チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

日本が豊かに強くなるとき

ゴールデントライアングルのワット・プラテート・プーカオ入口

慰霊碑への階段

戦没者慰霊碑

いくつかの慰霊碑がある

タイ駐屯軍司令官中村中将の出した注意書

同上 タイ人の頭をなでるな、泥酔するなとか細かい注意が

 

日本が豊かに強くなるとき

■飯山陽さんの心意気

衆院東京15区補欠選挙イスラム思想研究者の飯山陽さんが日本保守党から出馬することになった。数年前に彼女の著書「イスラム教の論理」(新潮新書)を読んだことがあり、学識には敬服していた。日本保守党は作家の百田尚樹氏が自民党LGBT法案可決に怒って結成した政治団体だ。従来の保守政党に飽き足らぬ人々の支持を受け、有料党員数は6万人を越えるという。

飯山さんは「今の政治家は日本を貧しく、弱くするような政治をしている。座視するのは忍びない」と述べ、「日本を豊かに強くする政策理念を掲げる日本保守党に共感した」、さらに「ノルマンジー作戦でも誰かが先陣を切らなければいけなかった、私が日本保守党の先駆けになります」と決意を語っている。

出馬会見をユーチューブで視聴したが、「私は国費留学させてもらい、今の自分があると思っている、これからはお国にお返しができるよう頑張りたい」と言っていた。国費留学した学者の中で国の恩に報いたいと考え、行動する人はどれだけいるだろうか。飯山氏の勇気と志に感動した。

 

■チェンライで戦没者慰霊祭

先頃、日本人会の知り合いが我が家にやってきた。どうということもない雑談に興じたわけだが、彼がチェンライでも戦没者慰霊祭を挙行してはどうか、という提案をした。戦没者慰霊祭は毎年、チェンマイのムーンサーン寺、バンガード高校で行われている。自分がこうして北タイで差別もされず、暖かくタイ人に接してもらえるのは先人のお蔭と思っている。だから一年に一回くらいは大東亜戦争で戦った兵隊さんの慰霊と感謝の気持ちを捧げたいと、毎年のように8月15日にチェンマイの慰霊祭には参列していた。

チェンライ県のゴールデントライアングルを見下ろす高台にプラタートプーカオ寺がある。その境内にはいくつかの戦没者慰霊碑が建立されている。この慰霊碑の前でチェンライ日本人会主催の慰霊祭を8月6日の平和記念日に行おう、という。

どうしてこの寺に慰霊碑が建立されているのかわからない。総領事館経由で厚労省に建立の経緯などを調べてもらったがよくわからなかったそうだ。チェンマイの慰霊祭の2つの会場には野戦病院があり、多くの将兵が没したところである。クンユアムの泰日友好記念館、ムアイトー寺、カンチャナブリ等にも慰霊碑はあるがそれぞれ戦没者との関連がはっきりしている。

プーカオ寺の慰霊碑の中には「タイ・ビルマ方面 現地人戦没者慰霊碑」があり、このように刻まれている。「この慰霊碑は、第二次世界大戦時に、タイ・ビルマ方面に進駐した日本軍によって、不幸にも多くの現地の人が殺害されました。それ等の人々を慰霊するために建立したものです。合掌してください」。旧日本軍は現地人を「殺害」するためにインパール作戦を行ったのではない。それにタイは日本の同盟国だったからタイ人を殺害する理由もない。恐らくサヨクの人が建てた碑だろう。

自分は原爆投下の8月6日に日本が悪うございました、と合掌する気にはなれない。戦没者慰霊祭はやはり天皇皇后両陛下が武道館でお言葉を述べられる8月15日をおいて他はない。

 

■先人への感謝の気持ち

チェンマイの慰霊祭は日本人会とは関係なく「戦没者慰霊祭実行委員会」の有志によって長年続けられている。チェンライ日本人会が主催する慰霊祭が挙行されるにしても、これまでチェンマイの慰霊祭に参列しなかった会員がどれだけ集まるか疑問である。チェンライには旧日本軍との歴史がこうあって、ここでこれだけの方々が亡くなった、日本人としてどうしても慰霊祭を挙行したい、そうでなければ自分の気持ちがすまないという志を持つ人々に支えられて慰霊祭は行われるべきだと思う。

