チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

教えること、学ぶこと

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パヤオ湖の夕暮れ

 

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同上

 

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同上

 

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若い二人

 

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パヤオ湖 チェンライから100キロ南にある湖


教えること、学ぶこと

 2007年2月にアップした記事を加筆訂正の上再録します。 

 

■教師の悩み

今年(2007年)1月初めにアップした「バンク・カレッジのクラーク先生」には、読者より珍しく4通のメールを頂いた。書いたものにこのように反響があるのは大変嬉しいものだ。もちろんクラーク博士と自分を比ぶべくもなく、引き合いに出すことさえ畏れ多いのは重々承知であるが、博士が札幌ですごした期間と同じ8ヶ月をウ国で暮らしてみて、博士のように輝いていたかどうか、生徒にしっかり伝えるべきことを伝えたであろうかという自分自身の反省の気持ちがあったことは確かである。

大学卒業以来30数年、一般企業に勤めて、国内営業、輸出、広告宣伝、企画、監査、総務といった部署に籍を置き、その間、経済産業省関係のシンクタンクや直接金融の財団等に出向したが、まずまず普通のサラリーマン生活を送った。もちろん教職についたのはウ国へ来て初めてである。

 長期の海外勤務や留学の経験がなく、ロクロク英語が出来ないにも拘らず、英語で授業をしなければならない(英-ウズベク語通訳つき)ことも頭が痛かったが、それよりもどうやってベンチャー論をビジネス経験のない生徒にわかってもらえるか、という問題に頭を悩ませた。

あるビジネスコースでロシア人教師がやっているようにバブソン大学のジェフリー・A・ティモンズ教授の「ベンチャー創造の理論と戦略」(New Venture Creation - Entrepreneurship For The 21st Century)を読み上げるというやり方もあったと思う。(この本は60カ国で翻訳され、今でもベンチャー論のバイブルとして多くの大学で教科書として使用されている)

 

張良の逸話から

長く教壇に立っている人には当たり前でそんなことも知らなかったのか、と笑われるかもしれないが、生徒にわかるように教えるという考えは傲岸不遜、独りよがり、木によりて魚を求むに近い話であるとわかってきた。

 内田樹という人の書いた「先生はえらい」(ちくまプリマー新書)という本の中に、教えること、学ぶことの究極の例として、能楽の「張良」の逸話が紹介されている。

 後に漢の将軍として武名をほしいままにする張良、彼が浪人時代に、武者修行の旅先で、黄石公というよぼよぼの老人に出会う。老人は、自分は太公望秘伝の兵法の奥義を究めたものであるが、お主は若いのに修行に励んでいてなかなか見所があるから、奥義を伝授してあげようと申し出る。

張良、喜んでそれからは「先生、先生」とかいがいしくお仕えするのだが、この老先生、そういっただけで何も教えてくれない。いつまでたっても何も教えてくれないので、張良のほうもだんだんイラついてくる。そんなある日、張良が街を歩いていると、向うから石公先生が馬に乗ってやってくる。そして、張良の前まで来ると、ぽろりと左足の沓(くつ)を落とし、「取って履かせよ」と命じる。張良は内心、むっとしたがここは弟子だということで黙って拾って履かせた。

別の日、また街を歩いていると、再び馬に乗った石公先生に行きあった。すると石公先生、今度は両足の沓をぽろぽろと落として「取って履かせよ」と命じる。張良はさらにむっとしたが、これも兵法修行のためと、甘んじて沓を拾って履かせた。と、その瞬間、張良すべてを察知して、たちまち太公望秘伝の兵法の奥義をことごとく会得して、無事に免許皆伝となった。 (おしまい)

 「張良」はここ数百年、日本人の教育実践の例として、特に芸事の奥義伝授の極意として機能し続けた。よくわからない、という方は内田先生が自らの「張良」解釈を数ページにわたって述べておられるので、「先生はえらい」を手に取っていただきたい。

 

■学ぶ側の問題か

禅にも「卒啄同機」という言葉がある。卵から雛が孵るとき、卵の内側から雛が、外側から親鳥が殻を同時につつくときに新しい生命がこの世に誕生する。師匠から弟子への仏法の相続、伝授の様を表現したものだ。

