チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

金門島

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台湾本島と金門島

 

 

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 厦門(アモイ)のすぐ近く

 

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根本中将、国民党軍の軍服姿

 

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蒋介石総統

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高雄―金門島 航空券

 

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金門島行きのプロペラ機

 

金門島

■古戦場
台湾に行ったら金門島を訪ねたいと思っていた。広さは瀬戸内海の小豆島と同じくらい、約150平方キロある。中国本土・福建省の目と鼻の先(最短で2km 金門島と台湾本島は約200km)にあって、共産軍と国民党軍が激しく戦った島だ。金門島からは中国のアモイが肉眼で見える。中共がその気になれば、こんな小さな島は瞬く間に占領されるはずであるが、なぜ中国本土に近接する金門島が中国と台湾の国境になっているのか。

1949年、中国本土から国民党軍を追い落とした人民解放軍は、3日間で全島を占領できると豪語し、金門島に2万人の大軍を上陸させた。台湾本島侵攻の手始めである。しかしながら2万の共産軍は迎え撃つ国民党軍の前に僅か3日で壊滅的な打撃を受ける。世に言う「古寧頭戦役(こねいとうせんえき)」である。この戦いで蒋介石は救われ、毛沢東は、台湾を奪取し、全中国を統一する機会を失った。

実はこの戦いでは根本博中将を始めとする旧日本陸軍軍事顧問団の作戦指導によって国民党軍が勝利をおさめたことが知られている。この経緯は門田隆将氏の「この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」に詳しいのだが、自分はまだ読んでいない。そこでブログ、「ねずさんのひとりごと」にある「金門島の戦い/根本博中将」を参考に古寧頭の戦いを振り返ってみたい。

■蒙古の邦人を救う
終戦当時、根本中将は駐蒙軍司令官としてモンゴルにいたのです。
8月9日以降、ソ連軍があちこちで略奪や暴行強姦、殺戮を繰り広げている情報は、もちろん根本中将のもとにもたらされています。

8月15日、中将のもとにも武装解除せよとの命令が届けられました。
しかし、こちらが武装を解除したからといって、日本人居留民が無事に保護されるという確証は何もありません。

考え抜いたあげく、根本中将は、
「民間人を守るのが軍人の仕事である。その民間人保護の確たる見通しがない状態で武装解除には応じられない」とし、
「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と、命令を発したのです。

8月19日、ソ連軍とChina八路軍の混成軍が、蒙古の地へなだれ込んできました。
ソ連製T型戦車を先頭に押し出し、周囲を歩兵で固め、空爆を駆使し、数万の軍勢で一気に日本軍を踏みつぶそうとしてきたのです。

激しい戦いは三日三晩続きました。
その結果ソ連軍は、敗退し、蒙古侵攻から撤収したのです。
根本中将率いる駐蒙軍が戦いに勝利した瞬間でした。

さらにこの戦いに先だち、根本中将は日本人居留民四万人のために列車を手配し、日本人民間人を全員、天津にまで逃しています。
しかも各駅には、あらかじめ軍の倉庫から軍用食や衣類をトラックで運び、避難民たちが衣食に困ることがないように入念な手配までしていました。

蒋介石との約束
モンゴルでの戦闘に勝利した根本中将は、軍装を解かずにそのまま北京に駐屯しました。
そこで根本中将は、北China方面軍司令官兼駐蒙軍司令官に就任しています。
北Chinaにいる全日本人(軍民合わせて三十五万人)の命を預かる身となったのです。

この頃Chinaでは、蒋介石率いる国民党軍が、幅を利かせるようになっていましたが、根本中将率いる北支軍は、断固として武装を解かない。
そして日本軍と国民党軍の小競り合いや、ソ連の支援を得た八路軍との戦いは、各地で無数にあるのだけれど、根本中将に率いられた日本の北支軍は、どの戦いでもChina兵を完膚なきまでに叩きのめしています。

すでに装備も不十分、弾薬も底をつき出しているはずなのです。
それでも日本軍を破れない。
次第に根本中将の存在は、国民党軍や八路軍の中で、「戦神」と呼ばれて恐れられるようになったのです。

昭和20年12月18日、蒋介石が直接北京に乗り込み、根本中将に面談を申し込みました。
断る理由はありません。
むしろ両者の争いを早急に終わらせ、国民党軍の協力を得て日本人居留民を無事、安全に日本に送り返すことの方が先決です。

はたして蒋介石は、
1 根本中将率いる北China方面軍とは争わない
2 日本人居留民の安全と、無事に日本へ帰国するための復員事業への積極的な協力をする
と約束してくれたのです。

そしてこのとき根本中将は、蒋介石の協力に感謝し、
「東亜の平和のため、そして閣下のために、私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と約束しました。

この会見の結果、在留邦人の帰国事業は、約一年で無事全員が完了しています。
こうして北支の日本人は、ほぼ全員が無事に日本に復員することができたのです。

(続く)