チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

邦人観光客の減少など

 

チェンマイ国立博物館

内部

釈迦像

同上

釈迦仏頭

同上

邦人観光客の減少など

■邦人観光客激減

チェンライは北タイの田舎都市である。メコン河、ラオスミャンマーを一望できるゴールデントライアングル(黄金三角地帯)、あるいは古寺ワット・チェデルワンなど見どころはあると思う。でも日本からの観光客はバンコク周辺、プーケット中心で3泊4日、せいぜい数日の滞在日数しかない。北タイにはタイの京都と言われるチェンマイがあるから行ってみようという人はいるが、チェンマイから180キロ離れたチェンライまで来てくれる奇特な人は少ない。

それでも感染症以前は山岳民族支援のNPOの人や学生さんがよく来ていた。市内のスーパーでは日本の男女が飲み物やカレーの材料等を買い込んでいる姿によくでくわした。少数山岳民族の寮を訪問するときはライスカレーを作る、が学生さんたちの定番だったようだ。また山岳民族の村を訪ねてレポートを書くと大学の単位が貰えるらしい。チェンライ空港でツアー客を待つアカ族のガイドと2名の女子学生の会話を聞くともなく聞いたことがある。彼女たちはアカ族の村を訪れて卒論の仕上げをするという。学部の卒論ならオジサンが代作するよ、と言いたかったが、もちろんそんなことは言わなかった。北タイの少数山岳民族が卒論のテーマになるのだな、と感慨深いものがあった。

でも感染症騒ぎ以降、チェンライで訪タイ邦人を見ることはほとんどなくなった。これは気のせいではなく数字でもはっきりしている。2023年の訪タイ日本人観光客数は80万人、2024年1-6月は47万人と少し回復傾向にはあるが、2019年には日本から180万人もタイに来ていた。だから今は最盛期の半分ほどだ。円安のせいとは思うがチェンライで邦人観光客を見かけないことはやはり寂しい。

 

■それでも兄が来てくれた

日本から兄がチェンライに来ている。約1月の「避暑」だ。今年の東京は猛暑で少なくとも6月以降はチェンライのほうが気温は低かった。チェンライに避暑に行くと言っても友人にはまともに取り合ってもらえなかったそうである。タイは熱帯という思い込みがあるのだろう。

兄は8月にやってきてチェンライの涼しさに改めて感心していた。まあ雨季で日が差さない日が多かったこともある。東京のような熱帯夜はチェンライにはない。ビルや舗装道路のような日中の太陽熱の蓄熱体があまりないせいか、夕方から朝にかけて気温が23-24度に下がる。東京ではクーラーを1日中つけっぱなしだったそうであるが、チェンライではクーラーなしで過ごせる日もあった。寒いくらいじゃないか、と喜んでいたが東京が異常だったのだろう。1日中家に籠っていれば暑さからは逃れられるが、買い物、飲み会などで外出する必要はある。家と外の温度差はやはり老体にはよくない。チェンライでも日中30度を越える日もあったが、気温30度は涼しいよという。今夏は日本人の体がすっかり熱帯仕様になったのではないか。

雨天の合間を見てテニスに精を出し、毎日のようにタイマッサージを受け、時にはかけ流しの温泉に通っている。兄弟共に後期高齢者であるから年相応に心身の衰えは感じる。根気も続かないし、腰が、歯がなどとお互いの老化を嘆き合っても、まあこの年でテニスができるんだからいいんじゃないのと前向き発言で終わりになる。一人住まいだと晩酌の回数、酒量も落ちる。でも二人だとビール瓶が何本か並ぶ。そのうち飲めなくなるのだから今のうちに飲んで置こうじゃないかのセリフも二人の伝統芸能となっている。

 

■コートの韓国人

テニスと言えば市営コートに来る韓国人の数が多くなった。夫婦も何組かいる。彼らはタイ人や我々とは別のコートで韓国人だけで固まってプレーしている。例年、乾季に鹿児島からテニス合宿にやってくるご夫婦がいる。ご夫婦の人柄に惹かれて何人かの邦人もコートに集まる。日本人の場合はタイ人、スイス人、英国人など我が常連メンバーに交じって楽しくプレーをしている。常連にもコリアンがいたが、今は新参韓国グループに合流している。同国人と大声をあげてプレーするほうが楽しいのだろう。