教える側だけの努力でわかってもらう、理解してもらうということはそもそも成り立たない。学ぶ者の定義とは「自分は何が出来ないのか」、「自分は何を知らないのか」を適切に表現できない者である。学ぶのは学ぶもの自身であり、教える教師ではない。学ぶ側さえしっかりしていれば、自分が教壇でチョークをぽろりと落としただけで、ベンチャー論の真髄をことごとく会得できる・・・・・はずである。

ルアンプラバンで

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メコン

 

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渡し舟

 

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望遠で撮ると

 

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シーサワンウォン通り

 

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カフェのファラン

 

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マニチャンゲストハウス

 

 

 ルアンプラバンで

■道に迷う
旅の4日目、山越えの時にスコールに遭い、雨宿りをする場所もなく、山道の脇で小止みになるのを待った。それを除けば、ムアンクアから2号線をウドンムサイに戻って、そこから12号線でルアンプラバンまで順調に走行した。悪路はあったがそこは速度を落とせばいいだけの話。ルアンプラバンはラオスの古都、世界遺産に指定されている。これまで3回訪れていて、一度はフォルツァで、当時は通ることのできたナーン県の国境から来たことがある。市内に入れば道を思い出すと思ったが、目当てのシーサワンウォン通りに辿りつけない。シーサワンウォン通りの両脇には伝統様式の建物の店と共に王宮博物館やワット・マイなどが立ち並び、ナイトマーケットも開かれる。観光客に人気の目抜き通りである。この通りに出れば、以前宿泊したGHに行ける。

こじんまりした街だから、走っているうちに見つかると思ったが、生まれつきの方向音痴、30分以上、グルグル回ったがメコン河さえわからない。「人生は言うに及ばず道迷う」。ルアンプラバンはGHの街と言っていいほど招待所、旅社、賓館が林立している。概ね中国語表示であることが気になるが、今日はただ寝るだけだし、と適当な招待所にスクータを停めた。高校生くらいの女の子が出てきて、トイレ、シャワー、冷房付き、1泊10万キップね。マイペンライ。通された部屋は窓がなく、破れたカーテンが垂れ下がっている暗い部屋。洗濯のあと、シャワーを浴びようとしたら温水が出ない。温水どころか冷水も出てこない。先ほどの女高生を呼んで、シャワーが使えないことを示す。女子高生はトイレ掃除用の蛇口をひねって、ホラ、ここから水が出るから、これで我慢して、などと言う。温厚な自分であるが、さすがに納得がいかず部屋を替えてもらった。10万キップも先払いしているのになんだ、と思ったが、日本円でせいぜい1200円程、怒るほうがおかしいか。

世界遺産を返上してほしい
5日目の朝、女高生に教えて貰った道を通ってシーサワンウォン通りに出た。何とGHから200-300mしか離れていなかった。どうしてわからなかったのか。久しぶりのルアンプラバンであるが何か違う。この通りはフランス植民地時代の垢ぬけたな雰囲気が残っていて、この通りに散在するカフェで珈琲を啜るファランを見ると、まるでパリの街の片隅にいるような感じを受けたものだ。ところが、今回はどこの店も中国語の看板で埋め尽くされている。これではパリどころか上海か北京の裏通りだ。それだけ中国人観光客が増えた、ということであろう。

カフェに入って通りを眺めながら珈琲でコンチネンタルの朝食を摂った。この街はファランカップルがそぞろ歩きをしたり、カフェテラスでひっそりと語り合うという姿が絵になる街だったのだが、歓迎光臨、四川料理など簡体文字の氾濫はエキゾチックな雰囲気を壊している。世界遺産には取消はないのだろうが、ラオスは自主的に世界遺産返上を申し出てもいいのではないかと個人的には思う。

アメリカ人経営のGH
シーサワンウォン通りと並行して走るメコン河沿いのケムコン通りとの間、ナイトマーケットエリアの裏あたりに、数年前に泊まったGHがあった。マニチャン・GHと看板が出ている。入口にあったベルを鳴らしてみると、建物の裏からファランが出てきた。年の頃は50くらいか、GHの主人らしい。数年前、泊まったことがあるんだが、と言うと、あ、それ、カミさんの親戚の人。今はラオス人の奥さんと一緒に彼がGHを経営しているという。名前はアンディ、アメリカ人、中国で10年ほど教職に就いていた。へー、ボクも先生してたことあるんだよ、自己紹介で打ち解ける。朝食付きで1泊12ドル、部屋を見せてもらったが、清潔で申し分ない。但し、トイレ、シャワーは共用、冷房なし、天井の扇風機で何とか凌げるだろう。2泊することに決めた。ここ4日ほど、スクータに乗り続けで体が疲れていた。少し体を休めなければ。

