チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

 臓器狩り

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法輪功のデモから

 

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法輪功のデモから2

 

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法輪功のデモから3

 

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中正記念堂

 

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故宮博物院

 

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赤崁楼



臓器狩り


法輪功
台湾の観光スポット、例えば台北の中正記念堂、故宮博物院、台南の赤崁楼等に行けば、必ず数名から十数名の集団がビラ配りをしている光景を見る。これは法輪功の人々で、法輪功の勧誘と、中国共産党の迫害を批難する街頭活動を行っている。差し出されたパンフを日本人ですから、と断ったら、ああ、それではこれを、と法輪大法と書かれた和文パンフレットを呉れた。更に厚さ2センチくらいの本をどうぞ、と言われたが、重そうなので本は断った。

ご存知の方も多いと思うが法輪功とは、道教と仏教の思想を根底に併せ持つ先史文化に根ざした気功修練法。気功は中国の伝統的な健康法であるが、法輪功は1992年に李洪志という人が始めたらしい。中国であっという間に広まり、1998年には中国国内で共産党員数を上回る7千万人の実践者がいたという。1990年代後半から法輪功学習者の数が増え続けたことや、中国共産党幹部にも多数の学習者を抱えていたことなどから、中国共産党法輪功に対する危機感を高めていた。

1999年、当局が法輪功の書籍や屋外における気功練習を統制しはじめたことに対して、数十人の学習者が中央政府に陳情を行った。当局が理由の公表もなく拘束したことから、全国の学習者に、拘束者を解放して欲しいと願い求める声が高まった。

全国から集まった1万人以上の法輪功実践者が1999年4月に北京中枢部の陳情受付所に上京した。陳情者は、列に並んで陳情書を届けなければならないが、人数が多く、警察が交通案内したところ、結果的に中南海をぐるりと巡るように列ができた。この出来事を契機に、1999年7月20日、当時中国の最高指導者であった江沢民法輪功学習者への弾圧を開始した。数十万人の法輪功学習者が逮捕され、暴行、精神的的虐待など、残酷な迫害を受け、ひいては殺害された。。

このとき江沢民は「当時、7千万人以上に及んでいた国内の学習者らが団結し、中国共産党を支持する人数を上回る大規模なグループとして、なんらかの政治的関与を行うのではないかと一方的に憶測し、恐れた」と言われている。迫害の瞬間を捉えた画像や、国連や専門団体による調査書なども数多く存在している。 国際連合の専門機関は中国政府に詳細な調査を行うよう、現在も要求し続けている。

■「法輪功弾圧モデルが原案」米人権組織、新疆迫害を分析
12月8日付大紀元によると、米国の非政府組織「フリーダムハウス」上級アナリストのサラ・クック氏は現在、中国で行われているウイグル人に対する迫害の手法が法輪功学習者への迫害から踏襲したものだとした。
迫害について事情を知る匿名の情報筋は最近、大紀元に対して、新疆の「再教育キャンプ」の部門責任者は、ほとんど国家安全保障と、法輪功弾圧のための専門機関「610弁公室」から出向した軍部、検察、司法の高官だとした。また、この情報筋によると、新疆の「再教育キャンプ」にとらわれた人々はウイグル族のみならず法輪功学習者、キリスト教信者なども含まれているという。

「転向」「洗脳」「訓練」および「強制連行」は、中国が強制的に法輪功修煉を停止させるために使用する手段だ。法輪功迫害情報を伝える明慧ネットによると、多数の学習者は強制労働所や収監施設で拷問を受け、少なくとも4000人以上が死亡したという。

■臓器移植
臓器移植の技術では中国が抜きんでている。日本での臓器提供者(ドナー)は年間100人程度であるが、中国での移植手術の件数は1万件をはるかに越えている。英国の情報機関によれば数万件から10万件という。熟練は当たり前。臓器は善意の死刑囚から提供されたというが、中国の死刑者は年間1700人ほど。計算が合わない。中国の臓器移植件数は1999年以降、急激に増えている。ノーワック国連拷問特別調査官の報告書には「法輪功学習者たちは、心不全を起こす薬物を注射され、臓器を摘出されている間、あるいはその後に殺害されている」と記載されている。

