように十数個のトーチカがあって、分厚いコンクリート壁にあいた10センチほどの銃眼から青い海が見えた。1949年にはこのようなトーチカが220個作られたという。遮蔽物のない海岸に追いつめられた人民解放軍は、四方からの銃撃になすすべもなかった。この浜に敵兵を集めて殲滅するという根本中将の作戦通りの展開となった。トーチカをバックに若いカップルが記念写真を撮っていた。この浜が兵士の血で染まったことがあるとは信じられないくらい穏やかな風景だった。