この日はベッドに寝転がって東野圭吾池井戸潤の小説を読んで過ごした。2階の部屋だが共用の板敷フロアがあって片隅に本棚があり、洋書に混じって日本の漫画ガイドブックがあった。邦人も来るらしい。何度か来ている街だから特に行きたいところもない。

夕食は歩いていける範囲、ナイトマーケットを少し歩いた。やはり中国人観光客が多い。ラオスの反物を前にして若い女性が「どんどん買い物しちゃうわね」と話している。ラオス旅行で聞く初めての日本語、この街はまだ邦人に人気があるのだろうか。
この日の走行距離は僅か4㎞。

 

テニスは続けているけれど

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タムルアン洞窟 入場禁止

 

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殉職したレスキュー隊員の像

 

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観光洞窟

 

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シブリン病院入り口

 

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病院のビデオに出ていた主治医の先生

 

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ステント手術、これをやりました。

 

 

テニスは続けているけれど

                                      

■乾季はもうすぐ

9月末から兄が1月の予定でチェンライに来ている。7,8,9の約3ヶ月、東京に戻っていた。一番暑い時期ではあったし、台風も来て大変だったようだ。9月も残暑が厳しく、チェンライのほうが東京よりずっと涼しいとのこと。確かにチェンライは9月の末になって最低気温が20度を下回ることが多くなった。

もう乾季入り、冬の季節到来か、と早とちりする人がいるかもしれないが、まだ雨季は明けていない。7月17日は入安居、すなわち、お坊さんがお寺での修行に入るカオパンサーが雨季の入りで、10月13日の出安居、オークパンサーまでが暦の上では雨季である。

 

でも実際に雨季が明け、乾季らしい天気になるのは11月の満月の日、ロイクラトンまで待たなければならないとタイの人は言う。確かにチェンライの10月の平均降雨量は132㎜だが11月は56㎜と半分以下になる。11月から2月までの乾季は旅行シーズン、気温も低いし、空気も乾燥しているので、大変過ごしやすい。ホテルの代金もハイシーズン料金として2倍になるが、それは超一流ホテルの話、自分がタイ国内で宿泊するGHは年間を通して変化はなく1泊500バーツ(1700円)前後だ。

 

■運転は必要な時だけ

気候がよくなってきたから長距離ツーリングに出かけるか、などと思う。でも齢70を越してバイクになんか乗るものじゃないという忠告も耳に入る。自分も日本にいたらバイクはもちろん車も持っていないであろう。東京にいたら公共交通機関が整備されているし、必要な物品は歩いていける範囲で入手できる。恥ずかしながら老骨に鞭打ってバイクや車に乗っているのは、それがないとタイの片田舎、チェンライでは暮らしていけないからだ。とはいえ、今は必要に迫られて運転するだけで、以前のように近場の名所、旧跡に出かけてみる、美味しい店があると聞けば取りあえず味見に行く、という積極さが失われてきたように思う。

 

そう言えば昨年6月、チェンライの名を世に知らしめた奇跡の洞窟救出劇の舞台、「タムルアン洞窟」にもまだ行っていない。噂では博物館もあり、100軒以上の屋台や土産物店がひしめいているとか。Tシャツ店では1日、100枚以上のタムルアンTシャツが売れるそうだ。訪問客の8割はタイ人。タムルアン洞窟は入場禁止だが、近くに観光用洞窟があって、同じものですよ、と観光客を呼び込んでいる。今年の11月にはこの救出劇を原案にしたハリウッド映画「The Cave」がタイで公開されるから、更に観光客が増えるのではないか。日本からのお客さんが行きたいと言えば、一緒にいってもいいが、今のところは無理して行く必要もなあ、といったところである。

 

■楽しさ減少

7月はラオスからベトナム、8月はパタヤにロングツーリングをしたし、1泊ならトードタイ、ランパーン、パヤオチェンマイなどの近郊に出かけている。また、午前8時からのテニスもほぼ日課となっている。まだ老年引き籠りにはなっていないようだ。

 