これまでコートに現れるコリアンは限られていたが、と2024年1-6月の訪タイ韓国人客の数を調べてみたら93万人強と同時期の日本人、47万人のほぼ倍となっている。観光地ばかりでなくテニスコートまで韓国人に凌駕されるのだろうか。韓国経済も決して快調ではないはずだが日本人より富裕層が多いのか。

管見とは竹の管を通してみるように見識が狭いことを指すが、コートの韓国人を見て日本は大丈夫か、などと思うことは正に管見と言われても仕方ない。

 

思考の基準は

2021年5月横浜

同上

同上、マスク姿が多い、

赤レンガ倉庫

感染症騒ぎで人出は少ない。

飛鳥が停泊していた。

 

思考の基準は

■初めての献金

旅に出るとかの予定がなければ週5日、土日を除いてテニスコートに日参している。今年の雨季は例年以上に降雨日が多く、週に2,3日できればいい方だった。ある日、コートに行くと常連のスイス人、ジョンが寄ってきた。「コートの管理人が水切りを新調したいが金がない、よって朝のテニスグループから一人100Bの寄付をしてもらえないか、と言ってきた」。もう数人から集めているようだ。携帯で寄付金拠出者一覧を見せてくれた。

チェンライ市営運動場のテニスコートを使わせてもらって十有余年、コート管理者から使用料はおろか備品代さえ徴収されたことはない。喜んで支払った。感染症で一時帰国中、テニススクールに週1回通った。グループレッスンだったが1時間半で3千円払っていたように思う。チェンライに住んでよかったということはいろいろあるが、毎日テニスをしても掛かる費用は自分が使うテニスボール代だけ、は特筆すべき利点の一つだろう。これは日本に比べてこれだけ恵まれている、つまり日本を基準として考えていることは確かだ。

水切りは雨季の必需品だ。2年前にITFワールド・テニスツアーがこの市営コートで開催された。その時にコート面は塗りなおされ、球が出入りするボロボロのネットは新品に取り換えられた。同時にコロ付きのゴム張り水切りが新調された。それ以前はモップにぼろ布代わりにゴム板がついた50センチ幅の水切りを使っていた。効率は悪いし、結構体力を必要とするので、テニスをやる前に疲れてしまうといった欠点があった。テニスツアー後、新しい水切りを使ってみると、溜り水の捕捉率は抜群で、大量の水をコート外に押し出すことができる。爽快である。

でもゴム製品であるから経年劣化で使い辛くなってはいた。またテニスツアーをやってくれないかな、そうすれば水切りも新しくなるのにな、などと思っていた矢先である。いくらかでもコートのお役に立てて光栄です、という気持ちである。胸を張るほどの金額ではないけれど。

■タイの雨季も日本の目で

はてなブログでは、X年前の8月には貴方はこのようなブログを書いていましたよ、というリマインドが自動的に送られてくる。それを読むとここ1週間、雨でテニスができなかった、今年の雨季は異常だ、などと書いている。どうやら例年、8月には雨が降ってどこかで洪水が起こり、大変だ、大変だと言っているようだ。だが、今年は現地ニュースでも数十年見なかった雨量と出ているし、洪水の規模も大きいようだ。でも8月末からは降雨は短時間で雨の合間には太陽が照り付けるという南国のスコールパターンに入っているように思う。

人間、何事も自分の経験をもとに考える。天候もつい日本のそれと比べてしまうので違和感がある。日本で朝雨が降っているとこれは終日ぐずつく天気かな、と思う。だがチェンライでは土砂降りの雨であっても、30分後には雲が切れて日が差してくる。と思っていたらまた黒い雲が天を覆って雨粒が落ちてきて車軸を流すような豪雨となる。だが豪雨はすぐあがる。この変わりやすい天気にはまだ自分の思考がついて行かない。雨なら雨、晴れるなら晴れる、そういったケジメはないものか、と思う。

天候に限らず、自分とか自分の経験を基準に考えるとどんでん返しを食らう。例えば自分は時間を守るのだから相手も時間通りに現れる、袋入り野菜はほぼ同じ品質のものが入っている、前回と同じ書類を用意したのだから今回の入管手続きは問題ない、ガソリン代付随のポイントは溜まれば利用可能、スーパーの洗剤はセブンイレブンより安い、こういった日本人的思い込みは裏切られることが多い。