保守とは旧弊にしがみつく頑迷な思想ではない。飯山陽さんは「保守とは自分の大事な人や大事な場所、大事なものを守っていく思想だ」という日本のお祭りでも、地域の伝統を守り、それを守り育てた先祖を敬い、地域の人々を大切に思い、その伝統、慣習を次世代につなげようという思いに支えられている。日本が豊かに強くなれば自然と先人に感謝する心、愛国心が生まれ、チェンライでどうしても慰霊祭をやりたいという有志が澎湃として出現するのではないか。

実は日本人会の若い方(といっても40歳くらい)が、チェンライの慰霊祭の話にそれはいいことです、と即座に賛意を示したと聞いた。日本保守党の一種のブームといい、若い人の戦没将兵への思いといい、日本と日本国民にいくらかの希望を見出しているところである。

曲り角に来た

チェンライの花祭りから

同上

チューリップ

ラベンダーか

写生をする人

必ずポーズをとる

 

曲り角に来た

中国経済終了

日課のテニスから帰宅してシャワーを浴びると10時近くになる。6ゲーム先取のダブルスの試合を普通は2つ、3人しかいないのでもうひと試合と頼まれれば3つやる。真面目に3試合走り回ると疲れが出てそのままベッドにひっくり返って休むこともある。寄る年並だ、無理はするまい、いや、まだ体が動くうちがハナ、もう暫くしたら足も動かなくなる、などと取りとめもないことを考える。そしてやおら身を起こし、PCに向かう。時事問題解説のユーチューブを視聴する。中国経済がガタガタだ、という声が大きくなっている。

いわゆる「ゼロ・コロナ政策」解禁されて、中国経済は2023年に急速に回復し、世界成長の原動力としての役割を再び果たすと予想されていた。2003年の経済成長率は目標の5.2%を達成したと喧伝しているが、まともな経済学者でこの数字を信じている人はいない。3月5日に開幕した全人代全国人民代表大会)で、李強首相は、2024年の経済成長率の目標を5%前後にすると表明した。しかし、GDPの3分の1を占める不動産市場は不動産開発大手、中国恒大集団の破綻、碧桂園(カントリー・ガーデン)の債務不履行懸念等で冷え込んでいる。不動産バブルの崩壊だ。投資目的のマンションは値下がりどころか建設中止で支払った金はパアという事態も生じている。

経済不振は海外旅行に出かける中国人の激減にも表れている。2019年にタイを訪れた中国人観光客は約1千万人、それが2023年には約350万人と約3分の1に減っている。訪日中国人観光客も2019年の約960万人から2023年は262万人と約4分の1だ。

 

■でたらめの数字

GDPの伸びと国の輸入額の伸びは相関関係があるが、2023年の中国の貿易輸入額は前年比10%減という。相手国があるから貿易額は正確だ。だから中国のGDPはマイナスだという話も納得できる。また2023年の中国の失業率は5.2%となっているが、7月に発表を停止した若者の失業率が20%前後だったことを考えてもこの数字は怪しい。因みに日本の2023年の失業率は2.45%となっている。

欧米へ留学した中国人の帰国が相次いでいるという。大金持ちはともかく、不動産で潤った小金持ちの子弟は、親の経済苦境のため学費、生活費は払えなくなっている。米国は中国人留学生へのビザを厳格化しているのでその影響もあるかもしれない。

中国は「中所得国の罠」に陥ったといエコノミストは少なくない。中所得国の罠とは多くの途上国が経済発展により一人当たり国内総生産GDP)が中程度の水準(中所得)に達した後、発展パターンや戦略を転換できず、成長率が低下したり、長期に低迷したりすることを指す。中国を巡っては、ここ数年の成長率の低下と、一人当たり1万ドルといった高度成長経路の区切りから、まさに経済の転換期を迎えている。これまで「曲がり角にきた日本経済」という話を散々聞かされてきたが、とうとうお隣、中国に曲がり角が来たわけだ。

半世紀ほど前、東京外国語大学の学長、中嶋嶺雄先生の講演を聞いたことがある。中国が改革開放路線に大きく舵を切っていた時代だったが、先生は「社会主義的資本主義っておかしくないですか?丸い三角というようなものです」と中国経済の将来に疑問を持たれていた。資本主義は自由が原則だ。中国は民間を抑えて国有企業優先、民間でも自由な活動はできない。先生の指摘は25年経って正しいことが証明されようとしている。

 

