チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

烏山頭ダム見学

 

f:id:hidenaka24:20191208115413j:plain

烏山頭水庫ゲート

 

f:id:hidenaka24:20191208115421j:plain

案内板

 

f:id:hidenaka24:20191208115425j:plain

八田像に続く階段

 

f:id:hidenaka24:20191208115429j:plain

可愛い機関車

 

 

f:id:hidenaka24:20191208115432j:plain

八田技師像、後方に八田夫妻の墓が見える

 

f:id:hidenaka24:20191208115435j:plain

殉工慰霊碑

 

 

烏山頭ダム見学

■入場料は100台湾ドル
台南駅から隆田までは電車で15分ほどだったと思う。隆田駅前は台南駅と同じく、ロータリーとなっていて客待ちのタクシーが数台停まっていた。駅から300台湾ドル(約1000円)と聞いていた。タクシーから道の両側に広がる田を眺めながら、ここもダムのお陰で豊かな水田に変貌したのだろうと思った。車内で運転手がダム公園を回るのだったら、タクシーで回るのが便利、貸し切りで800台湾ドルといってパンフを見せてくれた。800が高いかどうかわからなかったので、断ってしまったが、これを後で後悔する羽目になる。やがて車は烏山頭水庫の入場ゲートに到着した。タクシー代は250台湾ドル、少しトクをした気になる。ゲートで入場料、100台湾ドルを支払う。

日本人数人を案内した台湾人ガイドがこの券売所で、「日本から八田技師の墓参りに来たというのに入場料をとるとはどういうことか」と涙ながらに売り場のおばさん2人と口論になった。おばさんは頑として譲らない。ガイドは日本からの客人に払わせるわけにはいかない、私が払います、と言って全員の入場券を買った。帰りの車の中で、日本人が、ガイドさんに払わせては、と代金を集めて手渡そうとした。でもガイドは「これ以上、私に恥をかかせないで下さい」と言って決して受け取ろうとはしなかった。ネットで読んだ話であるが、券売所のおばさん2人を見て、ガイドと揉めたのはこの人かな、と思った。

■八田興一銅像
ゲートから烏山頭ダム風景区管理事務所かはるか先に見える。左は広大な駐車場、右は三角姫垣公園となっている。ダム一帯は公園となっていると知っていたが、これはかなりの広さがありそうだ。管理事務所から道が3方向に分かれる。案内板に従って、八田興一銅像の方向へ進む。広い公園内であるが人けが全くない。歩いているのは自分だけ、ダム公園を独り占め、という感じである。銅像はダムを見下ろす丘の上にある、とネットで知っていたが、確かに道は登りとなり、右手の石段を登った先に銅像があるらしいと分かった。

駅から直接、ダム公園に来ているからリュックを背負ったままである。台湾の暑さはチェンライの暑さと違って湿気を伴う。昔、出張できた時、タクシーを下りた途端、同行者の眼鏡が、真冬のラーメン店に入った時のように曇ったことを思い出した。上はTシャツだからまだしも、Gパンが汗で濡れて気持ちが悪い。石段を登り切ったところに可愛らしい蒸気機関車が展示されていた。ベルギー製の機関車で、ダムから20キロ離れた曾文渓の川底から取った土砂の輸送に使用されたという。誰もいないのでここで短パンに穿き替えた。脱いだGパンは機関車の裏側の鉄柵に広げて干しておいた。

機関車の先に何度もネットで見た八田興一銅像があった。この銅像はダム完成後の1931年に作られたものである。住民の民意と周囲意見で出来上がったユニークな銅像は像設置を固辞していた八田本人の意向を汲み、一般的な威圧姿勢の立像を諦め工事中に見かけられた八田が困難に一人熟考し苦悩する様子を模し、碑文や台座は無く地面に直接設置され、同年八田立会いのもと除幕式が行われている。

その後、国家総動員法に基づく金属類回収令により供出された際に行方不明となった。その後発見され、もとの場所に戻されたが、1949年から中華民国蒋介石時代には大日本帝国の残した建築物や顕彰碑の破壊がなされた際に再び撤去され1981年1月1日に、再びダムを見下ろす元の場所に設置された。

■静寂の園内
銅像の前に人影はなく、これなら2017年に像の首を切り落とした親中派の犯人もゆっくり作業ができたのでは、と思った。像の後方に八田夫妻の墓があった。静かなダムを見下ろす墓の前で暫く頭を垂れた。
この丘の先は瀟洒なリゾートホテルとなっていた。もと来た道を辿って、干しておいたGパンを回収し、ダム堰堤に立ってみた。遠くの岸辺に遊覧船が係留されていた。船が湖上を周航することがあるのだろうかと思うほど堰堤にも人の気配は感じられなかった。
八田技師が中心となって建立された殉工碑に詣でた。工事中に亡くなった日台130数名の氏名が順不同で刻まれている。八田技師の手になる碑文には「曾文渓に水が尽きさざる限り、諸子の名も不朽なるべし」とあり、彼の心情に打たれた。

リュックを背負った重装備で3時間以上歩き回り、疲労困憊、こんなに広いと知っていたらタクシーで回ったに違いない。疲れはしたけれど、見終わった時の気分は清々しいものであったこと、また券売所のおばさんが帰りのタクシーを呼んでくれたことを付記しておきたい。