■思い通りにいかない

銀行口座の開設、お金の出し入れなど日本ではまずもめようのないことでも行員の気分によってダメということがある。亡母名義の預金については弁護士を立てて裁判所の判決をもらって引きだすことができた。邦人のご亭主が亡くなったタイ人女性も同じく裁判所の裁定が必要だったから、とにかくここはタイですから、ということになる。

でも銀行とか官庁に有力なコネがあれば、裁判所に行かなくても思い通りに事が運ぶそうである。タイで言うコネは上流階級であること、その階級に知り合いがいるということである。日本でも親ガチャ、担任ガチャ、配属ガチャなど自分の力ではどうにもならない運によって人生が左右されると言われている。

親ガチャと重なるかもしれないがタイでは「階級ガチャ」がかなり重要である。水切りの話から妙な所へ話がずれてしまった。

 

北タイの露天風呂(7)

温泉の71ヶ所は北部にある

 

シッパ・ホット・スプリングの露天風呂、水着着用で入浴

部屋の浴室

部屋の浴室 

湯量は多い

茅葺のロッジ

北タイの露天風呂(7)

■タイには温泉文化がない

ネットで「温泉」を検索すると最初に「全国温泉ガイド【2024年版】人気温泉から秘湯まで」がヒットする。一人でふらりと、またカップルで、家族で、定年退職後、夫婦で第2の人生を楽しむための、といったあらゆる目的で温泉が選べる旅行情報ネットだ。

「週末にこだわらない旅上手の方」には「1泊2食付き・おひとり1万円前後の平日お得な宿泊プラン」がお薦めとある。我が北タイ露天風呂の旅もこの範囲に納まる。露天風呂にこだわることなく「温泉の宿」も悪くはない。

最近の研究によると、タイには118箇所の温泉があり、そのうち71箇所は北部地域にあるそうだ。因みに南部は32箇所、中部地域は12箇所、東北部地域は2箇所。タイ観光・スポーツ省は、ヨーロッパ風のスパタウンや日本風の温泉街を導入することで、タイの温泉を世界的な舞台に押し上げ、国際市場向けのブランドを構築する計画を発表した。

しかし、タイの温泉地は辺鄙な場所にあるので、タクシーのぼったくりの温床になるし、ろくな名産物、宿泊施設がない、そもそもタイには温泉文化が浸透していない、などの理由で政府の意気込みは掛け声倒れに終わるという人もいる。自分もこれまでいくつかの温泉を訪れているが政府の意気込みを感じたことはない。

「全国温泉ガイド」によると単純温泉二酸化炭素泉、炭酸水素塩泉、塩化物泉、硫酸塩泉、含鉄泉、硫黄泉、酸性泉、ラジウム泉等の泉質特徴があり、それぞれ効能が違う。泉質特徴、効能から各地の温泉ページに飛べるので、そこで予算にあったホテルの予約ができる。日本では温泉成分表を当たり前に表示しているがタイの温泉ではまだ成分表見たことがない。温泉文化は緻密な数字の裏付けによって支えられている部分がある。タイ政府の温泉による観光収入増大の目論見は温泉文化の表面をなぞるだけでうまくいかない。先ずタイ人が温泉の価値を認識し、温泉巡りが楽しみというタイ人が増えなければ「外人相手のぼったくり横行」のイメージを消すことはできないだろう。

■歴史ある日本の温泉文化

日本では約6千年前の縄文遺跡から温泉の痕跡が見られるというし、「温泉」の記述は風土記万葉集日本書紀古事記にもあり、当時から現在に至るまで、体の不調を回復させたり、体を温めたり、多くの人々が温泉に癒されてきた。日本の温泉文化は数千年の歴史を持つ。その文化が21世紀のタイで浸透することを個人的には期待しているがどうなることか。前述のようにタイには118ヶ所の温泉がある。

ネットには「タイの温泉47湯を踏破」、「チェンマイの温泉20選、露天風呂から秘境温泉まで」といった邦人による温泉紹介記事が多々ある。タイの温泉巡りをするファランがいないところをみると、やはり温泉に執着する、は日本人特有の心情のようだ。