SAPIOの2017年7月号には中国の一大産業である臓器移植ツーリズムが取り上げられている。中国で移植手術を受けた邦人66人へのアンケートによると、50~60代の男性が約7割を占め、大半が腎臓の移植だった。手術費用は500万~1500万円が半数以上で、業者への仲介料は100万~1000万円が6割を占めた。手術費用1500万円以上、仲介料1000万円以上を支払った患者もそれぞれ3割ほどいた。中国では適合するドナーが48時間以内に見つかるらしい。

台湾で貰ったパンフには臓器を摘出されたとみられる無残な拷問死体の写真があり、「移植のための中国渡航をしないで下さい」と記されている。本当に習近平国家主席国賓として日本に招くのか。

 

台南の続き

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旧社宅内部

 

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外代樹夫人像

 

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旧放水路、夫人最期の地

 

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老農街

 

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老農街の朝

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赤崁楼(せきかんろう)公園内部


台南の続き

■八田記念公園
2009年5月8日、八田技師の命日に開催された八田技師追悼記念コンサートの席上で、馬英九総統は「八田技師の功績を埋没させてはいけない。史実を尊重しなければいけない」と八田技師の貢献を高く評価し、「八田記念公園」の建設を指示した。烏山東ダムの近くの草むらに荒れ果てていた宿舎群を日台両国の技術者、専門家が協力して再建し、公園とした。八田技師一家が住んでいた社宅は復元前は基礎しか残っていなかった。関係者は八田技師の遺族を訪ね、当時の写真や手書きのスケッチを入手し、歴史資料や周辺の住宅を参考に八田興一旧宅を復元した。専門家たちは百年前の木造家屋を再現するため、古い建材を探しに日本まで訪れたという。

また、住宅内部に置かれた箪笥、机、掛け軸等の日本家具は、八田技師の出身地である金沢の市民からの寄贈を募ったもの。タンスは21棹、小物は163点もの骨董品が集まった。2011年の公園完成の記念式典には森喜郎元首相が列席しているがこれも金沢の関係だろう。

4軒の社宅を見て回る。始めに上がった田中・市川宅は甘味処の喫茶店になっていた。畳の上に座って日本茶と和菓子を頂く仕組みだ。八田技師の家は増築された洋式の書斎がある。机には古い図面が広げられていて、本当に八田技師が使用したのではと錯覚するほどだった。社宅の横には奥様の外代樹夫人が幼児を抱いた銅像がある。日本風の美人、寂しそうな顔は自分の最期を予期していたからだろうか。

■夫妻の記念室
烏山頭ダム旧放水路の傍らに建つ「八田技師記念室」には夫妻に関する資料が展示されている。
八田技師は旧制四高から東京帝国大学土木工学科を卒業し、24歳で台湾に赴任した。烏山東ダムばかりでなく、台北下水道、高雄港の建設、日月潭水力発電所、大甲渓電源開発計画など日本統治時代の土木水利工事の殆どに参画した。また、土木測量学校を創立し、土木技師育成にも積極的だった。
1942年、調査のためフィリピンに向かう途中、乗船した輸送船が米国潜水艦の攻撃によって沈められ、56歳の生涯を閉じた。夫妻は2男6女という子宝に恵まれた。外代樹夫人は、学徒動員から長男が戻ってきたのを見届け、1945年9月1日に烏山東ダムの放水路に身を投げて命を絶った。

旧放水路はほとんど使用されなくなったのだが、そのまま残してあるということは、外代樹夫人を偲ぶ台湾人の心あってのことだと思う。資料には外代樹夫人は人柱、ダムの守り神と崇められているとあった。またウィキペディアには八田技師の銅像が戦中、戦後、2度に亘って行方不明になったと記されている。これは八田技師を敬愛する嘉南の人々が密かに隠していたことに疑いはない。

司馬遼太郎は「台湾紀行-街道を行く40」の中で「故人は国籍、民族を越えた存在になっている」と八田技師を称えている。夫妻を描いた長編アニメ映画『パッテンライ!!(八田がやってきた)』(2008年制作)は台湾では一般公開されたが、日本では一部で上映されただけ、やはり知名度が低いのか。

