チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

確率100%

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横浜、三渓園

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園内の蓮池から

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園内の聴秋閣

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古民家内部

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三渓記念館、美術館になっている

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移築された燈明寺本堂


確率100%


■貧しさとは
連休 中も連休後も生活のリズムはそれほど変化がない。図書館へ予約図書を受け取りに行く。遠回りであるが商店街を通って家に戻る。運動はこれくらい。人と会わないからベネディクト派の修道士の如く、人と話すことなく黙考の日々を送っている。独り暮らしではあるが寂しくはない。「われ富めり連休古き米五升」ではないが、米は充分ある。冷蔵庫には食材が入っている。飲もうと思えばビールも酒もある。不足なら買いに行けばいい。昭和の御代に生まれただけでこんなに安心、安全の環境に暮らせる。有難いことだ。

曽野綾子さんによると「貧しい」とはその日食べるものがない、という状態をいうそうである。今夜食べるものがない時、人はどうするか。穏やかなやり方は3つしかない。

1.水だけ飲んで寝る 
2.乞食をして食物をめぐんでもらう 
3.盗む

これら3つの解決法は自力でやるほかない。国とか組織は今夜の食事に関しては何も役に立たない。実は、国民等しく3食まともに食べられる国は世界的には多くない。

日本でも数十年前には戦災孤児がいたし、欠食児童も珍しくなかった。今は飽食の時代、偶に餓死、あるいは孤独死の事例が出ると、寄ってたかって、国や自治体を非難する。食物を得る、健康は自分で管理する、個人に関することは自力更生が基本ではないか。豊かになるにつれて、他者の援助を当てにし、それを当然と思い、もっと寄こせ、という。物質的に豊かであっても心が貧しい、そういう人が増えているのではないか。

■上も下も無責任
日本は世界的に武漢肺炎をうまく抑え込んでいる国だ。少なくとも先進各国はそう見ている。自分が注目している数字は武漢肺炎による死者の推移である。これまで死者数が1日100名を越えた日は2日だけである。ずっと2桁、それも70歳以上の高齢者が大半、先日、大阪での死亡者の年齢内訳を聞いたが100歳以上が6名と言っていた。年寄りが死ぬのは当たり前だ。

英国ではワクチン接種率が5割となり、1日あたり死者数が2桁に下がってきたので、感染症規制緩和を始めている。英国での総死亡者数は12万5千人、1日あたり1000人以上の人が武漢肺炎で亡くなっていたのだから、日本並みの死者数ならば抑え込み成功と思うのは無理もない。

ところで、日本人の死因データランキングによると、年間、がんで37万人、心疾患で21万、老衰で11万、脳血管疾患で11万、肺炎で9万人亡くなる。年間1万人以下の武漢肺炎はベストテンにも顔を出していない。武漢肺炎よりも転倒、風呂場での溺死を心配するほうが先だ。

日本は武漢肺炎を抑え込んでおりますので、経済、教育、レジャー等、社会活動を2019年並みに行います、これが責任ある政治家の発言だと思うが、何か策を講じてくれというクレクレ国民に阿り、責任を回避しようと緊急事態宣言を続行した。政策を丸投げされた専門家が「科学的根拠はないが…」という前置きで指図する。爆発的に陽性者が増え、死者は40万人と発言していた医療関係者が「間違っていた、社会を騒がせた責任を取って、」と割腹自殺をしたという話も聞かない。

■確率100%のこととは
武漢肺炎にかかる、がんが見つかる、あるいは認知症にかかる、は確率の問題で、すべての人に降りかかる問題ではない。でもはっきり、100%の確率で起こることは「あなたは死にます」だ。最近、暇があれば山田風太郎の名著「人間臨終図巻」を開いている。八百屋お七から始まって泉重千代さんまで享年順に古今東西の有名人の死に方を紹介した本である。どんな人も必ず死ぬ、そして(自殺は別にして)死に方と死に場所は選べない。

自分らしく、まあ我が人生それほど悪くなかったのでは、と思って死にたいが、そういう人は稀である。ただ、今の感染症騒ぎを見ていると、ワクチン接種が遅いの、手続きが面倒だのと国や組織に不満をのべる、幼稚な性格の人々が多いような気がする。
自分の健康は自分で管理して、人には迷惑をかけない、それで感染症に罹患したら、運命として諦め、人のせいにはしない。世話になった医療関係者、組織に感謝して死ぬ、これくらいの覚悟はもちたいと思う。