その中でチェンマイ在住の邦人がアップした「チェンマイのおすすめ日帰り温泉20選一覧」という記事を見つけた。北タイには71ヶ所の温泉があるというからチェンマイから日帰りで行ける温泉はかなりあるのだろう。なかでも有名な温泉はチェンライから40キロほど離れたサンカムペーン温泉だろう。自分もチェンマイ戦没者慰霊祭に参列した後に訪れたことがある。チェンマイ市内からソンテウで行けるので、チェンマイ在住者にも人気の公営温泉だ。入浴施設の他、温水プールや足湯があり、湯温が100度と高いので好みの固さの温泉卵が作れる。タイの温泉ランキングではクラビのロントム天然露天風呂、バンコクの湯の森に次いで3位に推されている。

■サンカムペーンの温泉宿

そのサンカムペーン温泉の裏側に源泉100%の私営温泉リゾート、シッパ・ホット・スプリングがある。サンカムペーン温泉は1985年から開業している公営温泉であるがシッパは2015年にできた比較的新しいリゾートホテルだ。日帰り入浴も可能であるが、広い庭園に点在する茅葺屋根のコッテージに宿泊してみた。

日本の銭湯ほどの広い浴槽、消火栓ほどの太さの蛇口があり、とてつもない水量のお湯が出る。始めは温度が低いが1分ほどたつと高温の湯が出てくるので隣の冷水の蛇口をひねる。中々、温度調節が難しい。お湯は薄墨色で浴槽の底が何とか見える。何の飾り気もない浴室であるが窓からは北タイの木々が見える。かすかに硫黄の匂いのする湯は体が温まる。

ベッドにタオル1枚で横たわっていると体が「温泉ていいですね」と呟いている気がする。天然かけ流し温泉の湯とバスタブの湯はこれだけ違うものか。温泉文化の国、日本に生まれた幸せを感じた。

 

忘れられた武漢肺炎

2021年3月徳島旅行から

ビルマ風パゴダ

瀬戸内海を一望

公園内の桜

同上

徳島市内の飲食店の張り紙



忘れられた武漢肺炎

武漢肺炎
武漢肺炎の単語を使用する人はほとんどいなくなった。今は新型コロナウィルスとかCovid-19 が使われる。中国から発生した感染症であることが濃厚に疑われたわけであるが、中国は米国の軍人が持ち込んだウィルスとか何とか言って発生源の責任をごまかした。WHOも病名に特定の地域名称をつけることは望ましくない、と中国の要望に沿った声明を出した。

その後、日本では武漢肺炎は差別を助長するとの公論があり、マスコミから武漢肺炎の文字は消えた。産経新聞出版が刊行した櫻井よしこの著書の広告を西日本新聞に掲載したところ、新聞社内での審査で「武漢肺炎」の語が通らず「●●肺炎」と伏せ字にされた上で広告掲載するという措置が取られた。産経新聞出版はこれに対し、自社のTwitterアカウントで「武漢発を忘れてはいけません」と抗議した。

武漢肺炎が発生し、拡散したのは中国の武漢の病毒研究所から、であることは明白であったので2020年当時は中国を相手取って損害賠償を求める動きがあった。その後、どうなったのだろう。我がブログでは当初より武漢肺炎で通してきたが、多勢に無勢、なんとなく使用回数が減ってきた。それにこの感染症が広くいきわたって、ごく一般的な風邪扱いされるようになってきたから、それにつれて世間の関心も薄れてきたともいえる。

自慢するわけではないが、自分も2回武漢肺炎に感染している。感染源もほぼ特定できている。1回目は女中さんに遅れて数日で彼女と全く同じ症状が出た。2回目は自分と同じ症状が友人に現れ、病院で検査の結果、Covid-19の 陽性反応がでたからだ。さほど熱は出ず、咳と喉の痛みはあったもののテニスはやっていたのだから重篤とは言えない。武漢肺炎なら高齢者はバタバタ死ぬが、Covid-19 ならば風邪薬で完治、それほど心配ない、ということか。

常軌を逸していた
2020年3月から1年8カ月、日本に滞在していた。孫の顔を見に行く、という野暮用で2週間滞在の予定だったのだがタイに戻ろうとしたら武漢肺炎のせいで帰国便が無くなってしまった。人生思い通りにはいかないものであるがこの感染症騒ぎでも同じ思いをされた人は少なくないのだろう。毎日、感染者、死亡者の数が発表され、いやでも不安を掻きたてられた。ヨソ者はまるで感染媒介者かバイ菌のように扱われ、県外ナンバーの車に「出て行け」と落書きされたりした。自分も四国旅行で「県外の方の入店をお断りします」という張り紙のバーを見た。