■神農街
台南に来たらこのオールド・ストリートを歩かなくては。台南が台湾の京都といわれる理由が分かるでしょう、とガイドブックにある。台北の名スポット「九份」にも負けないくらいにロマンチックな風景が広がります、というネット記事もあった。300mほどの長さの小路である。狭い石畳の道の両側に築200年という古い家屋が並ぶ。この古民家を台湾では「老房子」と呼ぶらしい。家々の軒先は、どうカメラを構えても絵になるノスタルジックなものばかり、というが、崩れそうな珈琲店の隣がガチャポンの店、雑貨屋の隣がスイーツ店といったようになぜか無秩序に木造の家が並んでいる。夜は赤い提灯に照らされ、インスタ映えがするのであるが、違法駐車のバイクが邪魔、でも、宿泊場所に近かったので夜と朝、2回写真を撮りに行った。実物よりうまく撮れたかどうか。

■赤崁楼
赤崁楼(せきかんろう)は17世紀にオランダ人によって築城された旧跡。城壁を残すだけに荒廃していたが、19世紀後半、大士殿、海神廟、蓬壷書院、文昌閣、五子祠などが赤崁楼の跡地に再建され昔日の様子を取り戻すようになった。その後も修復が繰り返され、現在は台南市立歴史博物館となっている。

入場券を買う際、窓口に「65歳以上は半額、25台湾ドル」と書いてあった。旅券と25ドルを出したところ、台湾人でないとダメね、とあっさり断られ、慌てて25ドルを足した。赤崁楼で記憶に残っているのはこれくらい。台南だけで4本になったので少し先を急ぎたい。

台南に来たことがないと

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台南駅の看板

 

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こんなパンフが

 

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夜の林百貨店、絵になります。

 

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レトロな店内

 

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昭和初期の雰囲気

 

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林百貨店の前のカップル。アングルが悪く百貨店は写っていない。



台南に来たことがないと

 

■没来過臺南
台南は古くから拓けた土地で、17世紀にオランダ人はここに根拠地ゼーランディア城を置いた。その後、台南のヒーロー「鄭成功」がオランダを追い出し、清代には政治、経済、文化の中心地として台湾で最も繁栄した都市になった。市内には明時代からのものを含め旧跡が非常に多く残されているため、「台湾の京都」と呼ばれている。台湾旅行というと3泊4日で台北周辺だけ回って帰るツアーが多いが、台南住民としては台南に来て頂かないと、という自負があるようだ。

「台南に来たことがないと、台湾に行ったこととは言えません(没来過臺南、不算到臺灣)」。これは台南駅構内に展示されていた臺南市政府、観光旅游局の宣伝看板にあった惹句である。浴衣姿の若い女性が温泉の湯を手で掬っている。意外と知られていないが台湾は温泉天国、100以上の温泉地があり、日本統治時代からの純和風温泉旅館も少なくない。この台南の温泉は関仔嶺温泉。関仔嶺温泉は北部の北投温泉と陽明山温泉、南部の四重渓温泉と並んで台湾4大温泉の一つという。関仔嶺温泉は台湾では珍しい「泥温泉」で、硫黄成分を多く含み、灰色に濁っていて美容にも効果があると言われている。

台南には1泊しかしていないので、温泉には行っていない。また台湾に行く楽しみができた。ゆっくりと大正、昭和のレトロな和風旅館の温泉に浸かってみたいものだ。

■せつないまでの片思い
台南駅の案内所で貰った資料を読むと台湾人の日本に寄せる想いが痛いほど伝わってくる。「日本統治時代の台南を偲ぶ旅」というパンフには烏山頭ダム、八田興一記念館と並んで1902年に関仔嶺温泉に建てられた台南初の温泉旅館「吉田屋」、忠義小学校講堂、元日本勧業銀行台南支店、台南庁長官舎、日本陸軍偕行社、元台南警察署、台南師範学校本館、元日本軍歩兵第二連隊軍営など20-30カ所の日本統治時代ゆかりの建物が紹介されている。更に1923年4月に裕仁皇太子殿下(昭和天皇)が台南を行啓されたルートやスケジュールまで事細かに掲載されている。行啓の折、第二連隊軍営にガジュマルをお手植えになったが、そのガジュマルが大木となり、その一帯がガジュマル園となっていることも記載されていた。

台南の観光スポットをネットで検索すると、夜市やグルメが中心で、赤嵌楼、孔子廟、神農老街等は出てくるが統治時代の建物は少ない。このパンフを持って日本ゆかりの場所を訪ねる日本人はどれほどいるのだろうか。