■ホンネは経済なんかどうでもいい

前駐中国日本大使、垂水秀夫氏へのインタビュー記事が産経新聞にあった。垂水氏は中国が経済よりも国家の安全を重視し始めたという。

「われわれの論理からすれば外交面で、中国はどんどん独善的に変わってきているということだろう。改革開放政策を進めた鄧小平時代の中国は経済発展が最優先で、比較的平和で安定した国際環境を必要としていた。ところが今の中国は経済発展以上に、国家の安全を重視している。あるいは習近平国家主席自身が中国共産党の正統性のために、中国を強くするとか、中華民族の偉大な復興だとか、人民を鼓舞するようなことばかり言っている。それが行き過ぎた結果が(高圧的な)『戦狼外交』だ」

「一方で中国の地方政府は、投資を呼び込もうと日本企業に盛んに働きかけている。でも、日本企業関係者が中国に行こうかと思っても、ビザ取得のためにそれだけ煩雑な手続きを強いられる。矛盾しているでしょう。なぜかというと中国にとって国家の安全が最重要とされるからだ。経済発展と国家の安全が衝突した場合は、後者が優先される」(引用終わり)

国家の安全イコール習近平の安全だ。人民もいい迷惑だ、と思うのだが。

説教、昔話、自慢話

トードタイの朝市

同上、牛肉屋

同上

トードタイのGHに咲いていた花

同上

同上

説教、昔話、自慢話
高田純次の自戒
「歳とってやっちゃいけないことは『説教』と『昔話』と『自慢話』だよ」。これは高田純次が2015年7月に放送された毎日放送情熱大陸』で述べた言葉だ。チェンライに遊びに来た息子が「お父さん、」とこの言葉を紹介してくれた。聞いた時は、なんだとー、と不快に思った。歳を取ってこの3つをやめたら何を話せばいいんだ。これから勉強して国連職員になり、世界平和のために働きたいとかの夢を語れとでもいうのか、大体、説教しちゃいけないなどと、お前が俺に説教しているのではないか。

考えてみたら現役の頃、上司、同僚にも「説教」と「昔話」と「自慢話」を常々、聞かされていたように思う。でも若い頃は「説教」を親身な忠告、「昔話」は有益な先行事例、自慢話だって懸案解決の近道、能力発揮の成功例として素直に聞いていた。その割には大した人生を送っていないではないか、と揶揄されるかもしれないが、聞いていなかったら我が人生、もっと悲惨な結末を迎えていたに違いない。

今、こうして貧しくとも日々口に糊し、粗末なれども寒風を防げる衣服に身を包み、雨露を凌げる家に住み、亡父の没年をはるかに超える老齢でありながらスタスタ歩けるのは、これまで多くの人にお世話になってきたお陰、日本に生まれたお蔭であると感謝している。

いつも山岳民族の竹壁の家に生まれなくてよかったなあ、と考える。情けないが同情する前にその境遇にならなかった巡り合わせに手を合わせてしまう。女中のブアさんが「日本人に生まれたということは前世で相当のタンブンを積んだからでしょう」という。タンブンを積んだ覚えはないが、来世で牛や馬、あるいは中国人に生まれ変わらないようお寺や坊さんへのタンブンは欠かさない。

■説教
説教はとは、宗教の教義・教典を、その信者や民衆に、口頭で説き明かすこと。また、そこで話される内容そのものを指す場合もある。転じて、目下の者に対して、教え導くために言い聞かせることや、堅苦しい教訓をいう場合もある。説教をする人には高度な知識、見識が要求され、聞く人に「なるほど」と理解させねばならない。知識、見識、経験となるとやはり20歳の若者よりも老人の発する言葉のほうが説得力を持つ。

ローマの枢機卿の平均年齢は70歳を超えている。「お若いの、年寄りの言うことを聞きなされ」、これは神父ばかりでなく一般民衆の社会でも受け入れられていたことと思う。しかしながら世界中のカトリック教会で性的虐待問題が明るみに出てきた。2021年10月5日に発表されたフランスでの調査報告では、1950年以降、フランス国内では推計21万人以上の未成年者がカトリック教会の聖職者など3000人以上から性被害を受けたという。年寄りの言うことを聞いたら大変なことになる場合もあるということだ。