当時、「濃厚接触者」という単語がマスコミをにぎわした。武漢肺炎発症者の立ち回り先とか会食した人などが特定され、その中に「濃厚接触者」がいて、と個人情報も何もあったものじゃない、と吃驚したものだ。名前は出ていなかったが地域では、あれはA子ちゃんだ、隣町のB太郎と、と評判になっていたに違いない

こういった武漢肺炎に対する過度の神経質な対応はタイでも同じだったらしく、外人はウィルスをまき散らす恐れがあるから家を出るなと、家に特別な張り紙を貼られた邦人もいる。また村ぐるみで外部からの車侵入を防いだ部落もある。自分が帰国した2022年11月でもマスクは必須、セブンイレブンではマスク無しでは追い出されたし、さもない荒物屋でも自分のマスクが鼻にかかっていないと店のおばさんに注意された。役所や病院では100%マスク着用だった。

大体、マスクでウィルスが防げるかどうかについては医師も疑問視していたが、マスクを着用することによって「私は武漢肺炎と戦っています」という証を示すほどの意味があったのかもしれない。

■自分としてはよかった
もし武漢肺炎の騒ぎがなかったなら、帰国滞在は2週間でそのままタイに戻り、平穏な日を過ごしたに違いない。図らずも1年8カ月の東京暮らしを満喫し、満開の桜を2度も目楽しんだし、お国から10万円、品川区からも3万円頂いた。映画も見たし、本も読んだ。何人かの友人とも再会を果たし、旅にも出たし、山中湖の別荘にも招待された。今思うと、あの時あれを食っておけばよかった、あそこに行っておけばよかった、あの人にも会いたかった、などと思うが、後悔先に立たず、できたことに感謝しながら気持ちよく暮らすほうが性にあっているように思う。

まだ検証作業に入っていないのかもしれないが、あの武漢肺炎騒ぎは何だったのだろうと思う。80万人の感染者が出てそのうち40万人は死ぬ、といった人がいたな、などと断片的に思い出すことはあるが、そもそもの武漢肺炎の責任者、出てこい、と言っても中国が相手ではどうにもならないのが空しい。

 

数十年に一度の洪水

我が家への近道、この道で立ち往生

チェンライの洪水、ニュースクリップより

同上

それほど深くない

冠水個所は少なくない

ここは少し深い

数十年に一度の洪水
■チェンライの水害が日本のニュースに
北タイに長らく住む邦人が今年の雨季は異常だと口を揃えて言う。例年だと雨季の間でも週に3,4日はテニスができるのであるが、この8月は週に1,2度できればいい方だった。我が家の近くを流れるターサイ川は危険水位すれすれだ。

日本の友人から、テレビでチェンライが水害に見舞われているというニュースを見た、大丈夫かというお見舞いメールが来た。市内の一部で5-10センチの水たまりができて車が勢いよく水しぶきをあげて通る様子は見ているが、日常生活に関しては何も影響は出ていない。水害とは言えないが雨のせいで、という事件が一つあった。

幹線道路から我が家への近道は舗装されていない。その小路の一部が泥濘と化していた。友人の乗用車がこの道を通ったため、ぬかるみに嵌って動けなくなった。後期高齢者2名とブアさんが裸足になって押したり持ち上げたりしたが、タイヤはスリップしてバンパーが泥海にめり込むばかりになってしまった。早く気づけばよかったのであるが我が家の4駆、カリビアンを持ってきて引っ張り上げたら、難なく乗用車は穴から脱出できた。まあささやかながら大雨の影響で、と言えなくもない。

確かにネットにはチェンライの水害記事が散見される。
タイニュースクロスボンバー8月15日付より。

60年住んで初めて! チェンラーイを襲った洪水被害。難航する復興作業。
8月13日にチェンライを襲った大洪水が収まり始めた後、チェンライの住民は家や店の掃除に何時間も時間を費やしました。
チェンライ市にある10以上のコック川沿いコミュニティでは、モンスーンムーランの影響を受け、大きな被害を受けました。
75歳になるルアンさんは、コック側の水が午前7時頃にコミュニティに流れ込み始め、みるみると増加し続けたと述べています。
ルアンさんは、この地域に移り住んで50~60年になりますが、このような洪水は初めてだと言います。
例年このようなことはありませんでした。
防災・減災局の事務局長ブーンサム氏は、洪水によりサイロムジョイ市場エリアの多くの店や家屋が被害を受けたと語ります。(引用終わり)