ついでに書き留めておくとこのパンフには、現存はしていないが「北白川宮御遺跡所」の説明もある。1895年、日本軍の台湾征討近衛師団長であった北白川宮能久親王がこの地で戦死、薨去された部屋が「御遺跡所」とされ、その後、「台南神社」に増築された、とある。今、日本の新聞では宮様がお亡くなりになった時、「亡くなられた」と書き、「薨去」という正式な用語を使わない。しかし、台湾の観光パンフではしっかり「薨去」が用いられていることを知って感銘を受けた次第。

■林百貨店に行ってみた
林百貨店は1932年に山口県出身の林方一氏が建てたデパート、だからリンではなくハヤシ百貨である。当時台南では唯一、エレベータを備えた6階建てビルディングであった。戦後、空軍や警察の建物として使用されたが、1980年より空き家になっていた。1998年に台南市により、市定古跡に認定され、2010年1月より修復作業が行われ、2013年1月に完成した。修復に際しては、創業当時の姿が再現されたほか、米軍によって爆撃された跡や当時のままの床材の一部などを記録として残している。屋上にあった邸内神社も「林百貨頂楼神社遺跡」として残されている。

営業時間は夜10時まで、台南のお土産を買うならココ、というので行ってみた。昭和7年にできたというが、白色電球が似合いそうな大正のロマンを感じさせる店内、先ずお茶の売り場がある。小さなエレベータにも乗ったが当時はこれに乗るために行列ができたとか。ローカルの雑貨や衣服の売り場もある。屋上には甘味処、食堂があって、ゆっくり半日は過ごせそうだ。このビルは台南の目抜き通りの一角に位置している。筋向いのビルは元日本勧業銀行台南支店と思われた。ドーリア式石柱が並ぶ荘重な建物である。交差点に立ってライトアップされている林百貨店を見た。すぐ横にカメラマンが数人いて、新婚とおぼしきカップルを林百貨店を背景にして撮影していた。

夜目、遠目、自分も望遠を利用してお二人を撮ってみたが、現場のほうが美男美女だったような気がする。

 

暴走老人

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ラオスの国道

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ラオスの側道

 

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ラオスにはこんな道も

 

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我がフォルツァ

 

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タイの道路

 

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タイの道路際






暴走老人

■危険は自覚
いい年をしてスクータで1日600キロ走るなんて正気の沙汰でない、と言われた。自分でもそう思う。ラオス国内であれば、朝8時に出発して、そろそろ泊まるところ探すか、という時間にスクータを停めるのであるが、走行距離はせいぜい300キロ、道が悪ければ200キロを越えたところで夕刻となってしまう。ラオスからタイに入ると道路の良さに感激してしまう。ラオスは片側1車線の曲がりくねった山道、タイは片側2-3車線の分離帯のある平坦な直線道路。これが後進国と中進国の差か。ついついスピードが出てしまう。よってタイで1日8時間走ると、調子がよければラオスの倍、600キロ以上走ってしまうことになる。

先般、パタヤで開催された世界ドラゴンボート大会に日本チームを応援に行った折、友人から「600キロというと東京から岡山、広島くらいまで行くんじゃないの」と言われた。自分の答えは、「途中で県警、府警に何度も捕まって路銀が尽きるので辿りつけない」というものだった。タイの国道は高速道路ではないが、直線道路では時速130キロくらい出している。フォルツァを購入したころは時速100キロを越えると体が硬直するほど緊張したものだが、慣れというものは恐ろしい。でも年並みに動体視力、反射神経は衰えているわけで、そのうち一瞬の判断ミスで転倒、障害物への衝突、あえなく昇天ということになりかねない。

■若者の厳しい目
日本での二輪車の購入世代は、いわゆるリターンライダーと言われる50代が28%、60代が23%の順で、購入者の平均年齢は52.7歳となっている。熟年ライダーが多ければ事故も多くなるのは事実。警察庁の発表では交通事故の死者数が減少するなか、中高年のオートバイによる死亡事故が増えているとのこと。バイク乗りが高齢化しているのだから事故件数だけではなく、年代別の事故率を見ないと中高年だけが危ないとは言い切れない。