少なくとも「今が踏ん張りどころです、ここを切り抜ければ、」などと、ここで一発長打が出ればいいですね、という野球解説者のような政治家、医療関係者の無責任発言に右往左往して、何もしてくれないと恨み言を言いながら死ぬ、そんな死に方はしたくないと思うけれど、死に時と死に方は選べないから・・・・・。

 

新緑の候

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三渓園、入り口を入ってすぐ

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庭と建物が共存

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菖蒲

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移設された古民家

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園内の梅の実

 

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ニコンクールピックスP900

 



新緑の候

■自慢のカメラがダウン
拝啓 新緑の候 緑がまぶしい季節になりました。時候の挨拶には決まり文句があって、昔はこんな書き出しの手紙やはがきをしたためたものだ。新緑の候は、概ね5月に使われる。その前は、晩春の候という。今年の立夏は5月5日だったので、5月4日までは「晩春の候」を使う、のだそうだ。でも八重桜が散り、木々が若葉に被われる4月中旬以降は「新緑の候」が相応しい。昨年は桜の花に雪が積もり、春の訪れが遅かった気がする。今年は気温が高く、4月半ばにはツツジが満開となり、木々の緑が鮮やかになってきた。チェンライにも四季はあるという人もいるが、日本のような4月、5月の新緑はタイにはない。

4月末、ブログ用の写真を撮ろう、と明治神宮に出かけた。バスの中で自慢のニコンクールピックスP900を作動させてみたが、画面が真っ暗で何も映らない。叩いても揺すってもオン・オフを繰り返しても作動しない。

P900は購入してまだ3年だ。でもラオスのバイク単独行で強度の衝撃を与え続けたため、ファインダーの画像がボケるし、一部の機能が使えなくなっている。修理のためニコンに持ち込んだが5万ほどかかるのであきらめた。娘の心臓手術を受けさせてやれない不甲斐ない父親の気持ちでP900を大事に使ってきた。おい、しっかりしろ、と揺すってもダメ。デジカメを叩いて治す70代、苦労をかけっぱなしの3年だったなあ。

■新機種購入寸前
価格コムでカメラを調べた。在庫があれば1,2日で手元に届くらしい。新機種、人気はミラーレスの高級機に集中している。いいカメラは欲しい。でも価格が、30万、40万となると躊躇する。デジカメの高級機を検索する。同じP900の中古機でしばらく凌ごうかとも考えた。P900は83倍の超望遠でそれが魅力の一つであるが、手ぶれするし、空気のせいか鮮明度がいまいち、それに望遠は30倍もあれば充分というネット情報もあった。P900は1600万画素、でも今どき最低2000万画素は欲しい。重量も500g以下が望ましい。

3日に亘る調査、熟慮の結果、最終的にニコンパナソニックの2機種に絞った。価格は5万前後、えいや、とポチる直前、ふと思い直して、傍らにあったP900を起動させてみた。一瞬画面が出る。もしや、と思い、SD カードを新品に入れ替えてみた。すると以前通り、画面は出るし、シャッターも切れる。奇跡の回復だ。奇跡ではなく、SDカードの容量が一杯になったため、自動的に休止画面になっていただけらしい。それを叩いてみたり、座布団の上で転がしてみたり、とひどいことをした。ごめんな、痛くなかったかな、DV亭主が改心して謝る、という気持ちがわかったような気がする。

三渓園にて
P900に後遺症は残っていないだろうか。新緑の季節、運動を兼ねて横浜の三渓園に回復記念撮影に出かけた。

三渓園は、明治時代末から大正にかけて、製糸、生糸貿易で財をなした原三渓が、東京湾に面した”三之谷”と呼ばれる谷あいの地に作り上げた、広さ175,000㎡(53,000坪)の日本庭園である。京都や鎌倉などから移築された17棟の歴史的建造物と四季折々の自然とがみごとに調和した景観が見どころとなっている。

交通の便がいいところではないが園内はまずまずの人出、緑が眩しい。池の端には菖蒲も咲き始めている。明治神宮では1キロの金属の塊に過ぎなかったが、ここではP900 も本来の働きをしてくれる。
園内で紋付、袴、打掛の新婚カップルを何組か見かけた。美しい景色をバックにプロが写真を撮る。こういった式場外で撮る写真を「前撮り」というそうだ。品性がよろしくないので、令和の時代には死語となった「前貼り」を連想してしまうが、前撮りは欧米では一般的で、台南でも夕暮れの林百貨店をバックに写真を撮る新婚カップルがいた。