チェンライでは稀有の水害で、備えがなくて吃驚したという地区はあった。

■例年洪水になる地区
チェンライの最北端メーサイとミャンマーのタチレクはサイ川という川幅5mほどの川で隔てられている。このサイ川は毎年のように氾濫して、メーサイの商店街が水浸しになる。

タイランドニュース8月20日付から
タイ北部チェンライの洪水、2千人に影響
ミャンマーのシャン州からの豪雨と大量の水が原因で、先週末にサイ川が氾濫し、タイ北部チェンライ県メーサイ地区の国境市場やコミュニティが洪水に見舞われました。サイロムジョイ市場は1~1.5メートルの水に浸かり、今年4回目、そして1週間で3回目の洪水となりました。他に影響を受けた地域には、コーサイ、コーサワン、ムアンダエンのコミュニティやマイルンコン市場が含まれます。タイ国営メディアNNTが2024年8月19日に伝えています。
洪水は、ミャンマーのタチレクでも浸水しました。サイ川の氾濫に加え、パヤーメンライ地区のタク川も近隣の村で氾濫し、ブンヤワット寺では水位が1メートルを超えました。国家水資源局によると、過去24時間でこの地域には120ミリメートルの降雨が記録されました。

一方、チェンライ県の別の場所では、トゥン地区のプーチーファ国立公園へ向かう道路で地滑りが発生し、ウィアンチャイ地区の15の村が山からの流水で被害を受けました。メーラオ地区では灌漑用水路が氾濫し、4つの村が影響を受け、チェンセーン地区ではカム川とコック川が7つの村で洪水になりました。
災害予防軽減局の報告によると、チェンライ県では約2,000世帯が洪水の影響を受けました。(引用終わり)

■天候が安定するまでは
メーサイからミャンマータチレクへの国境は閉ざされて久しい。旅行者も少なく、メーサイはそれでなくても寂れていた。今年4回目の洪水というが、8月下旬も雨が降っており、復興はかなり先になるのではないかと思う。

タイは口コミ社会であるから、ブアさんがXXは道路冠水、○○は土砂崩れ、とにかく遠出してはいけないと口うるさい。ブアさんの携帯から送られてくる被害地の写真やユーチューブを見ると、テニスができないくらいで不満を言っていては被災者に申し訳ないという気になる。8月下旬に日本から兄が来ているが、ブアさんから遠出のお許しは当分、出そうにはない。

 

タクシン氏の次女が首相に

 

 

 

ペートンタン新首相とタクシン元首相

就任演説をするペートンタン首相、叔母さんインラック元首相に似ていて美人

我が家のバナナ、10本以上生っている

同上

同上

食べ切れない。砲弾状の花房は重さで倒れることを防ぐため切り取る


タクシン氏の次女が首相に

■日タイ政変

日本では8月14日に岸田首相が9月の自民党総裁選への不出馬を表明した。これを受けて自民党内では総裁選出馬を明言、あるいは出馬を模索している議員が12名も出てきた。総裁選出馬には20名の議員推薦が必要だが、20名の推薦人を集められない候補者もいるという。9月27日の総裁選出選挙に向けて様々な動きがあるのだろう。

タイでも首相が交代した。こちらは、スッタモンダはなく、首相解任、即、新首相選任と政治の空白は殆ど生じなかった。

以下、8月14日ロイター電から

タイ憲法裁は14日、セター首相に解職命令を下した。禁固刑を受けた人物を閣僚に任命したことで「重大な」倫理違反を犯したとの判断を示した。政治的混乱がさらに拡大する恐れがある。

セター氏は就任1年足らずで失職することになった。国会で新首相が選出されるまでプムタム副首相が暫定首相を務める見通し。

憲法裁は「(セター氏が)誠実さを欠いたため首相を解職されると判断した」と説明した。同氏の行動は「倫理基準の重大な違反」との見解を示した。決定は5対4だったとしている。