テニスは水捌けの良いコートなので朝降ってなければプレーできる。9月にスイスからロバートが帰ってきた。彼は3月から8月までスイスでワインの訪問販売と夜警でお金を貯め、9月から2月の半年をチェンライで過ごす。年はまだ50代か。コートに現われるになったのは7年前だったと思う。サーブが全然入らないし、打てばホームラン、まあコートでお客さん扱いだったが、チェンライ滞在中は週に5回はコートに来て、みんなに教えを乞い、次第に巧くなってきて、今では中の上の腕前、時には鋭いバックハンドが決まる。最近では「おお、ニュー・ロバート」と冷やかす仲間もいなくなった。

常に明るく前向き、ミスをすれば大仰に悔しがる。コートの人気者だ。彼と自分はほぼ毎日コートに行く。ロバートと自分しか来ていなくて、二人で2時間近くラリーをやって帰ってきたこともある。

 

ロバートはテニスが好きで、楽しくて仕方ないようにみえる。自分も以前はそうだった。しかし今、週6日コートに立つが、自発性が多少減殺されている。というのはステント手術を受けたあと、医師から食事に気を付け、運動を続けてもっと痩せるように、と申し渡されているからだ。今日はテニス、休みたいな、と思っても医師の指示を思い出して、コートに向かう。ここ4カ月で4キロ体重を落とし、BMI値は普通体重の25になった。酒も焼き鳥も控えた。それなのに医師はBMI値22を目指し、更に6キロ体重を落とせという。先生、それじゃラケットを振る元気も無くなりますよ。

ムアンクアからルアンプラバンへ

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戦勝博物館

 

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使用した爆弾

 

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オーディオルームでドキュメンタリーを観る

 

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ディエンビエンフーから国境へ行く途中

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国境へ続く道

 

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ラオス国境
ムアンクアからルアンプラバンへ

ラオス再入国
ディエンビエンフーの主だった戦跡、並びに戦勝博物館を見学、見るべきものは見つ。タクシーは稲田とそれに続く山道を登って、ベト、ラオ国境に着いた。ベトナム滞在時間は4時間くらいだったろうか。両国のイミグレでの手続きも簡単に済んで、ラオスに再入国した。ラオスのイミグレの裏に、今朝停めておいたフォルツァが待っていた。ラオス国境から国道2号線をムアンクアに戻る。前日宿泊したGHに着いた。宿の主人が、あれ、もう帰ってきたの?、外人はバイクでベトナムに入れないんだよ、こんな会話を交わして1泊350Bの部屋に。前日と同じ部屋だから懐かしさを感じる。この日が「目指せ、ベトナムハロン湾」の3日目であった。この日の走行距離は127キロ、ムアンクアから国境まで約60キロちょっとという距離だ。10年前は雨季には泥濘と化す悪路だったそうだが、まだ新しいせいか、ラオスで走った道路の中では格段に走りやすかったと思う。

■道路沿いの食堂で考える
夕方は国道に面した食堂で、チャーハンとビヤラオの食事、実はシブリン病院の医師から一生、ビールを飲んではいけない、と申し渡されている。医師の忠告に反して飲むビールの味は格別だ。それほど長生きしないんだからビールくらい呑ませろい、という気持ちと、いやいや、健康に良くない飲み物は避けて、細く長く生きるべきだ、という考えが交錯する中でほろ酔いになっていく。食堂の向かい側では山岳民族のおばさんが道にシートを広げて野菜を売っている。モン族だろうか、カム族、タイダム、それともタイデン族だろうか、アカ族でないことは確かだが。

ラオスには少数民族が40から70民族住んでいて、ラオス政府も正確には把握していない。更にラオス政府は全国民をラオス民族として多民族国家であることを否定しているため、少数民族への配慮はあまりされていない。海外のNGO少数民族援助を申し出てもいい顔をしない。習慣はもちろん言葉も違う少数民族ラオス公用語による学校教育を理解できない。ラオス公用語はラーオ語であるが、東ラーオ語と西ラーオ語があってお互い理解できない。義務教育も地方によって使われるラーオ語が違う。識字率が低いのも、国が発展できないのもこんなところに原因があると言える。