■昔話、自慢話
亀を虐めている子供たちから浦島太郎は亀を助けて海に逃がしてやりました。昔話をしてはいけないというなら浦島太郎の話はいけないのか。これは冗談。嫌われる昔話は「俺の若い頃はなあ、算盤片手に終電まで男も女も決算作業をやったもんよ」と言った類のものだ。昔話は自慢話とつながっていることが多い。更に自分と自分の経験を美化することによって今の風潮、若い世代を貶す、これが煙たがられる。

天下のご意見番、大久保彦左衛門は、特に武功はなかったというが「時に元亀3年、三方ヶ原の戦いに」などと昔の話を持ち出して徳川家光を辟易させる。これは講談やドラマでお馴染みである。どうせ昔話をするなら源平合戦治承・寿永の乱)とか文永、弘安の役を引いて、歴史的な大局観をもって具体的な政策具申をすればよかったと思うが、講談、ドラマでは年の功を笠に着て将軍を困らしているだけだ。

彦左衛門には子孫への教訓のために書き残した3巻3冊からなる自伝『三河物語(みかわものがたり)』の著書がある。読んではいないが「忠節一筋に艱難(かんなん)辛苦を耐え、たびたびの合戦で一族に多大な犠牲を出しながら、懸命に徳川に奉公してきたのに、大久保一族は何一つ報われない」という恨み言を連綿と書き綴ったものという。
彦左衛門は享年80歳、当時としては長寿を全うしたと言えるが、不平、不満を抱き続けた一生は幸せだったと言えるだろうか。

高田純次は「失敗があって普通。苦労して当たり前」、「自分が人並み以上の努力をしたかといえば、そんなことは全くない。ただひとつ、他人よりも少しだけ『楽しく生きよう』と思っていたかもしれません」と言う。昔話、自慢話であっても人生に前向きの人の話なら聞く価値があるかもしれない。

「徴用工」でまた露呈

ラフ族の春節祭り、入り口

受付のお姉さん どういうわけかチャイナドレス

会場となった広場

村の子供

開始を待つ人

村のはずれにつり橋とその先にのカフェがあった

 

 

 

「徴用工」でまた露呈

■2月25日産経新聞社説から

「徴用工」で実害 不当な取り立てを許すな

「徴用工」をめぐる訴訟で日本企業に賠償支払いを命じた韓国最高裁判決に基づき、原告側に日本企業の資金が支払われた。

原告側は「日本企業による事実上の賠償」という認識だが、全くの誤りだ。国際法に反する判決によって日本企業の財産が不当に奪われたもので、断じて容認できない。

不当に財産を奪われたのは日立造船である。同社は賠償命令に応じなかったが、資産差し押さえなどの強制執行を防ぐため供託金を納めていた。原告側代理人は供託金の差し押さえ手続きを進め、供託金約670万円全額を手にした。これを放置すれば、他の日本企業への圧迫も生じるだろう。

林芳正官房長官は「日韓請求権協定に明らかに反する判決に基づき、日本企業に不当な不利益を負わせるもので極めて遺憾だ」と述べた。外務省は韓国の駐日大使を呼び抗議した。岸田文雄政権は韓国にさらに強い態度で臨み、損害回復の措置を講じさせなければならない。

先の大戦末期の朝鮮人労働者らが当時の徴用を「強制労働」として賠償を求めた同種の訴訟は、12件で日本企業側への賠償命令が確定している。

判決は「強制動員被害者」と断じたが史実を歪(わい)曲(きょく)している。当時は朝鮮人も日本国民だった。昭和19年9月以降、国民徴用令に基づき日本の工場などで働いた朝鮮人労働者がいたが強制労働ではない。賃金の支払いを伴う合法的な勤労動員で、内地人にも適用された。

さらに、日韓間の請求権問題は国交正常化時の協定で「個人補償を含め完全かつ最終的に解決」済みだ。日本側が賠償するいわれは少しもない。

韓国政府は昨年3月、日本企業の「賠償」を韓国政府傘下の財団が肩代わりする解決策を発表した。尹錫悦大統領は日本企業に財団への資金拠出を呼びかけている。だが、日本企業の拠出は、韓国側の歪曲した歴史認識の追認につながり、両国関係に禍根を残す。絶対にあってはならないことだ。

韓国政府は原告側への支払いは財団が行うという立場だ。その約束を守るつもりなら、韓国側だけの拠出で支払いを済ませるべきだ。日立造船の損害も急ぎ償ってもらいたい。それは日韓国交の基盤を守ることにもつながる。

 