前撮りの費用は15万円前後、写真家と助手3,4名のチーム、どういうわけか女性編成が多い。頭髪を後ろに束ね、黒のズボン姿、これが彼女らの制服といっていいようだ。撮影は園内で場所を代えながら1時間以上続く。遥か遠く離れた橋の上に立つカップルに「自然にお話して景色を楽しんでくださーい」と呼び掛け、望遠レンズで撮影している。さすが商売道具、いいカメラを使っている。ミラーレスの望遠だろうか。

前撮りという現象は自分の若い頃にはなかった。またタイでも新婚さんの前撮りは、自分の知る限り、見たことがない。自撮り棒が必需品といわれるほど写真好きタイ人が前撮りをしないのはどうしてだろう。

友人に「盗撮カメラ」と揶揄されているP900で橋の上の花嫁さんを撮った。綺麗に写っていたが公開はしない。あくまでP900の性能確認です。

 

モラエスゆかりの地、徳島(4)

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亜珍とジョアン、ジョゼの2子 右はモラエス

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コハルの写真

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幸運に巡り合った永原デン

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参考にした本1

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参考にした本2

 

モラエスゆかりの地、徳島(4)

■亜珍
展示室で、モラエスと関わりのあった女性、亜珍、おヨネ、コハル、そして永原デンの写真を見て回った。

亜珍はジョアン、ジョゼの2人の息子と写っている。新田・藤原父子の「弧愁」では、亜珍は強欲でヒステリーの悪女として描かれている。でも亜珍は3度来日、徳島には2度やってきてモラエスと会っている。モラエスも息子が成年になるまで養育費を払い続けているし、亜珍の兄は香港一の大富豪の妹と結婚していて、その一族の庇護のもと、長男は大実業家に、次男は香港大学建築学を学んだのちに米国に渡っている。

「弧愁」の中に神戸で再会した次男にモラエスが「得意科目は何かね?」と訊ねる場面がある。ジョゼは「数学です」と答える。これは数学者である藤原正彦教授のツクリではないかと笑ったものだが、ジョゼはマカオのカレッジで数学教師をしていたことを後で知った。案外、藤原さんのホラ話ではなかったようだ。

モラエスの亡くなる前年、亜珍は徳島に来た。庭先で洗濯をしている亜珍にモラエスが羊羹を勧める。手が汚れるからという亜珍にモラエスは駒下駄をつっかけて、亜珍の口に羊羹を入れてやった、と隣人が証言している。
亜珍母子は何度かマカオでの同居を申し出ている。亜珍たちがモラエスにたかろうとした、は彼の被害妄想から来たものだろう。

■コハル
コハルはおヨネの姪であり、病床にあったおヨネを神戸で看病している。モラエスの徳島移住に伴い、彼の世話をするようになった。

「コハルは、健康をうっているかと思われるような、背の高い、小麦色の、陽気な、生き生きとした娘であった。美人とは言えなかった。それとはほど遠くすらあった。だが、ほっそりした横顔、おてんばらしいきびきびした動作、—彼女は主として戸外で育ったのだ―率直な柔和なまなざし、まっ白な二列の歯並びを見せて口元に絶えず浮かべる微笑、かっこうのよい手足に魅力があった。それに、彼女のような貧しい階級の大部分の女にくらべれば、聡明であった。自然の美しい事物を前にして好奇心の強い、研究心のある、感じやすい、芸術的なすぐれた気質に恵まれていた」(コハル)

コハルとモラエスの徳島生活はわずか3年、その後は独り暮らしとなる。おヨネとコハルの墓参り、これがモラエスの生涯にわたる日課となった。

■永原デン
みすぼらしい格好でよたよた歩きまわる変な外人、屈辱的な扱いをされても仕方がない、などと自虐的に書いているが、故国で文名が高まるにつれて、モラエスは徳島の有名人になっていく。東京からも訪問客がやってくるし、原稿の依頼にも応じなければならない。百田尚樹さんほどでもないが、自著の売れ行きに一喜一憂している。ピエール・ロチや小泉八雲と並び称されて、身に余る光栄と喜んでもいる。最晩年は別にして、多忙かつ幸せな徳島生活であったように思われる。