ビールを飲みながら考えることはいくらでもあるのだが、2本目に手を出さないところを見ると、自分なりに健康に配慮しているといえようか。

■落石、道路陥没注意
一応、ベトナムに足を踏み入れた。Nさんとの約束は果たした。ムアンクアからルアンナムターに戻って1泊すれば、次の日にはチェンライの我が家に戻ることができる。しかし、またあの一帯一路プロジェクトのために凸凹になった国道を戻ることはためらわれた。早く戻っても喜んでくれる人もいない独り者、ルアンプラバンに2,3日滞在して、国道を南下してビエンチャンからタイに戻ることに決めた。

ムアンクアからルアンプラバンまで330キロ、バスで10時間と観光案内所の壁広告に出ていた。タイなら半分以下の時間で走破できる距離だが、片側1車線の山道、それに道路状況は決して良くない。巡航速度33キロは順当なところだろう。

旅も4日目、朝8時にGHを出る。ナムウー川に沿って2号線をウドンムサイへ下る。切り通しの山道が続く。切り通しとは山肌をL字型に削ってL字の水平部分を道路としたものだ。道の右上が崖なら左下も崖になっている。雨季であるから崖崩れがあって道の半分が土石に埋まっているという個所もある。それより気持ちが悪いのは、場所により、赤ん坊の頭くらいの石が、2,3個道路に転がっていることである。本格的ながけ崩れの前兆としてパラパラと落ちてきたに違いない。石に乗り上げないよう、また、落石の音が聞こえないか注意して走行する。

ウドンムサイからルアンプラバンまで230キロだ。この12号線と並行して一帯一路の高速鉄道があちこちで工事中だった。但し、中断されているのかほとんど人影が見えない。場所によっては水力発電のダム工事も行われていた。これも中国の資金援助。さほど良くない造りの道路は工事車両の通過で凸凹だ。山道に入るといくらか道路状況がよくなる。ラオスは2000m級の山が連なる山国だ。ルアンプラバンへ至る道もかなりの標高差を上り下りする。南国とはいえ風の冷たさを感じたから1500mはあっただろう。

やっとのことでルアンプラバンに着いたが、行きつけのGHが見つからない。17時近く、走り疲れたので「招待所」と書かれた適当なGHに投宿した。この日の走行距離320キロ。

9月は蟄居

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9月13日 中秋の名月

 

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トードタイの市場

 

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木耳(きくらげ)、一皿10B(35円)

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秋の味覚、きのこ

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タマゴタケか

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シイタケか


 9月は蟄居

■前半雨無しの雨季
チェンライでは5月から10月の6か月間が雨季となっている。今年は5,6,7の3ヶ月は例年に比べ、降雨量が少なく旱魃が心配された。自分がラオスに旅行した7月は北タイで田植えが行われていたのほんの限られた田んぼだけだった。3月に里芋を植えて日本に一時帰国した人がいるが、7月に戻ってみたら、さっぱり葉が茂っていなかったという。雨が降らなかったんですね、と感心していた。

7月には12日ほどラオスベトナムを、8月には1週間ほどパタヤ往復のツーリングした。その間、スコールに2度遭ったが雨宿りで凌いだし、他には1日、雨中走行を1時間ほどしただけで済んだ。稀にみる雨不足がツーリングには幸いしたと言える。

でもパタヤから戻った8月末あたりから降雨が激しくなった。我が家の団地はゲートを出ると左側が田んぼとなっている。例年だと5月に田植えが終わっているが、今年は8月末に田植えをやっていた。3か月以上田植え時期が遅れても、台風が来るわけでも、霜がおりるわけでもないから稲は育つ。チェンライでは水さえあれば年に3回、米を収穫できる。毎日田んぼを見ながら車で行き来するのであるが、日本の稲作で重要といわれる水管理がほとんど行われていないように思える。それに田植えが終わったあと、農家の人が田んぼで働いている姿をほとんど見たことがない。

タイ米はほとんど手をかけずとも育つと聞いたことがある。それに引きかえ、日本米は手がかかる。だから少々高く売れても、タイの農民は日本米を栽培したがらない。まあ食えればいいじゃん、面倒なことは避けてサバーイ、サバーイの暮らしが一番、ということか。

■洪水になった
旱魃か、と思われていたが雨が降るとなると集中的に降る。以下はタイニュースクリップ9月13日付から。

タイ当局によると、タイ東北部、北部を中心に8月下旬から続く雨の影響で、8月29日から9月12日までに、土砂災害や洪水などで30人が死亡、32県の約39万世帯が被害を受けた。
12日時点で洪水が発生しているのはウボンラチャタニ県、ヤソートン県など東北部の4県。ウボンラチャタニ県は12日時点で2万世帯以上が被災している上、他県から流れ下ってきた大量の水が13日に到達するとみられ、被害が悪化する恐れがある。(引用終り)