でもネットには「自分の体の衰えに気付かず、若かった当時の気分で乗り回してる様子、危ないから免許更新時に体力測定とかもしてほしいわ・・・」、「若い頃と同じ感覚で同じように乗っている、実際はすべて衰えてるから無茶無理無謀運転になって勝手に死ぬ。下手すりゃ他人巻き込んで迷惑かけて死ぬ。ジジイバイク乗りはこんなのばっか」、「もう残りの人生どうなってもいいって考えてる中高年が乗ってるんだろうからべつに良いんじゃない?」といった若い人の意見が寄せられている。更には熟年にも「免許を取らせない」「買わせない」「運転させない」の三ない運動を推進すべきだという声もある。熟年ライダーに対する目は厳しいようだ。運転にはお気をつけて、といった優しい言葉は期待しないが、どうも最近の日本は年寄りには住みにくいようだ。

■日本だったら半数が退学処分
1980年代にバイクブームによって急増した事故や暴走族の跋扈により、バイクが社会から否定される存在となり、1982年の全国高等学校PTA連合会にて全国で三ない運動を推進することが決まった。自分は社会人となってから自動二輪の免許を取得し、400㏄のオートバイに乗っていた。母が近所の鮮魚店で「うちの息子、オートバイに乗っているのよ」と言ったら、店員さんに「へー、親不孝者だね」と返されたそうだ。バイクは不良の乗るもの、と当時は思われていた。

本田宗一郎氏はバイク否定の三ない運動に対し、「教育の名の下に高校生からバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えるのが学校教育ではないのか」と述べている。当時の文部省も学習指導要領に存在しない「三ない運動」を容認しない立場から、高校生のオートバイ利用に対応した交通安全指導書の整備を積極的に図るようになる。

更に1991年の東京地裁で「三ない運動は違憲」という判例が出され、PTA主体の三ない運動は崩壊した。とはいえ今でも事実上、運動を実施している広島県の例もある。厳しい規制の結果、広島ではバイク事故はほとんどないが自転車事故は全国でも突出して多いという。

チェンライには公共交通機関がないから、高校生はバイク通学が一般的、市内のサマーキー、ダムロン高校のの周りはバイクで一杯だ。先生も親も生徒が免許を持っているかどうかにはあまり関心がない。免許取得率は恐らく半分以下だろう。

タイの国道の制限速度は90キロ、それをいつも100キロ以上で飛ばし、時には逆走も厭わない自分は「暴走老人」と指弾されても仕方ない。タイは何事もおおらかでいいね、と思う反面、何時か痛い目に合うのでは、と自戒しているところである。

 

烏山頭ダム見学

 

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烏山頭水庫ゲート

 

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案内板

 

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八田像に続く階段

 

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可愛い機関車

 

 

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八田技師像、後方に八田夫妻の墓が見える

 

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殉工慰霊碑

 

 

烏山頭ダム見学

■入場料は100台湾ドル
台南駅から隆田までは電車で15分ほどだったと思う。隆田駅前は台南駅と同じく、ロータリーとなっていて客待ちのタクシーが数台停まっていた。駅から300台湾ドル(約1000円)と聞いていた。タクシーから道の両側に広がる田を眺めながら、ここもダムのお陰で豊かな水田に変貌したのだろうと思った。車内で運転手がダム公園を回るのだったら、タクシーで回るのが便利、貸し切りで800台湾ドルといってパンフを見せてくれた。800が高いかどうかわからなかったので、断ってしまったが、これを後で後悔する羽目になる。やがて車は烏山頭水庫の入場ゲートに到着した。タクシー代は250台湾ドル、少しトクをした気になる。ゲートで入場料、100台湾ドルを支払う。

日本人数人を案内した台湾人ガイドがこの券売所で、「日本から八田技師の墓参りに来たというのに入場料をとるとはどういうことか」と涙ながらに売り場のおばさん2人と口論になった。おばさんは頑として譲らない。ガイドは日本からの客人に払わせるわけにはいかない、私が払います、と言って全員の入場券を買った。帰りの車の中で、日本人が、ガイドさんに払わせては、と代金を集めて手渡そうとした。でもガイドは「これ以上、私に恥をかかせないで下さい」と言って決して受け取ろうとはしなかった。ネットで読んだ話であるが、券売所のおばさん2人を見て、ガイドと揉めたのはこの人かな、と思った。