お祭りとか近所の返礼など、自分がタイのお寺にタンブンするよりは多額のお金をモラエスは出していたので、周りからは小金持ち、とは思われていたようだ。でも死後、残された預金を見て皆吃驚した。23500円、今の貨幣価値にして2億円ほどあった。もっと人が驚いたのは、遺産の半分を、神戸で6カ月ほど妾奉公をしてくれた永原デンに寄贈すると遺書に記されていたことである。

当時の山陰新聞には「寂しく逝いたモラエス氏/十数万の遺産を廻り/過ぎし日の思ひ出/思はぬ福音ころげこむ/今は矢田夫人の彼女は語る」という見出しで、デンのインタビュー記事を掲載している。デンは最終的に徳島警察を通じて遺産を受領したが、訪徳の際に夫婦はモラエスの墓に詣でたという。デンは遺産受領後、数年ほどして島根で肺炎のため亡くなっている。モラエスはデンの故郷、小泉八雲の住んだ島根に移住するつもりだったが、彼の選んだのは徳島であった。

■最期について
モラエス認知症に罹り、糞尿まみれで死んだということです、と中村光夫が言っている。これは山田風太郎の「人間臨終図巻」から孫引き(丸写し)したが、実際はどうか。

1924年の6月30日に手伝いの斎藤ユキ(コハルの母)を下がらせた。その翌日、7月1日に土間に転げ落ちて亡くなっているモラエスが発見された。発見者は長屋の隣人である。軽い脳出血リュウマチ、糖尿病、心臓病のため、身体は不自由であったが、頭のほうは最後までしっかりしていた。独り暮らしでも周りとの関係を保つことは大切と分かる。

モラエスの独特の生き方は日本の文人に影響を与えた。吉井勇は「モラエスは 阿波の辺土に死ぬるまで 日本を恋ひぬ かなしきまでに」と詠んでいる。

 

本シリーズでは岡村多希子著「モラエスの旅」彩流社(2000年)、花野富蔵訳「おヨネとコハル」集英社(1983年)を参考並びに引用させて頂きました。

モラエスゆかりの地、徳島(3)

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眉山のモラエス

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公民館もモラエス展示室

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福本ヨネ

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ほんの口絵から

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展示室の写真

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モラエスの書斎を模したもの、展示室から


モラエスゆかりの地、徳島(3)

■おヨネだろうか、コハルだろうか
徳島で独り暮らしをするモラエスはある夏の夜、外出先から戻り戸口に立った。

「しかし、あたりはまっ暗で、あやめも見えない。やるせなくもぐったりとなって、糠雨に濡れそぼち、気分もよくなかったので、鍵穴に鍵をさしこむことも、戸をあけることもせずに、とつおいつ、ためらっていた。ほんの一、二分過ぎたが、長い時間が過ぎたような気がした。こうして、ほとんどほとんど絶望に近い気持ちにおしやられていた。すると、その時であった。たった一本の木、すっくと家の入口に突っ立って門番の代わりをしている茂った一本の樫の枝葉の隙間を抜けて、一匹の蛍が青い光を放ちながら、私の周囲を廻り始めた。それは私の手もとの錠前のすぐ間近であったので、らくらくと、わけなく、鍵穴に入れることができた。こうして、やっと家の中に入ることができた。」

モラエスは、これは偶然ではなく、蛍が死んだおヨネかコハルの化身ではないかと思い至る。

「われとわが胸に問うた最後の疑問の後、私は急に心臓の鼓動が止まるほど強烈な、何とも言えない悲痛な気持ちに襲われた。ほんの一瞬が過ぎた。まもなく、落ち着きを取り戻してから、やっとこの言葉を口ごもった。?『おヨネだろうか?‥‥ コハルだろうか?‥‥』。苦痛に歪んだ震える唇から、やっとこの言葉が出た。そうして口ごもって、まっ暗な空間を見つめ、蛇行形の弧を描いて大空に高く昇っていく、小さい星くずに似たその虫けらの小さい光を、いつまでも追っていた・・・・・
おヨネだろうか?‥‥ コハルだろうか?‥‥」

■追慕の想い、「夢みつつ」から
死者が、かつて生きていた時の嬉しい追憶を胸に抱きしめていて、鳥や虫に化身してこの世に戻ってくる、これは日本人特有の考え方だ。モラエスは日本人と言ってもいいほど日本の文化に浸っていた。日本に惹きつけられれば惹きつけられるほど、異国に住む外人の孤独を感じる。想いはいつも切なくおヨネとコハルと結びついている。