ウボンラチャタニの洪水に関しては毎日のようにテレビで報じられている。メバーンのブアさんがお寺で集めているからタンブンしてくれ、と自分のT シャツや短パンを整理し始めた。10年もいると相当数の衣類が溜まっているものだ。何となく着なくなったシャツも少なくない。ブアさんは多少ゴムの伸びたパンツや襟の擦り切れたシャツなどをポリ袋に詰めていく。いくらタイ人でもこんなものを貰ったら怒りだすのではないか。いかにもといった古着は捨てて、見た目のいい衣類を、というのだが、ブアさんは構わないという。あとで他のタイ人にも訊ねてみたが、タンブンの衣類は着られればいいのであって、擦り切れていようと古びていようとかまわないとのこと。こんなもので、という引け目があったのでお金のほうのタンブンは少し多めに出しておいたが。

■幻の香港視察
チェンライの空港は国際空港である。週3便、チェンライ-香港の便があった。あまり利用する人はいないのか、2,3カ月前に調べた時には往復で1万円以下のチケットがあった。

自分が気にしたからといってどうなるものでもないのだが、昨今の香港情勢には興味以上の問題意識を持って注視している。香港がこのまま中国に飲み込まれるか、それとも中国崩壊の蟻の一穴となりうるのか。2,3日でいいからちょっと香港へ行って街の様子などを眺めてみたい。実は、河添恵子さん、宮家邦彦さん、宮崎正弘さん、福島佳織さんなど中国ウォッチャーといわれる論客たちは短期間ではあるが、香港に渡って取材をしている。やはり、生で見た人の話は説得力、迫力がある。

世界の激変が香港から始まっているのかもしれない。それを目の当たりにしてみたい。そう考えてネットでチケットを検索してみたら、チェンライ-香港便は減便、休便となっていて、値段も5倍以上に跳ね上がっている。往復8千円なら、と思っていただけに、こんなに費用をかけて危ない思いをすのもなあ、とあっさり諦めてしまった。お前の問題意識はその程度のものか、と揶揄されそうである。確かに懐具合よりも気持ちの問題ではある。

母が亡くなった時、心に決めたことは、少し旅に出よう、ということだった。10月はスクータでなく飛行機に乗ってどこかへ出かける積りである。

 ディエンビエンフーで

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フランス軍総司令部跡

 

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総司令部跡にあったレリーフ

 

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フランス軍総司令官、クリスティアン・ド・カストリ大佐

 

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戦勝記念博物館、フランス軍総司令部陥落のシーン

 

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使われた武器

 

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博物館のショップ、ホー・チ・ミンと並んで人気のボー・グエン・ザップ将軍


 ディエンビエンフー

                                      

■ 日本と米国の武器による日独戦

ディエンビエンフーを巡る攻防戦は、ベトミンとフランス軍の戦いとなっているが、実際は旧日本軍将兵と旧ナチス・ドイツ残党との戦いだったという側面がある。この奇妙な出来事は意外に知られていない。つい数年前まで同盟国だった両国将兵が、あらぬところで全面戦争を演じていたのだ。勝利したのは旧日本軍であった。

 

北ベトナムは、1946年4月には独自の軍士官学校を設立した。中部沿岸のクァンガイ陸軍士官学校で、教官は元日本軍の将校だった。このような残留日本兵は、「新ベトナム人」とよばれた。その中には北ベトナム軍の危機を救う作戦を立案・指導した日本人将校がいた。例えば、総司令官ボー・グエン・ザップ将軍直属の軍事参議官として、遺憾なく才能を発揮した中原光信少尉の名はベトナムではよく知られている。ベトミンの武器は中共ソ連から提供されたが、多くは旧日本軍のもので38式小銃などが多かった。

 

一方、フランス軍は、この急激に独立運動が進むベトナムにただちに大規模な正規軍を派遣するだけの余裕がなかった。そこで、ドゴール大統領はモロッコアルジェリアの植民地軍だけでなく、フランス外人部隊を中核としてベトナムに派兵する。第二次世界大戦終結後、大量に余った武器弾薬が米軍より供与された。