■なしくずしで関係再開

韓国の約束破りがまた出た。今回は1965年の日韓基本条約ちゃぶ台返しだ。日本は条約を反故にされても「遺憾」と口で抗議するだけ。松原仁衆議員は『日本は国際的に不可逆的な取り決めをしても、相手が破れば受け入れる国』という前例をつくったに等しい」と憤っている。韓国の無礼を見て中国、ロシア、北鮮もこれまで以上に日本をなめてかかってくるだろう。米国だって台湾有事で尖閣諸島が中国に占拠されても「日本の問題だ」と日米安全保障条約を守らないかもしれない。領土侵犯の国難に陥っても米中に「遺憾の意」を伝えるだけで済ませるつもりか。

産経の社説でも「徴用工」が使われているが、実際は募集に応じて働いた応募工であって、強制労働ではなく賃金も日本人と同様に支払われている。日本企業への賠償は韓国の財団が肩代わりすると尹大統領が約束したので、岸田首相は韓国をホワイト国に復帰させ、自衛隊機へのレーダー照射問題を不問にしてシャトル外交、即ち、日韓首脳が相互に訪問しあう関係を構築した。韓国は日本から輸入したフッ素化合物を北朝鮮やイランに輸出したという疑惑がもたれているが再発防止策を提示してはいない。レーダー照射はミサイル発射を前提とした敵対行動だ。こんな国と共同軍事演習などできるのだろうか。

 

■一方的譲歩

さらに日本は昨年6月に約9年ぶりに約100億ドルの日韓通貨スワップ協定を結んだ。スワップとは金融危機の時に相手国の通貨を自由に融通しあうシステムだ。日本が金融危機に陥る恐れはまずないから、弱いウォンを抱える韓国にとって一方的に有利な取り決めだ。

どうして韓国に譲歩するのか。一説にはバイデン大統領に韓国と仲良くしないと台湾有事の際、日本を助けてやらないからな、と脅されて、岸田首相が唯々諾々と従ったという。岸田首相は2015年12月の「日韓慰安婦合意」を結んだ時の外務大臣だった。何度騙されたら気が済むのだろう。

尹大統領は文在寅前大統領と違って親日だ、4月の韓国の総選挙で与党を応援するために日本が現政権に寄り添う必要があるという人もいる。でも自国の誇りを蔑ろにしてまで反日の国に寄り添う必要があるのか。一部保守しか韓国のちゃぶ台返しを論難しない。また多くのマスコミは裏金問題ばかりで韓国の非礼はほぼ無視だ。どうしてだろう。

暑季の始まり

煙に霞む道路

サンサーイ市場

同上

同上、まだ5Bの野菜も

ソンクラーン、水掛祭り

同上

暑季の始まり

■暑季の悩み

3月に入った。北タイの気候は3-4月の暑季、5-10月の雨季、11-2月の乾季と大きく3つに分けられる。3月、暑季の始まりだ。チェンライ3月の降水量は42ミリほど、東京の3月の平均降水量116ミリの3分の1以下だ。3月の平均最高気温は32.7度となっている。降水による冷却効果が少ないため最高気温が40度になる日もあるが、その分、湿度が低くなるので、日陰に入ると涼しく感じる。

それにチェンライ県の高度は海抜580メートルと高いので朝晩の気温は20度を下回る。暑季とは言え東京の盛夏とは趣を異とする。でも在住者としてチェンライの暑季を疎ましく思うのは、暑さではなく「煙害」だ。2月中旬くらいから遠くの山が霞むようになった。

煙害は北タイの農村や山岳地帯で行われる焼き畑のせいだと言われる。焼き畑とは 森林 や 草地 を 開墾 および 整地 する手段として 火 を放ち、焼け跡を 農地 として 施肥 を行わずに 農作物 を育て、 地力 が低下したら 休耕 して別の土地に移動することを繰り返す 農業 形態を指す。アカ族やラフ族はこうして移動を繰り返してチベットから中国、ミャンマーラオスベトナム、タイなどへ移り住んできたわけだ。

焼き畑はタイだけではなくミャンマーラオス、中国雲南省でも行われている。山岳民族ばかりでなく一般農民も焼き畑をするし、雑草や藁を農地で燃やして肥料とする。他国から偏西風に乗ってくる煙と近郊で発生する煙で喉がいがらっぽくなるだけではなく、時には目がチカチカする。

 

