チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

3年ぶりの戦没者慰霊祭

ムーンサーン寺院、展示館前の祭場

僧侶による読経

約30名ほどの参列者

献花

展示館の写真、友好的な関係だったことがわかる

展示館のお知らせ

 

3年ぶりの戦没者慰霊祭

■心優しかった将兵へ追悼と感謝
今年も8月15日がやってきた。この日、チェンマイでは毎年、戦没者慰霊祭が行われてきた。今年は3年ぶりに関係者が集って、チェンマイのムーンサーン寺院、バンガード高校、そしてインパール作戦で勇名を馳せた第18師団の生き残り、藤田松吉氏が独力で建立した慰霊塔の3ヶ所で慰霊祭が開催された。自分はムーンサーン寺院で行われた慰霊祭に参列させてもらった。

チェンライはいいぞ、とかチェンマイってホントにいいですね、とか言いながらタイで安穏に暮らしていけるのは先人の努力、犠牲あってのことだ。つまりインパール作戦に倒れた日本将兵の方々のお陰ともいえる。1年に1回くらい先人に頭を垂れ、ご冥福を祈り、感謝の気持ちを表してもいいのではないかと思っている。

チェンライに住むようになって、日本の兵隊さんと交流のあった人、その子供世代の人などの話を聞いたり、書物で読んだりした。日本の兵隊さんはいい人ばかりだった、と懐かしむ人ばかり。おじいさん一族が雲南から裸足でタイに逃げ込んできた、という中国系タイ人がいる。彼は、子供時代のお父さんが兵隊さんに遊んでもらって楽しかった、という話をしてくれた。そのタイ人もすこぶる付きの親日家である。タイ語のジアップ先生は日本の兵士がタイ女性をレイプしたという話は聞いたことがない、と断言していた。タイは口コミ社会、優しかった日本兵の話は語り継がれてきたのだろう。

ムーンサーン寺院には野戦病院があって、地域住民の病気や怪我を軍医が診てくれたという。また、戦後すぐとは思うが、兵士が住民と一緒に家畜を飼い、野菜作りを手伝っていたそうである。寺院付属の展示館にはタイの娘さん達と和やかに食事をする兵士の写真が残されている。

■政府でなくボランティアが主催
チェンマイ戦没者慰霊祭はボランティアの実行委員会が手弁当で行っている。今の世話役は十数年ほど前に委員会を引き継いだ。それ以前からも慰霊祭が行われていたらしい。ムーンサーン寺院にあった野戦病院で亡くなった将兵は少なくない。荼毘が間に合わずそのまま埋葬された遺体もあったという。戦後、遺族が寺院を訪れるたびに慰霊祭が行われていたが1970年にムーンサーン寺院の境内に遺族団による慰霊碑が建立されてからは例年の行事となったようだ。
慰霊祭の開催のほかに実行委員会では有志が慰霊塔の清掃、慰霊塔周りのタイルの張替え、慰霊塔地区の人々との交流などを行っている、そのご尽力には頭が下がる。

8月15日に戦没者慰霊祭をやっている国は他にもある。日本人は51万人、現地人も100万人亡くなったというフィリピンである。今年はやはり3年ぶりの開催、マニラ郊外の霊園には180名の参加があり、越川駐フィリピン日本大使やフィリピン日本人会会長等が献花をし、戦没者への祈りを捧げた、とある。フィリピンの戦没者慰霊祭は毎年,駐フィリピン日本大使館の主催だ。

チェンマイ戦没者慰霊祭には総領事館からの花輪、それに総領事、筆頭領事の挨拶はあったが大使館からは誰も来ない。主催者が違うから、という理由からかもしれないが、タイの戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、ちと冷たいのではないか。確か3年前にはバンコク日本大使館駐在の一等陸佐が参加していたが、個人的な参列だったのだろうか。

タイ国は、一度は日本に呼応して英米に対し宣戦布告をし、共に戦った仲である。バンコクチェンマイはB29 の空爆を受けており、その犠牲者も併せて慰霊の対象となっている。式では寺院僧侶団の読経があったからタイ人の御霊も安らぐことと思われる。

■同時中継に合わせて
慰霊祭は東京の武道館で行われた全国戦没者追悼式の同時中継と共に行われた。武道館は感染症対策のため、例年の1,2割ほどしか参列者がいない。また国歌斉唱も今年は歌うことは自粛ということで演奏を聴くだけだった。
岸田首相の式辞を聞いた。こんなくだりがある。「未だ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、国の責務として全力を尽くしてまいります」。

バンガード高校には1万8千柱の、藤田氏の慰霊塔には彼が個人的に集めた800柱の、ムーンサーン寺院周辺にも多数の遺骨があった。インパール作戦での戦死、戦病死者は7万を超えるという。ミャンマーには遺骨収集団が入れない地域もあり、未だ戻らぬ遺骨が多数ある。戦後77年、遺骨は故郷ではなく土に戻ってしまっているのでないか。