おヨネさんは25歳でモラエスと一緒になり、13年後、38歳で亡くなった。温和で美しいだけではなく、「使いふるしの絹の布切れ、古くなって役に立たなくなった小箱、絹糸の束の残り、毛糸の束の残り、受け取った郵便葉書、手紙、年賀状、店の領収書、小さな絵、身内の写真」など価値のないこまごまとしたものまでかたづけ、まとめて、箪笥の引き出しに大切にしまっておく、「整理好きな、善良な、無邪気な、愛くるしい性質」(夢みつつ)の女性であった。

夢の中でニコニコと微笑むおヨネに向かってモラエスは「もう二度と死なないでおくれ。その通りに生きて、お前の生まれ故郷のこの徳島で、この淋しい独り暮らしを慰めておくれ・・・・」と呼び掛ける。やがて目が覚め、幻影が消えた後も、その微笑は彼を見続けていた。「私はどうやら、おヨネがこれほど優しい女とは思ってもいなかった。ありがとうよ、本当にありがとうよ、ああ、私のかわいそうなおヨネよ‥‥」、おヨネの死から7年たって書かれた短編「夢みつつ」の最終部分である。

■モラエス展示室
モラエスの記念館は眉山のロープウェイ山頂駅の近くにあった。でも山頂公園の再開発に伴って、徳島市役所裏の公民館の一室に移されている。
公民館3階にある部屋のドアを押すと、読書中だった初老の男性が「どうぞ、どうぞ」と招き入れる。モラエスの子供の時から晩年までの写真が壁いっぱいに飾られている。弧愁(サウダーデ)を含む関連図書も展示されている。展示室右奥にはモラエスが晩年を過ごした長屋の書斎が再現されていた。

早速、おヨネさんの写真を探す。これまで小さな口絵でしか見たことがなかった。大きな写真を目の当たりにしてその美しさに改めて感動した。おとがい細く、目元の涼しい楚々とした美人である。縞の着物、手を膝の上に揃えている。ふっくらとした顔と日本髪に比べ、肩の線が細く、はかなげである。

22,3歳の頃からモラエスと懇ろになり、25歳の時に46歳のモラエスと同棲を始めている。同棲後、2,3年しておヨネは心臓病の最初の兆候を見せている。亡くなる前の6年間は病床にあり、「互いに愛し合うふたりの兄妹のように暮らしていた」。元気な時は連れ立って神戸から徳島へ旅行しているし、亡くなる2カ月前には須磨にある敦盛の墓に出かけた。茶店で桃を買い、ひとつをすぐに食べ、ひとつをモラエスに渡し、残りを二人で持って、気分晴れやかに戻った、とある。これが二人の最期の外出だった。

理髪店にて

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春の院展から

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同上

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同上、小品が多い

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同上

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同上、美人画は廃れたのか

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同上、会場は日本橋三越

 

 

理髪店にて


■ナイナイ尽くし
孤独死予備軍の特徴を一言で言えば、ナイナイ尽くしだという。つまり、友達がいない、掃除をしない、料理をしない、ふとんをたたまない、身の回りを気にしない・・・・。
若い頃、大先輩に会った。それなりに社会的地位もある人だったが、無精髭、服装もなんとなくだらしなく、生気に乏しい、昔を知っていただけにむさくるしい老い方を痛ましく思ったものだ。
そういった思い出があるものだから、独り暮らしではあるが毎朝、髭を剃るし、風呂にも毎日入る。散髪も月に1回行く。また清潔で小ざっぱりした服装を心掛けている。

チェンライでは「やはり市内中心にある100B(330円)プラスチップ20Bの高級理髪店でないと」という人もいるが、自分の行きつけは近所にあるおばちゃんの店、カットだけで50Bだ。3年前まで30Bだったからタイもインフレが進んでいる。50Bで髭剃り、洗髪付きのところもあるが、200円足らずでそんなにサービスしてもらっては申し訳ない。

日本では1100円のカットオンリーの店に行く。むさくるしくなければいいのだし、髪型に凝るほど髪の量も無い。
近所の理髪店に行った。どのように刈りましょう、そうね、バリカンでスソの方を刈って上はハサミで1センチか2センチ、切りそろえてください。まあ適当にやって、という意味でそう答えた。髪型に思い入れがあるわけでもない。
理容師は困惑したような表情だ。「髪はひと月で約1センチ伸びます。2センチだとこれくらい、それに毛先を切りそろえるときは約5ミリ切ります」。