■煙害を避けて

健康への影響ばかりでなく煙害による視界不良でチェンライ空港が閉鎖されたこともある。隣県のチェンマイ市は周りを山に囲まれた盆地で風が吹かないせいもあって煙害の煙と車の排気ガスが溜まりやすい。PM2.5値(粒子状物質総量、2.5マイクロメータ)が健康に危険とされる300を超えることもある。2月下旬から4月はチェンマイに行ってはいけません、といネット記事を見たことがあるがチェンライへの旅行もこの時期を避けたほうがいいように思う。

毎年、チェンライにテニスを楽しむため長期滞在される鹿児島県のご夫婦も3月初めに帰国される。乾季には日本や東南アジア各国から自転車競技の選手が大挙トレーニングに訪れる。彼らも暑季の始まりと共に戻っていく。バンコクのお金持ちも北タイの涼しさを求めて北タイに来る。バンコクではロングスリーブの服を着る機会がないが、北タイで冬物衣装を着て楽しむのだとか。富裕層も暑季にはバンコクに戻る。

とはいえ暑かろうと煙害が発生しようともコートには日参している。大体、暑季、雨季、乾季を通してタイ人は普通に暮らしているし、暮らしてきた。PM2.5値が300を越え、視界500メートルとなろうとも、煙害で人がバタバタという話を聞いたことがない。喘息持ちの老人が死んでいるのかもしれないが、3,4年前、例の感染症でバタバタ人が亡くなっている、大変だ、の騒ぎに比べればどういうこともない。

 

ソンクラーンが怖い

コートに来るファランの中には暑季にどこかにいってしまう人もいる。やはり煙害は健康によくないし、どんよりと霞む夕日や山を見れば気も滅入る。ファランばかりでなく確定申告のためにこの時期、一時帰国という邦人も少なくない。確定申告には縁はないが自分もこの時期、旅に出たことがある。桜の季節の日本はよかったが、ミャンマーラオスは焼き畑の現場を見に行ったようなもので、眺望を楽しむどころではなかった。

ラオスでは一抱えもある大木を何十本も豪勢に燃やしていた。搬送費などを考えると材木としての価値がないのだろう。よく広範な山火事に発展しないものだと怖くなったものだ。煙害を避けるならば、日本、欧米か豪州まで行かないとだめかもしれない。

暑季は悪いことばかりではない。マンゴーやライチの花が咲き始める。美しいというほどではないが可憐な花にミツバチが何匹も飛び交う。マンゴーのとかラムヤイの蜂蜜を、と指定して買うこともできるようだ。

暑季の盛りにはタイ正月、ソンクラーンがある。今年のソンクラーンは4月13日から15日までだ。でも昨年11月に水掛祭りがユネスコの世界無形文化遺産に指定されたので、タイ文化省は2024年4月1日から21日まで、全国で「ワールド・ソンクラーン・フェスティバル」を開催することにした。タイ観光庁もリキが入っている。最近は水掛祭りに氷水が使われる。煙害ならせいぜい咳くらいだが、氷水を全身に浴びたら心臓麻痺であの世に、の可能性がある。もう水掛に参戦する気はない。21日間、ソンクラーン明けを家の中でひっそりと待つべきか。

感染症も一段落して

ダナンの帽子売り

フエの夜

同上

カイディン帝陵

同上

同上

 

 

感染症も一段落して

■まだマスク着用

2021年11月に感染症騒ぎの東京を後にしてチェンライに戻った。日本からタイへ入国するにも一苦労で、ワクチン接種済みの英文証明書を作成してもらったり、陰性証明を取るためバンコク1泊を強いられたし、タイの保険会社の疾病保険を義務付けられた。あとで考えてみたらあの感染症騒ぎは何だったんだろうと、頭をかしげることはいくつもある。自分が日本にいたころ、山梨県に帰省した女性が陽性と分かり、山梨で彼女と「濃厚接触」した男性が何人も炙り出された。個人情報も何もあったものではない。でもこれくらいならまだいい方で、陽性と判断された人が「多くの人に迷惑をかけた」と自殺したという痛ましい例もあった。

2年前の5,6月はチェンライでも感染症が流行った。あっちの村でもこっちの村でも同じ症状の人が続出した。病院も面倒だから一々検査などしない。風邪薬を出すだけだ。自分も女中のニイさんと同じ喉の痛み、咳、声嗄れの症状が出た。絶対、武漢から発生した感染症だ。日本でもインフルエンザ同様、現在もこの感染症に罹患している人は少なからずいる。まだ天皇、皇后両陛下がマスクをされているので、感染症は完全終息していないとわかる。