憲法裁は先週、王室に対する不敬罪の改正を選挙公約に掲げたことを理由に、下院最大勢力の野党・前進党の解党を命じている。

セター氏は首相官邸で記者団に対し、「非倫理的だと判断され首相を退任するのは悲しいことだ。私は誠実かつ正直に職務を遂行した」と語った。

セター氏が閣僚に任命した元弁護士のピチット氏は、2008年に裁判所職員への賄賂を企てたとして法廷侮辱罪で短期間収監された。同氏の贈賄疑惑は立証されず、同氏は5月に辞任した。セター氏はこの人事は正当なものだったと主張していた。

■総選挙後のゴタゴタ

憲法裁判所はプラユット軍政の置き土産で、タイ保守勢力を代弁する機関。民主派政党の「前進党」は、去年5月の総選挙で若者を中心に支持を集め第一党に躍進したが、総選挙から1年以上たった8月7日、憲法裁判所は、選挙公約で王室への中傷を禁じる不敬罪の改正を掲げたことは「国王を元首とする体制の転覆につながりうるものだ」として前進党の解党を命じた。

前進党のイケメン、42歳のピタ党首は10年間の政治活動の禁止を命じられている。本来ならばピタ氏が首班となるはずであったが、その道は憲法裁によって閉ざされた。その後、前進党を除いた政党間の妥協の産物としてセター首相が選任されたわけだが、彼も言いがかりに近い訴追理由で首相の座を追われた。

あまりいい例えではないが、民主党の鳩山政権ができる直前に党首並びに幹部は10年間の政治活動禁止を申し渡され、皇族と同じ空気を吸いたくないといった議員は逮捕、拘禁、更に民主党は解党命令が出て消滅、といった感じであろうか。タイは日本と同じ民主主義国家です、とはとても言えない。

■新首相選出

でもタイと日本の政治で似ているところもある。それは2世議員が結構力を持つということだ。8月14日にセター首相が解任された2日後、タクシン元首相の次女であるペートンタン氏が首相に選出された。

以下、8月18日付ロイター電から

16日にタイ議会で首相に選出された与党・タイ貢献党党首のペートンタン・シナワット氏が18日、ワチラロンコン国王の承認を得て首相に正式に就任した。

閣僚人事に倫理違反があったとする憲法裁判所の判断を受けて失職したセター前首相の後任として選出された。タクシン元首相の次女で、同国の首相としては最年少の37歳、叔母のインラック元首相に次ぐ2人目の女性首相となる。

18日の国王承認の式典でペートンタン氏は「行政府の長として、議員たちとともに、開かれた心で職務を全うする」とし、「全ての意見に耳を傾け、国を安定へと導く」と述べた。

「聞く力」を前面に押し出すペートンタン新首相であるが、まず、最初にやったことは、これまで国家反逆罪等で訴追されていた父親、タクシン氏を王様誕生日の恩赦により、無罪としたことである。ぺートンタン氏は国会下院で過半数の支持を得て16日に後継首相に選任され、18日には国王の承認を受けて正式に首相に就任した。就任式典を前に父、タクシン氏と共に満面の笑顔で党本部に入る首相の写真が公開されている。新首相はまだ37歳、父タクシン氏のアドバイスのもとに政権を担っていくのだろう。

尚、日本人が「ペートンタン」と言ってもまず通じない。ペー、トンと低く出て、声調をあげてターンと発音する必要がある。タイの政治よりタイ語の発音のほうが難しい。

 

 

今年も慰霊祭に

式典会場正面

チェンマイの有名人,コボリさん、日本兵スタイルで毎年登場、今年は薬を用意していた

天皇皇后両陛下と共に

右がサニットプンレーンさん

テント下の参列者

式次第

 

今年も慰霊祭に

親日

一時的帰国の期間はあるが、ここ15年タイに在住している。タイ人に囲まれて暮らしているわけであるが、これまで人種差別らしき扱いを受けたことがない。受けたことがないどころか、日本人と分かると微笑みをもって接してくれる。タイ経済に貢献もせず、タイ語も満足にしゃべれない異国の年金生活者などタイにとってお荷物かもしれない。本来、タイがロングステイヤーを誘致した目的は裕福な年配者がタイに落としてくれるお金だった。確かに欧米や中国のロングステイヤーの中には億ションと言ってもいい高級コンドミニアムを購入し、ビジネスやファーストクラスでタイと母国を行き来するす人もいる。