■散髪で激昂
散髪をめぐって激昂する客が増えているそうだ。1センチと言われてその通りに切ってもなんでこんなに切った、俺のイメージとは違う、とクレームする。やはり、感染症で皆さん気が立っておられるのではないでしょうか。30代の理容師は言う。いわゆるキレる老人が文句をつけるのかと聞いたら、最近は老若、万遍なく怒り出すという。
散髪の終わりに後頭部を合わせ鏡で客に見せる。もう少し刈って、と言われるとほっとするそうだ。切り過ぎたらもとに戻せない。客に、もう少し刈って、と言わせる切り方がベストなのだという。

2センチ切られてもさあ、2カ月すればまた生えてくるんだし、それに本人が気にするほど刈り方でもてる、もてないは関係ないんじゃない?
理容師は、お客さんみたいな方ばかりだといいんですけれど、でも、という。

付き合う時、性格がいいとか、お金持ちかということは付き合ってからわかる。先ずは見た目がきっかけとなる、街でイケメンを見ても、ああ、こういう髪に刈ればもっと好感度が上がるのになあ、またブサメンでもこういう風に刈ればイケるのに、などと思う。散髪はきっかけだから大切ですよ。

理容師さんの話から彼が自分の仕事に誇りと自負を持っていることが感じられた。高級店であろうとなかろうと、こういった職人気質を持った人がどこでもひたむきに頑張っている。

席を離れるとき、もう一度鏡を見た。ウン、さっぱりした。理容師さんに「これで『きっかけ』はできたね、どうもありがと」。1100円は前払いだし、チップを渡すわけにもいかないからせめて、コトバだけでも・・・・。お互い、笑顔で別れた。

■自分も怒り心頭
武蔵小山のような下町でも歩く人は皆小ざっぱりとして、貧しそうな人はいない。でも世の中には何もわかっていないのに上から目線で指図し、他者を非難する人がいる。心が貧しい、と思う。

また緊急事態宣言が出た。灯りを消せ、酒は飲むな、パチンコはいいが映画はダメ、その根拠は何も言わない。対策会議の学者まで「科学的根拠はないが、」と言いながら指図する。根拠がなければ口にすんな。こういった人たちに「一緒に頑張りましょう」と言われても頑張る気など出てこない。だから盛り場の人出が減らないのだろう。

ワクチン接種がすすめば、憑き物が落ちたように静かになると思うが、マスコミや野党は今、感染者が増加すると喜ぶ。政権批判ができるからだ。もし感染者80万人、死者40万人となっていたら嬉しくて踊りだしたに違いない。

日本は世界から感染抑止に成功した国とみられている。死者が激増している国が先にワクチンを打つのは当たり前の話。今、日本がワクチン確保に走れば世界から非難を浴びるに決まっている。あと半年待てばいいだけの話だ。それに1万人死ぬと言っても大半は何もしなくても死ぬ70以上の老人ばかり。

武漢肺炎というように発生元は中国だ。厚労省や官邸に文句を言う前に、怒りはまず中国に向けるべきではないか。「(中国に謝罪と賠償を求めて)一緒に頑張りましょう」と都知事は言わない・・・だろうな。

モラエスゆかりの地、徳島(2)

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徳島市内を流れる川、欄干も阿波踊り

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駅前の大通り,シャッター街f:id:hidenaka24:20210424093404j:plain

眉山山頂、高校生の遠足

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山頂より徳島市街を見る

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山頂のパゴダ

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徳島ビルマ会の生き残りの方はいないだろう

 


モラエスゆかりの地、徳島(2)

■久松留守
「お染久松」は宝永5年(1708)に起こった大坂瓦屋橋(かわらやばし)油屋の娘お染と丁稚(でっち)久松の心中事件を題材にした浄瑠璃・歌舞伎などの通称である。

歌舞伎では「お染久松もの」としていくつかのバージョンがある。その一つ、「新版歌祭文~野崎村」は、純情な田舎娘お光と許嫁の久松。久松への叶わぬ恋に死ぬ覚悟のお染。若い三人のせつない恋の結末は、痛ましいまでの哀しい幕切れへと向かう、とある。