チェンライでもサンサーイ市場に行くと2,3割の人がマスクをしている。病院や出入国管理事務所、銀行の待合室になるとマスク率は高くなる。でも自分がタイに戻った頃はマスク無しではコンビニに入店できなかったし、個人商店の店員にもマスクを、と命令される状況で、ノーマスクは非国民という風潮で満ち溢れていた。その後は、タイ人も罹ってみたけれど大したことなかったし、ただの風邪だよ、と分かったのだろう、今はマスク無しで街を歩ける。

 

■旅に出る

チェンライに戻った翌年、2022年もまだ感染症騒ぎで動きづらくタイ国外には出ていない。国内もフアヒンに2,3泊行ったくらいで旅行らしい旅行はしていない。2023年は9月に日本へ一時帰国、11月にベトナムに1週間ほど行った。

一時帰国は、カード更新や健診、歯科治療など目的を持った旅であったが、ベトナムはさしたる用事はなく、これこそ旅らしい旅だった。日頃、クイッティオのピセ(大盛)は10B高いからタマダ-(普通盛)にしよう、とか吝嗇に暮らしているのだが、外国旅行となれば話は別だ。フエではタクシーを半日借り切って、ミンマン、カイディン、トゥドゥックの3つの帝陵を回った。自分としては思い切った大散財と思ったが、90万ドン(約5400円)だったから、それほどの額ではない。

旅の目的は何ですか、という調査によると1位、気分転換(78%)、2位、癒し(64%)、3位、刺激(23%)となっている。旅に出るとワクワクする。チェンライに蟄居していても毎日がワクワク続きで、という人を知っているが、自分には若いフェーン(愛人)がいるわけでもないので、せめて言葉の通じない外国で新しい体験や美味しい料理に出会いたいというところだ。

 

■支払いに注意

先月、チェンライの友人がベトナムに旅行してきた。自分と同じ場所に行っているので、話が弾む。ネット上の体験談では、ベトナム人はお釣りをくれないから気をつけろ、と書いてある。ベトナムの通貨はドンでやたらと桁数が多い。20万ドン札か2万ドン札か一瞬わからなくなる。彼も1万ドン札と2万ドン札合計3万ドンを払ったつもりが1万ドン札と20万ドン札を渡してしまった。すると店員はすぐお札を隠して、ハイ、終わり。また、バイクの帽子売りから麦藁帽を一つ買って20万ドン渡したら、お釣りをくれない、抗議したら帽子、もう3ついらないか、と言われたそうだ。

自分も缶ビールを高く買わされたが、せいぜい100円くらいだった。ネットには50万ドン(3000円)の靴をカードで購入し、言われるままにサインした。日本に帰ってよく見たら500万ドン支払っていたというケースがあった。

自分もイタリアのフィレンツェで食事代のゼロを一つ間違えそうになったことがある。桁数の多いドン、リラ、ルピアなど気をつけないと「これも旅のスパイスさ」などと呑気なことを言っていられなくなる。

ベトナムは数年前にラオス国境から半日だけディエンビエンフーを見物しただけで昨年11月が実質、初のベトナム旅行であった。安いし、食べ物、特にパンが美味しい。ベトナムの大都市はハノイ、ダナン、ホーチミン東シナ海に面している。

今月にタイの1年ビザが取れたことだし、次回はホイアン辺りに長逗留して海で泳ぐか、開高健さんが彷徨った旧サイゴンホーチミンの夜を経験してみようかと思っている。

 

 

 

トード・タイへ行く

 

トードタイの朝市

同上

同上

同上

クンサーとツーショット、昔の写真


ヤングソルジャーと書いてあるがどう見てもまだ小学生



トード・タイへ行く

■日較差(日中の気温差)

チェンライの気温はこのところ最低気温14度、最高気温34度前後である。日較差が20度もある。うっかりすると朝晩の冷え込みで風邪をひいてしまう。年を取ると「転ぶな、風邪ひくな、義理を欠け」という。そういえばテニス仲間のスイス人、ロバートが風邪をひいて1週間ほどコートに来なかった。気温14度というと自分にとっては極寒である。転びそうになるし、極寒下でのプレー、テニスのせいで世間の義理を欠くことになりかねない。