■八田興一銅像
ゲートから烏山頭ダム風景区管理事務所かはるか先に見える。左は広大な駐車場、右は三角姫垣公園となっている。ダム一帯は公園となっていると知っていたが、これはかなりの広さがありそうだ。管理事務所から道が3方向に分かれる。案内板に従って、八田興一銅像の方向へ進む。広い公園内であるが人けが全くない。歩いているのは自分だけ、ダム公園を独り占め、という感じである。銅像はダムを見下ろす丘の上にある、とネットで知っていたが、確かに道は登りとなり、右手の石段を登った先に銅像があるらしいと分かった。

駅から直接、ダム公園に来ているからリュックを背負ったままである。台湾の暑さはチェンライの暑さと違って湿気を伴う。昔、出張できた時、タクシーを下りた途端、同行者の眼鏡が、真冬のラーメン店に入った時のように曇ったことを思い出した。上はTシャツだからまだしも、Gパンが汗で濡れて気持ちが悪い。石段を登り切ったところに可愛らしい蒸気機関車が展示されていた。ベルギー製の機関車で、ダムから20キロ離れた曾文渓の川底から取った土砂の輸送に使用されたという。誰もいないのでここで短パンに穿き替えた。脱いだGパンは機関車の裏側の鉄柵に広げて干しておいた。

機関車の先に何度もネットで見た八田興一銅像があった。この銅像はダム完成後の1931年に作られたものである。住民の民意と周囲意見で出来上がったユニークな銅像は像設置を固辞していた八田本人の意向を汲み、一般的な威圧姿勢の立像を諦め工事中に見かけられた八田が困難に一人熟考し苦悩する様子を模し、碑文や台座は無く地面に直接設置され、同年八田立会いのもと除幕式が行われている。

その後、国家総動員法に基づく金属類回収令により供出された際に行方不明となった。その後発見され、もとの場所に戻されたが、1949年から中華民国蒋介石時代には大日本帝国の残した建築物や顕彰碑の破壊がなされた際に再び撤去され1981年1月1日に、再びダムを見下ろす元の場所に設置された。

■静寂の園内
銅像の前に人影はなく、これなら2017年に像の首を切り落とした親中派の犯人もゆっくり作業ができたのでは、と思った。像の後方に八田夫妻の墓があった。静かなダムを見下ろす墓の前で暫く頭を垂れた。
この丘の先は瀟洒なリゾートホテルとなっていた。もと来た道を辿って、干しておいたGパンを回収し、ダム堰堤に立ってみた。遠くの岸辺に遊覧船が係留されていた。船が湖上を周航することがあるのだろうかと思うほど堰堤にも人の気配は感じられなかった。
八田技師が中心となって建立された殉工碑に詣でた。工事中に亡くなった日台130数名の氏名が順不同で刻まれている。八田技師の手になる碑文には「曾文渓に水が尽きさざる限り、諸子の名も不朽なるべし」とあり、彼の心情に打たれた。

リュックを背負った重装備で3時間以上歩き回り、疲労困憊、こんなに広いと知っていたらタクシーで回ったに違いない。疲れはしたけれど、見終わった時の気分は清々しいものであったこと、また券売所のおばさんが帰りのタクシーを呼んでくれたことを付記しておきたい。

台湾で最も尊敬される日本人

 

 

 

 

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台北駅構内

 

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台北―台南 乗車券 738台湾ドル。3千円ほど

 

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自強号車内

 

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自強号ではないと思うが

 

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台南駅構内

 

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台南駅内

 

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23分発の電車で隆田へ



台湾で最も尊敬される日本人

 

■日本精神
台湾人が好んで用いる言葉に「日本精神(リップンチェンシン)」があります。これは日本統治時代に台湾人が学び、日本の敗戦により大陸から来た中国人が持ち合わせない精神として台湾人が自ら誇りとしたものです(「勇気」、「勤勉」、「自己犠牲」、「責任感」、「遵法」、「清潔」といった精神を表す)。私は八田こそこうした日本精神を代表する人物だったと考えています。以上は李登輝台湾総統の言葉である。

八田興一は台湾にダムと灌漑用水とを建設し、当時は洪水と旱魃を繰り返す不毛の土地であった嘉南平原を台湾一の穀倉地帯に変えた人物である。彼が手掛けた烏山頭ダム(1930年完成)は当時世界最大。八田は、このダムに加えて嘉南平原に蜘蛛の巣のように張り巡らされた約1万6千㎞に及ぶ灌漑用水路の建設を行った。1万6千キロと言えば万里の長城の6倍の長さである。嘉南平原に住む台湾農民60万は、八田が作った新しい水路から水が流れて来たとき、「神の水が来た」と涙を流したという。

