旧社宅内部
外代樹夫人像
旧放水路、夫人最期の地
老農街
老農街の朝
赤崁楼(せきかんろう)公園内部
台南の続き
■八田記念公園
2009年5月8日、八田技師の命日に開催された八田技師追悼記念コンサートの席上で、馬英九総統は「八田技師の功績を埋没させてはいけない。史実を尊重しなければいけない」と八田技師の貢献を高く評価し、「八田記念公園」の建設を指示した。烏山東ダムの近くの草むらに荒れ果てていた宿舎群を日台両国の技術者、専門家が協力して再建し、公園とした。八田技師一家が住んでいた社宅は復元前は基礎しか残っていなかった。関係者は八田技師の遺族を訪ね、当時の写真や手書きのスケッチを入手し、歴史資料や周辺の住宅を参考に八田興一旧宅を復元した。専門家たちは百年前の木造家屋を再現するため、古い建材を探しに日本まで訪れたという。
また、住宅内部に置かれた箪笥、机、掛け軸等の日本家具は、八田技師の出身地である金沢の市民からの寄贈を募ったもの。タンスは21棹、小物は163点もの骨董品が集まった。2011年の公園完成の記念式典には森喜郎元首相が列席しているがこれも金沢の関係だろう。
4軒の社宅を見て回る。始めに上がった田中・市川宅は甘味処の喫茶店になっていた。畳の上に座って日本茶と和菓子を頂く仕組みだ。八田技師の家は増築された洋式の書斎がある。机には古い図面が広げられていて、本当に八田技師が使用したのではと錯覚するほどだった。社宅の横には奥様の外代樹夫人が幼児を抱いた銅像がある。日本風の美人、寂しそうな顔は自分の最期を予期していたからだろうか。
■夫妻の記念室
烏山頭ダム旧放水路の傍らに建つ「八田技師記念室」には夫妻に関する資料が展示されている。
八田技師は旧制四高から東京帝国大学土木工学科を卒業し、24歳で台湾に赴任した。烏山東ダムばかりでなく、台北下水道、高雄港の建設、日月潭水力発電所、大甲渓電源開発計画など日本統治時代の土木水利工事の殆どに参画した。また、土木測量学校を創立し、土木技師育成にも積極的だった。
1942年、調査のためフィリピンに向かう途中、乗船した輸送船が米国潜水艦の攻撃によって沈められ、56歳の生涯を閉じた。夫妻は2男6女という子宝に恵まれた。外代樹夫人は、学徒動員から長男が戻ってきたのを見届け、1945年9月1日に烏山東ダムの放水路に身を投げて命を絶った。
旧放水路はほとんど使用されなくなったのだが、そのまま残してあるということは、外代樹夫人を偲ぶ台湾人の心あってのことだと思う。資料には外代樹夫人は人柱、ダムの守り神と崇められているとあった。またウィキペディアには八田技師の銅像が戦中、戦後、2度に亘って行方不明になったと記されている。これは八田技師を敬愛する嘉南の人々が密かに隠していたことに疑いはない。
司馬遼太郎は「台湾紀行-街道を行く40」の中で「故人は国籍、民族を越えた存在になっている」と八田技師を称えている。夫妻を描いた長編アニメ映画『パッテンライ!!(八田がやってきた)』(2008年制作)は台湾では一般公開されたが、日本では一部で上映されただけ、やはり知名度が低いのか。
■神農街
台南に来たらこのオールド・ストリートを歩かなくては。台南が台湾の京都といわれる理由が分かるでしょう、とガイドブックにある。台北の名スポット「九份」にも負けないくらいにロマンチックな風景が広がります、というネット記事もあった。300mほどの長さの小路である。狭い石畳の道の両側に築200年という古い家屋が並ぶ。この古民家を台湾では「老房子」と呼ぶらしい。家々の軒先は、どうカメラを構えても絵になるノスタルジックなものばかり、というが、崩れそうな珈琲店の隣がガチャポンの店、雑貨屋の隣がスイーツ店といったようになぜか無秩序に木造の家が並んでいる。夜は赤い提灯に照らされ、インスタ映えがするのであるが、違法駐車のバイクが邪魔、でも、宿泊場所に近かったので夜と朝、2回写真を撮りに行った。実物よりうまく撮れたかどうか。
■赤崁楼
赤崁楼(せきかんろう)は17世紀にオランダ人によって築城された旧跡。城壁を残すだけに荒廃していたが、19世紀後半、大士殿、海神廟、蓬壷書院、文昌閣、五子祠などが赤崁楼の跡地に再建され昔日の様子を取り戻すようになった。その後も修復が繰り返され、現在は台南市立歴史博物館となっている。
入場券を買う際、窓口に「65歳以上は半額、25台湾ドル」と書いてあった。旅券と25ドルを出したところ、台湾人でないとダメね、とあっさり断られ、慌てて25ドルを足した。赤崁楼で記憶に残っているのはこれくらい。台南だけで4本になったので少し先を急ぎたい。