極寒はタイ人にとっても同じ、バイクにはダウンジャケット着用、左手はポケットに突っ込んで片手運転の人もいる。寒い割にはノーヘルで、代わりにフードを目深に被っている。危ないな、と思うがそれほどバイクが転がっていないところをみると運転技術が高いのかもしれない。

朝10時過ぎからどんどん気温が高くなって15時には33,4度になるのだが、湿度が30%以下であるから気温の割には過ごしやすい。冷房はもちろん扇風機もいらない。

日較差が大きい地方の米や果物は美味しいという。それは稲や果物は光合成でCO2と自ら澱粉(または糖)を作る。夜は光合成ができないので日中に合成した澱粉を消費する。夜間の気温が高いと澱粉の消費量が増える。夜間の気温が低ければ澱粉の消費量は少なくなり、より多くの澱粉が実に蓄えられる。山梨のブドウが甘いのも山間部で日較差が大きく、日当りのいい斜面にブドウ畑が広がっているおかげだろう。

チェンライ県は平均海抜500Mと言われている。それで市内でも日較差が大きいわけだ。さらに標高1000Mの山、ドイチャンはタイ珈琲の名産地で知られている。やはり日当りと日較差のお蔭だろう。

 

■朝靄と共に消える朝市

10年ほど前、泰緬国境に近いホエイモというアカ族の村に「ブランコ祭り」を見に行った。偶然、祭りを取材に来ていたバンコクのテレビクルーと一緒になった。あとで番組のDVDを見る機会があった。「お祭りには日本人も来ていました」といったナレーションが流れる中で餅をモソモソ食べている自分の姿が映っていて恥ずかしい思いをした。

その番組の中で村から一番近い街、トード・タイの朝市が紹介されていた。トード・タイの朝市は朝靄の中で始まり、朝靄の消える午前9時頃には店も人も姿を消す、とあった。朝市には国民党の流れの中国人やアカ族、ラフ族、モン族などいろいろな人々が集まる。豆腐を買うと「コップクンカー」の代わりに「謝、謝」と言われることもある。素朴かつエキゾチックな市場である。

その後、トード・タイには何度も行っている。何度も友人を案内している。みな、朝市散策を喜んでくれた。朝市で買い求めた油条(揚げパン)、豆乳、ゴマ餅、饅頭をGHのテーブルに並べた朝食も評判がいい。油条2B、饅頭5B、豆乳15Bと値段を数え上げ、こんなに安くてこんなに豪華な朝食は初めてだ、と感動した友人もいる。

トード・タイは海抜約1000Mの山間の街だ。チェンライ市内に比べ、さらに日較差は激しい。少数山岳民族のおばさんが1メートル四方の茣蓙の上に菜っ葉やキノコを売っている。もちろんもっと大きな屋台の店もあるが、いずれにしても9時過ぎには消えてしまう。ここの野菜は柔らかくて新鮮で甘みがある。何時もあるとは限らないが、春菊があったときは嬉しい。ポリ袋にぎっしり詰めて20B、おすそ分け用に4つは買う。

 

■クンサー旧キャンプ

朝市だけで字数は埋まるが、今回は久しぶりにトード・タイにあるクンサーの旧キャンプを訪れた。時折、旧キャンプの訪問記がネットにアップされているが、クンサーって何者?という人が少なくない。ラフ族の春節祭りで出会った英国人教授もクンサーのことは何も知らなかった。阿片をめぐるゴールデントライアングルの抗争といえばクンサー抜きには語れない。

クンサーは泰緬国境に覇を唱えたシャン族解放軍の指導者だった。米国は始め、彼らを訓練し、ゴールデントライアングルの共産軍と戦わせた。ところがベトナム戦争が終わるとタイ軍と共にトード・タイに立て籠るクンサーを攻める。一説には阿片利権をクンサーが米国に渡すことを拒否したからという。米国は麻薬王クンサーを200万ドルの懸賞金をかけて国際手配した。協力者を犯罪者に仕立て上げる。クンサーとビン・ラディンには通じるところがある。クンサーは2007年に亡命先のミャンマーで73歳の生涯を実業家として閉じた。

一時はシャン邦共和国の大統領だった。共和国が存続したら毛沢東ホーチミンと同じく民衆に崇められていたはずだ。クンサーゆかりの旧キャンプには10年前と同じく訪問者は誰もいなかった。