工期は10年に及んだ。現場には作業員やその家族2,000人が住みついた。学校や病院、銭湯、テニスコートまで作られ、地元民からも感謝された。八田の子供達も台湾人の子供と一緒にこの学校に通った。工事現場は夜遅くまで皓々と灯りがともり、徹夜作業も当たり前であった。建設現場では人間関係が大事なことを知っていた八田はよく作業員の宿舎に上がり込んでは、彼らと花札に興じていたという。

工事開始から3年目の1923年、関東大震災が発生した。影響で予算が縮小され、職員、作業員の半数を解雇せざるを得なくなった。その時、八田は予想に反して日本人を先に解雇していったという。台湾人のためのダムだ、台湾人が働かなくてどうする。八田は肩書きや人種、民族の違いによって人を差別しなかった。十年の工事期間中に134人もの人が犠牲になった。烏山頭ダム完成後、殉工碑が建てられ、134人の名前が台湾人、日本人の区別なく刻まれた。八田興一は優れた技師であったと同時に、義を重んじ、誠をもって率先垂範、実践躬行する日本的精神の人であったがゆえに台湾の人々に尊敬され続けているのだ。

■ツアーはキャンセル
「認識台湾」という中学校の歴史教科書には八田興一が掲載されていた。そのせいか彼の名前は日本より台湾でよく知られている。
台南の烏山頭ダム一帯は公園となっており、八田興一の銅像や記念館があることはネットで知っていた。また2017年4月に公園内に設置されていた八田興一像の首が中台統一を目指す政治家によって切り落とされるという事件があった。日本でも報道されたので、八田興一について改めて知った人も多いのではないか。

10月に短期間ではあったが、台北-台南-高雄-金門島台北と回った。八田興一ゆかりの烏山頭ダムを訪れることも旅の目的の一つであった。自分より2カ月ほど前に台湾を訪れた友人が、台北から行く「台湾の古都、台南1日ツアー、烏山頭ダム、八田興一記念館等を巡る」を申し込んでいた。しかし、最少催行人数4名に満たなかったため、キャンセルになってしまったという。台北から出発するから人数が集まらないんだ、と思って台南出発、台南解散の同じツアーに申し込んでおいた。費用は1800台湾ドル、約7千円。ところがこれも4人集まらなかったのでキャンセルになった。烏山頭ダムはそんなに人気がないのか。

■台南に着いたその足で
台北車站を朝7時過ぎに出発、新幹線なら2時間で着くが1305台湾ドルと高いので約半額の台湾鉄道「自強号」を利用した。券売機での切符購入にあたっては通りすがりの娘さんが助けてくれた。異国の老いぼれへのご親切、決して忘れませぬぞよ。
昼前に台南車站到着、駅を出てすぐ左に旅行案内所があった。台南の地図や烏山頭ダム、更には「千里はるばる水路を拓く」と書かれた八田夫妻の写真入りパンフまである。タイではチェンライはもちろんチェンマイバンコクでも日本語のパンフなどない。印刷物を選んでいると案内所の女性が日本語で話しかけてくれた。八田興一記念館に行きたいんですけど。
ネットには台南車站からタクシーでいくのが一番いいと書いてあった。でも女性はパソコンを叩いてバスの時刻を調べている。我が風体をみて安く行く方法を探索しているのだろう。結局、鉄道で隆田駅に行き、そこからタクシーでダムへ行くことにした。女性はわざわざ鉄道のホームまで案内してくれた。台湾の女性は老人に優しい。

 

 

無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』台湾で今も尊敬される日本人・八田與一 戦前に東洋一のダムを完成させる
https://news.livedoor.com/article/detail/11216631/ を参考にしました。

ラオス旅行総括

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この程度なら問題なし

 

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メコン、ルアンプラバンから

 

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クアンシ―の滝

 

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ラオスの山

 

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ルアンプラバンの竹橋

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ラオスの橋、バイク試験の直進狭路、通称1本道を思い出す

 

ラオス旅行総括

 