心中のあった後、大坂では不思議な疫病が流行した。お染の逢いたい思いの願望が余りにも激しいので、毒気、殺人的な熱を発した。そして、この不思議な訪問者に訪問された人を熱病に罹らせ、殺してしまう。‥‥この疫病の異変はこう説明された。そして、その疫病は「お染かぜ」という深長な意味を含んだ名で知られるようになった。それから200年後、スペイン風邪が日本にも押し寄せた。この時、庶民は「お染かぜ」の再来に他ならないことを発見した。人々は小さい紙切れに「久松留守」と記し、そこら中の家の入口に貼るようになった。お染の霊魂がそうした文字を読むと、その家に入って荒らさないで他の家を訪ねると予想して…。

モラエスは書く。
「久松留守」! なんてやさしいまじない。ほとんど涙がこぼれるほど感動させられるし、あまりにも強く胸を打たれるので、いま書いているおしゃべりで、どの表題よりも、特に、この表題を選んだ。「久松留守」—苦悩している哀れな人類が、言葉や思想でその運命を支配する神秘的な力、万能で慈悲深い神仏に向かって発するおびただしい救援の叫びと一緒になっていく、いま一つの救援の叫びである…。

以上はモラエスが1919年に書いた「久松留守」の一部である。モラエススペイン風邪蔓延の前に亡くなったコハルとおヨネが傍らにいるという悲しい錯覚をこの短編の結びにしている。

この時から100年、今、武漢肺炎で大騒ぎであるが、人が取りうる手段は「久松留守」の神仏に発する救援の叫びに等しい‥‥。灯りを消せば感染拡大を防げるのだろうか?

徳島駅から眉山
モラエスは1913年にすべての公職を離れ、おヨネの墓がある徳島に移り住んだ。彼は「神戸大坂にくらべて温暖な気候が自然に助長する永遠の怠惰のうちに眠りこけている貧しい土地である」と徳島を概観した後で、「徳島は、何よりもまず、神々の町、仏たちの町、死者の町であり、人々は善良で信心深い」と紹介している。
明治22年(1988年)に市制が施行され、全国に40の市が出来た。徳島は当時人口6万を越え、全国で10番目の大都市であった。

徳島駅から眉山へは歩いて10分ほどの距離である。大通りの両側の商店街になっているがシャッターのおりた店が多く、物寂しい。県庁所在地であるが人口25万と、四国4県の中では一番少ない。眉山の標高は290m、山上は公園となっており、そこにモラエス銅像があることを知っていた。眉山の麓の寺町には彼とコハルの墓がある潮音寺がある。またモラエスの住んだ伊賀町もこのあたりだ。

眉山山頂に向かうケーブルカーは2両編成だが、客は自分とカップルの2組だけ。よって1車両に一人となった。前日の太龍寺のケーブルカーと同じく、「残念ながら黄砂の影響で見晴らしが、」というお詫びの放送があった。

■公園のモラエス
山頂の展望台の周りには遠足にやってきた高校生が三々五々、弁当を広げていた。展望台からは阿讃山脈、淡路島、紀伊の山々が見えるはずだったが、まあ市内と吉野川を眼下に見たことで満足した。

山上の眉山公園はやたらと広く、モラエス像は山頂駅からかなり離れた場所のようだ。山頂にはビルマ式のパゴダがある。インパール作戦で散った徳島143連隊を悼むモニュメントだ。前日、太龍寺舎心ヶ嶽を駆け足で登下山をしたため、腿の筋肉が痛い。リュックを背負い、痛む足を引きずって、坂や石段を歩く。ビルマで苦労された英霊に比べれば、何のこれしき、と歯を食いしばって頑張る。

 

モラエスゆかりの地、徳島(1)

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太龍寺のさくら

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太龍寺樹齢六百年の杉、樹高48M、幹回り6M

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大師様ブロンズ像 超望遠83倍

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阿南市内のスナック

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阿南市を流れる那賀川

 

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この本を読みました。




 

モラエスゆかりの地、徳島(1)

 

■モラエス小史
小泉八雲と並んでジャパン・クールのハシリとされるモラエス(ヴェンセスラウ・ジュゼ・デ・ソウザ・デ・モライシュ)はポルトガルの軍人、外交官、文筆家、1899年に来日、神戸の副領事となり、その後、総領事として1913年まで務めた。モラエスは八雲以上に日本に心酔した。「私は、日本を気も狂わんばかりに愛し、日本を、まるで神酒に酔い痴れるように、むさぼり飲んだ」(モラエス、日本の異国情調)