 

このフランス外人部隊の指揮官等はフランス人が原則だが、兵隊や下士官は外国人で構成されていた。れっきとしたフランス正規軍なのだが、国籍は千差万別。なにしろ、過去の経歴を問わないため、犯罪者などが紛れ込むには最適の隠れ蓑となった。このときも、前科者や当時ナチスの戦犯追及が厳しく、ドイツ本国にいられなくなったような多数の「ナチス親衛隊」、「突撃隊(SS)」、「ゲシュタポ」、「戦争犯罪者」、「ユダヤ人収容所の職員」が応募した。フランス外人部隊は「前歴」を一切問わない。いったん入隊すると政府などの公的機関による追及から、合法的に逃れることができる。しかも、入隊すると「フランス国籍」が優先的に取れる。フランス軍塹壕からは、あちこちで「ナチス党歌」(ホルストベッセの歌)が高らかに聞こえていたそうだ。ディエンビエンフーでは米国の武器を持ったドイツ兵と38式小銃を持った日本兵ベトナム人を率いて戦った。

 

■双方で1万人超の戦死

ディエンビエンフーには旧日本軍が設営した飛行場があった。この飛行場を活用して軍需物資を大量に運びこみ、補給、航空基地とし、ベトミン正規軍主力を逐次遠隔地に誘引し撃滅することが計画された。

ディエンビエンフーは盆地であるが、ベトミンには重火器が乏しく、迫撃砲や無反動砲程度では稜線外から盆地中央部を攻撃することは困難とフランス軍は見ていた。またベトミン軍は補給能力が貧弱であり、根拠地から離れた同市周辺に大部隊を展開・維持することは困難が予測された。これに対し、フランス軍は航空輸送により補給を確保しうると考えた。

 

ベトミン軍はソ連中共から大量の武器・弾薬の援助を受け、昼夜兼行の人海戦術を用いて大砲・ロケット砲・対空火器を山頂に引き上げ、要塞を見下ろす位置に設置、密かに要塞を包囲していった。105mm砲20門、75mm砲18門(攻撃中に増勢し、最終的に80門となる)、12.7mm対空機銃100丁、迫撃砲多数が集結した。攻撃に参加したのは総兵力7万名で5個師団、補給物資も多量に集積され、その備蓄は105mm砲弾だけでも15,000発に達していた。

武器の中には、大日本帝国陸軍から接収した山砲も含まれており、大いに活用された。補給にはシクロが活用され、一台あたり300キログラムに達する貨物を輸送した。また山中機動においては、重火器類は分解され、人力担送された。

 

56日に亘る戦いの末、滑走路を破壊され、補給路を断たれたフランス軍は2万人のうち2200名の戦死者を出し、降伏した。

 

■ド・カストリの司令部跡など

車は塀で囲まれたカマボコ状の小さな建物に着いた。ああ、これがフランス軍総司令部跡か。フランス軍総司令官、ド・カストリ大佐に因んで名づけられた壕だ。彼は捕虜となって4ヶ月拘留された。以前は内部を見学できたようだが、自分が行った時は入口が閉ざされていた。

 

昼食後、ディエンビエンフーで、絶対見落としてはならないというディエンビエンフー歴史的戦勝博物館に行った。博物館の敷地面積は、なんと2万2千平方m!1000点以上もある展示品は、ディエンビエンフーの戦いに関する4つのテーマに沿って展示されている。撮影は禁止と聞いていたが、見学者は自分だけだし、同行の運転手が構わないというので、写真を撮りまくった。

タイの交通事情

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ディエンビエンフー市内

 

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勝利の記念像へ至る階段

 

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勝利の記念像の丘から市内を俯瞰

 

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A-1の丘

 

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A-1の丘の塹壕

 

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A-1の丘に展示してあったベトミンの戦車



タイの交通事情

                                      

■交通事故死

先日、チェンライで安全対策協議会が開かれた。例年ビザ勉強会と同時に開かれる。今回も在チェンマイ日本国総領事館の邦人援護担当の領事から総領事館管轄の北部7県における犯罪状況、交通事故、死亡事案に関して説明がなされた。邦人援護担当の領事さんは警察からの出向者である。人身売買、薬物関係や交通関係と前職は様々。真面目な警察官であるから、チェンマイやチェンライの仁義なき交通事情には怒る前に呆れてしまうというのが実状らしい。