■悪路に辟易
7月にラオスに渡り、ベトナムディエンビエンフーを見物し、ビエンチャンからタイに再入国した。8日間のラオスツーリングは悪路との戦いだった。スクータで走るべき道ではなかった。更に事情があって単独ツーリングとなった。反省としては一人旅になると分かった時点、即ちルアンナムターで、そのま引き返せばよかったと思う。ディエンビエンフーに行く山道は、まずまずの舗装状態であったが、幹線国道は建設中の一帯一路の高速鉄道、高速道路とほぼ平行して走っているため、道路の痛みが激しかった。何回、コケそうになったことか。バンビエンとビエンチャン間の道路に深さ20㎝ほどの溝が横、数メートルに亘ってあいていた。ブレーキをかけるまもなくスクータから洗濯機を放り投げたような大音響が出た。座席下に収納のカメラが壊れちゃうよー、が衝撃直後の感想だったが、転倒しなくて本当に良かった。数年前のラオスツーリングではそれほど国道は傷んでいなかったのに。

ラオスでは地方のほうに行くと、ナンバープレート無しのバイクが多くなる。登録済みバイクは少数ではないのかと思う。バイクばかりでなくナンバープレートのないトラック、乗用車も走っていた。考えてみればプレートがなくても構造上、運転には支障がない。面倒な手続きを省き、無駄な費用は極力抑えるという合理主義が先行しているのかもしれない。

こういった車と接触してバイクが谷底に転げ落ちても車はそのまま走り去るだろう。運転手が免許を持っているかも疑わしいし、飲酒、ヤク中運転もありうる。またブレーキがきかない整備不良車かもしれない。

外務省の海外安全ホームページラオスの項では
「不幸にして交通事故に遭遇してしまうと,地方部では,救助のための携帯電話が通じない場所も少なくありません。加えて,当局の対応能力にも限りがあるため,迅速な救助活動ですら期待することができません。また,事故で重い傷害を負ってしまうと,ラオスの医療水準では,都市部であっても満足な治療を受けることができません」、とできることは限られるので、自己責任で、と言外に仄めかしている。予めこれを読んでいたら決して無理をしなかったと思う。無事に帰ることができたのは日頃のタンブンのお陰、神の祝福と感謝している。

■一帯一路
ボーデンからビエンチャンまでの417キロの高速鉄道、予定通り2年後の2021年に完成するだろうか。ラオスには実質、鉄道建設の実績がない。高速鉄道では、トンネルを75カ所に掘り、橋梁を167カ所に架ける必要がある。総延長距離の6割がトンネルと橋梁になる。労働者は中国人ばかりという不評を聞くが、ラオスにトンネル、橋梁の技術者がいないのだから仕方がない。言葉の通じないラオス人を教育して、では時間が足りないし、技術習得も覚束ない。建設ばかりか運転手や駅員の養成、運行計画作成もラオスではできない。高速鉄道は予定通りには完成しないし、完成しても運用できないと思う。

また「高速鉄道」は単線で最高速度160キロだ。貨物列車は120キロという。1日数本の鉄道がどれほど経済効果をもたらすのか。計画では中国の昆明からビエンチャンバンコク、そしてマレーシア、シンガポールまで鉄道を延伸するという。でもタイではLLC、バスの発達により鉄道の地位は落ちている。バンコクチェンマイの新幹線計画も採算の面から頓挫した。また鉄道の軌道幅も国によって異なる。

貸す方も悪いが、金を借りる方も悪い。新聞は書かないが、発展途上国の為政者の汚職はひどい。鉄道ができようが採算割れとなろうが、賄賂さえもらえればあとは知らない、だ。港を取られたり、中国軍の基地提供を余儀なくされている国は賄賂漬けの為政者が悪いと自分は思う。運賃収入だけで数十億ドルの融資返済は不可能だ。ラオスの鉱物資源、電力販売代金の差し押さえが始まるだろう。すでに駅の建設予定地や、全417キロにわたる線路の両側50メートルの土地の使用権が、中国とラオスの合弁企業に半永久的に付与されることになっている。

■TM30
タイ国内に2泊して11日目にチェンライに帰宅した。総走行距離は2776キロ。もうスクータには乗りたくないと思った。でも入国後24時間以内にイミグレにTM30 という届を出す必要があるのだが、入国後すぐには行けなかった。仕方なく、数日後スクータでメーサイに行き、タチレクに入り、入国印を貰って、メーサイのイミグレに行き、「今、入国しました。TM30お願いします」。これで罰金を支払わずに済んだ。

メーサイ往復120キロ、ホンのチョイノリでしたね。