モラエスは神戸在勤中に芸者のおヨネ(福本ヨネ)と出会い、ともに暮らすようになる。しかし1912年にヨネが死没すると、翌1913年に職を辞任して引退し、墓を守るため、ヨネの故郷である徳島市に移住した。さらにヨネの姪である斎藤コハルと暮らすが、コハルにも先立たれてしまう。モラエスの徳島での生活は必ずしも楽ではなかった。身長180cm以上と日本人に比べて長身で、長い髭を延ばした風貌だったこともあり、「とーじんさん」と呼ばれて珍しがられたり、「西洋乞食」と蔑まれたりしていたという。モラエスは1929年、徳島市で孤独の内に没した。

■『孤愁(サウダーデ)』
八甲田山 死の彷徨』や『アラスカ物語』などで有名な新田次郎は、ポルトガル文人モラエスを主人公として小説『孤愁(サウダーデ)』を1979年8月20日から毎日新聞に連載し始めたが、翌年2月15日に心筋梗塞で急逝したため、その連載は同年4月18日の掲載分で中断してしまった。内容の面で言うと、まだ徳島に移住する前である。

新田次郎の息子、藤原正彦は「「父が精魂を傾けながら絶筆となってしまったこの作品を、必ずや私の手で完成し父の無念を晴らすつもりだ」と父新田次郎の読んだ資料はすべて目を通し、徳島を数十回取材訪問し、ポルトガルには父の遺した9冊の取材ノートを持って3度旅行し、父とまったく同じルートを辿り、同じ人に会い、同じホテルに宿泊し、同じ酒を飲みながら、同じ体験をしたという。そして世界でも稀な親子の合作小説、『孤愁(サウダーデ)』が2012年に完成した。

新田次郎死去の直後、藤原の決意を聞いた井上靖はいくら親子でも文才は遺伝しないと危ぶんだが、父が前半850枚、息子が550枚を書き足して父の死後32年を経ての快挙だった。四国旅行の前にこの小説を読んだことから、太龍寺参拝のあと、高松へ戻る途中に徳島でモラエスの足跡をたどってみた。美人と言われたおヨネさんの写真を間近に見たいという気持ちもあった。

■共通点
モラエスと自分には、異国に住みながら故郷への憧憬を消し去ることが出来ない、そういった共通の感情があるのではないか、と考えていた。藤原正彦は「孤愁(サウダーデ)」の意味について、以下のように語っている。

「サウダーデは、ポルトガルにしかない概念です。戻れない故郷や会えない恋人、二度と帰れない人や時間や場所を、切なくも懐かしく思い出す、しかもそこには甘い感傷が織り込まれているんです。父も郷里・信州を思う時、この感情を抱いていたはずです。父はモラエスの中にその感情を見つけ、深く共感した。それが執筆の大きな動機だったのでしょう」。

モラエスマカオデンマーク船員と中国女性との間に生まれた亜珍と一緒になり、2児をもうけている。また、子供はいなかったが、神戸で芸者福本ヨネと13年暮らした。ヨネが38歳で亡くなった後は、ヨネの生地、徳島に移り、ヨネの姪であるコハルと暮らしたが数年を経ずにコハルにも先立たれる。このあたりは著書、『おヨネとコハル』『日本精神』『ポルトガルの友へ』『徳島日記』に詳しい。(と言っても全部は読んでおりません)。

モラエスマカオの淫売宿から14歳の亜珍を買い取って暮らし始めた。ヨネも大阪の遊郭から落籍させ、コハルはヨネの実家の貧しさに付け込んで世話をさせたのであって、いずれも正式な結婚はしていない。タイに住む日本人でもモラエスと同様に「現地妻」を持つ人はいる。

■独りで暮らすということ
昭和4年7月のある夜、モラエスは、酔っぱらったあげく、水を飲もうと庭の井戸に行こうとして縁側から転げ落ち、頭部を打って、誰に看取られることもなく死んだ。徳島生活16年、享年75。彼は晩年、認知症に罹っていたとも言われる。
評論家中村光夫によると「手足の自由を失ってから、世話をしていた女が大小便の始末に1回いくらという報酬を要求したために糞尿にまみれて死んだということです」。

独り暮らしとは糞尿にまみれて死ぬことを覚悟することである、と曽野綾子さんが書いていたことを思い出した。自分の末路もモラエスに重なるのだろうか。