 

まずバイクはノーヘルが半分以上、3人乗り、4人乗りは当たり前、運転免許保持者は恐らく半分、中学生、時にはどう見ても小学生としか見えない子供がバイクを走らせている。交通事故死者数の比較を2018年で見ると日本の3,532人に対し、タイでは10,267人となっている(総領事館資料)。どの時点で交通事故死に算入するかが問題だが、タイ健康増進基金および交通安全監視チームが実施したタイ交通安全状況調査によると、2018年タイ全土で20,169名の交通事故死を記録したという。ともあれ、タイは人口比を計算に入れると日本の5倍から10倍、危険、と言える。

 

タイの交通事故死の70%はバイクによるものだ。自分は原則的に夜間は運転しない。道路を蛇行しながら走行してくるバイクが怖いからだ。飲酒、それもかなり酩酊した状態でバイクに乗る、ヤク中バイクもある、時には道路を逆走してくる。「郷に入り手は郷に従え、と申しますが、皆さんは絶対、真似をしないように」と領事さんに言われたことがあるが、とても真似はできない。

 

■ポイント制度を導入か

アセアンで一番交通事故の多い国という悪評を覆そうと、タイ当局は日本の交通違反点数制度を参考に、交通違反ポイント制度を導入することになった。正式発表は9月で実施は今年の12月から、という。その骨子は、

 『クレジット』と呼ばれる『12ポイント』が付与される

ポイント減点対象となる違反の種類:

減点対象:スピード違反、高速道路の間違った方向への移動、赤信号、DUIでの運転、運転中の携帯電話の使用、オートバイのヘルメット着用なし、など深刻な違反

 

減点対象外:罰金はあるが減点の無い軽微な違反(駐車違反、Uターン違反など)、

 

減点ポイント数

飲酒運転:3ポイント

赤信号無視:2ポイント

ヘルメットとスピード違反:各1ポイント

 

免許停止:

12ポイントがなくなった時点で、3か月の免許停止

再犯は、3年の運転禁止でとり直し

 

■魚心あれば水心

日本であればルールは厳格に守られる。お巡りさんに罰金まけて、と頼んでもまずムリだろう。でもここはタイなので、魚心あれば水心の美風は多少残っている。バイク3人乗りは違反だが夫婦の真ん中に幼児が乗っているならば、まずお目こぼしになる。無免許運転の罰金は数年前は200Bだったが、今は500B、でも高校生や中学生なら200Bに負けてくれるらしい。

 最近、国道を走っていると速度制限とカメラの看板が目につく。この先、カメラがあって速度違反を検挙しますよ、の注意書きだ。タイにもオービス(自動速度違反取締装置)が増えている。タイの国道では概ね乗用車、バイクの制限速度は90キロだ。でもこの速度は殆ど守られていない。直線道路では120-130キロが普通、それにオービスがいつも稼働しているかというとそうでもない。カメラの看板だけで、いくら目を凝らしてもカメラが何処にも設置されていないこともある。

でもバンコクからチェンライに戻っみたら3枚のスピード違反切符が送られてきた、という人がいる。罰金は速度に拘らず、違反切符1枚に付き、500B。日本で130キロ走行したら点数6、反則金は簡裁で8万円は申し渡される。

 

自分もノーヘル、駐車違反等で罰金を払ったことがある。先日、パタヤドラゴンボートの応援に行った折、グーグルマップの言う通り走っていたら、バンコク近くで有料道路に入ってしまった。生まれて初めてタイのパトカーに追いかけられて強制停車、警官が2人おりてきた。

有料道路はバイク進入禁止なんだよ、知らなかったの、ハイ、罰金5000B。ゲッ、そんなに持ってない。いくらならあるの。警官は免許証入れに入っていた1000B札をつまみあげると、これで勘弁してあげる。「ミー・バイセット・マイ?(領収書くれませんか?)」。それは出せない、警官は豪快に笑い飛ばした。パトカーの先導で側道に降りた。そのあともしきりにグーグルマップが有料道路に誘導したが、有料道路の入り口には進入バイクの罰金は5000Bと明記されていた。

無免許でも罰金500Bなのに、と多少怨む気持ちがあったが、それを見てあの警官、いい人だったんじゃん、と思い直した。