でも自分の知る限り、チェンライ在住邦人で超富裕層に属する人はいない。多くは退職者で年金を頼りに暮らしている。下流老人である自分をタイは暖かく迎えてくれる。これはなぜかと言われれば、先人の作ってくれた「日本ブランド」のお蔭だと言ってよい。

外務省・海外在留邦人数調査統計によると、タイ在住の邦人数は令和5年10月時点で7万人ほどである。国別順位では米国、中国、豪州、カナダに次いで5位となっている。それだけ日タイの経済関係が深く、それがタイの親日感情に影響していると言えよう。しかし、歴史上タイに一番多く日本人が在留していた時期は大東亜戦争当時である。1945年8月におけるタイの日本将兵数は約11 万人、ビルマの7万人を含めれば18万人に及ぶ日本将兵がいた。他に民間人も少なくなかったと思われる。一般的に兵士は力を笠に着て横暴であるし、ましてや敗残の兵となれば秩序もなく更に狂暴、凶悪になるだろう。しかし、タイに進駐していた日本軍に対してタイ人は悪い感情を持っていないようだ。

 

■慰霊祭会場

自分が日本人というだけで差別も受けず、安穏に暮らせるのは戦後の良好な経済関係を構築してきた企業戦士のお蔭もさることながら、タイに在留した本当の戦士がタイ人に指弾を受けるような振る舞いをしなかったお蔭でもある。インパール作戦の基地であったチェンマイは戦没将兵ゆかりの地があり、毎年慰霊祭が開催されている。自分も英霊に感謝と追悼の気持ちを表すために慰霊祭に参加している。

慰霊祭は8月15日にムーンサーン寺とバンガード高校の二会場で開催される。両地とも野戦病院があり、ビルマから逃げ戻った多くの将兵が没した場所だ

昨年はバンガード会場の慰霊祭に参列したが、今年はムーンサーン会場へ。ムーンサーン会場では日本の武道館で開催される全国戦没者追悼式が大型テレビで同時中継される。1年に1回だが君が代を斉唱する機会でもある。天皇皇后両陛下、岸田首相並びに武道館の遺族と共に黙祷を捧げた。

ムーンサーン会場では5人の僧侶による読経、供養があった。この慰霊祭は日本将兵のみならず、タイ人軍属等の供養も併せて行っている。タイは英米に宣戦布告をした我が同盟国だったのでバンコクチェンマイはB29の爆撃を受けている。

 

■交流の歴史

ムーンサーン寺の慰霊碑後方にある建物にはクンユアムの警察署長、チューチャイ氏の収集した日本兵の遺品や獣医将校だった井上朝義氏が撮影した終戦前後の写真が展示されている。兵士と村の娘さんたちの集合写真ひとつとっても兵士と村人の良好な関係が見て取れる。

今回はムーンサーン寺代表、日本なら檀家総代ともいうべきサニットプンレーン氏から追悼の辞があった。

敗残兵を見た村人は幽霊(ピー)が出たと思いました。髪も髭もボーボー、服はボロボロ、腕からはウジが零れ落ちていました。でも村人はそう言った兵隊さんを家に泊め、看病しました。兵隊さんは野菜を植え、豚を飼い、村人を助けてくれました。怪我や病気の村人を軍医さんは分け隔てなく治療してくれた。戦争は悲惨です、でもこういった日本とタイの心温まる交流があったこと、それは今の日タイ関係に繋がっているのではないでしょうか。毎日、慰霊碑の周りを近所の人たちが掃除しています。みんな、父母、祖父母から日本の兵隊さんの話を聞いて育った人ばかりです。

彼の言葉が終わると会場から期せずして拍手が湧き起こった。

会場には年配者ばかりでなく、かなり若い人の姿も見受けられた。慰霊祭は国費の援助はなく、全くのボランティアで行われている。慰霊碑の保持、修繕、清掃もタイ人と協力しながら行っている。多分この無償の活動は若い世代にも引き継がれるのではないだろうか。

雨季の盛り、雨が心配された。でも9時半の開会から11時の閉会まで天気はもった。そして閉会を待つように昼前に雨が降り始めた。これは例年通りという。