チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

金門島3

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古寧頭戦史館正面

 

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古寧頭戦役で活躍した米国製戦車

 

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正面のレリーフ

 

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館内の絵画

 

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人民解放軍の上陸地点を正確に予想していた

 

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戦史館正面、右手に戦車、戦闘場面のレリーフが見える

 

 

金門島3

塹壕戦法
昭和24年8月18日、根本中将ら一行は、福建に向けて出発する。根本中将は、国民党軍の軍服を与えられ、蒋介石から贈られたChina名の「林保源」を名乗りました。厦門(アモイ)に到着した根本中将は、同地の地形等を調べ、即座に「この島は守れない」と判断、「厦門は放棄。金門島を死守する」と決定します。

基本方針が固まると、さらに根本中将は作戦を深化させます。
共産軍は海軍を持っていません。彼らが海峡を渡るためには、近辺の漁村からジャンク船と呼ばれる小型の木造帆船をかき集めることになるだろう。
ジャンク船なら、海で迎え討つこともできるが、それでは敵の損害は少なく、勢いに乗った共産軍を押しとどめることはできない。
ならば敵の大兵力をまず上陸させ、その上で一気に殲滅して国民党軍の圧倒的強さを見せつけるしかない・・・。

根本中将は大東亜戦争時に日本陸軍が得意とした塹壕戦法を採用します。海岸や岩陰に穴を掘り、敵を上陸させ、陸上に誘い込んで殲滅する。まさに硫黄島や沖縄で米軍に対して大打撃を与えた戦法です。

根本中将は、共産党軍の上陸地を想定し、塹壕陣地の構築や、敵船を焼き払うための油の保管場所など、日夜島内を巡りながら、細かな指示を与えて回りました。

厦門から国民党軍を駆逐し、勢いに乗った共産軍は、「こんな小島をとるには何の造作もない、大兵力を送り込んで残党をひねり潰すだけのことだ」と豪語します。

■共産軍上陸
10月24日の夜、いよいよ金門島への上陸を始めました。この日、金門島の海岸は、上陸した共産軍2万の兵士であふれかえったのです。

彼らが上陸する間、島からは一発の砲撃も銃撃もありません。共産軍は悠々と全員が島に上陸し、露営の構築に取りかかりました。
そのときです。
突然彼らが乗船してきた海上のジャンク船から火の手があがりました。

火の手はあっという間に広がり、油を注がれた木造の小船は、見るも無惨に焼けてしまったのです。
そして夜が明ける。

辺りが明るくなりかけたころ、突然島の中から砲撃音が鳴り響きました。
そしていままで何もないと思っていたところから、突然国民党軍の戦車21両が現れ、37ミリ砲を撃ちまくりながら、海岸にひとかたまりになっている2万の共産党軍に襲いかかったのです。
船は既にありません。共産軍は、国民党軍の戦車隊が出てきた方角とは反対側、つまり金門島の西北端にある古寧頭村に向かって逃げ落ちました。

■国民党軍を制止
これまでずっと敗北を続けてきた国民党軍です。ほとんど初めてと言ってもよいこの快勝に、兵士たちは血気にはやりました。そしてそのまま一気に古寧頭村に攻め込もうとしました。

ところが根本中将は、これに待ったをかけます。
「このままでは、巻き添えで一般の村民が大勢死ぬ、村人たちが大勢殺されたら、今後、金門島を国民党軍の本拠として抵抗を続けていくことが難しくなる」というのです。

そして、古寧頭村の北方海岸にいる戦車隊を後退させ、南側から猛攻をかける。つまり敵に逃げ道を作って攻めかかり、北方海岸方面に敵を後退させ、そこを砲艇海上から砲撃させ、戦車隊と挟み撃ちにして、敵を包囲殲滅するという作戦を、湯将軍に進言します。

10月26日午後3時、根本中将の作戦に基づく南側からの猛攻が始まりました。
敵は予想通り、村を捨て、北側の海岸に向かって後退しました。
そこにはあらかじめ、砲艇が待機しています。

砲艇が火を吹く。反対側から戦車隊が迫る。共産党軍に逃げ場はありません。
砂浜は阿鼻叫喚の地獄と化し、午後10時、共産軍の生存者は武器を捨てて全員降伏したのです。

■一方的大勝利
この戦闘で共産軍の死者は1万4千、捕虜6千となりました。
国民党軍は、怪我人を含めて3千余名の損傷です。
戦いは、あまりにも一方的な国民党側の大勝利に終わったのです。

わずか二昼夜の戦いで、共産軍の主力が壊滅したというウワサは、あっという間に広がります。
これまで敗退続きだった国民党軍がいきなり金門島で大勝利したのは、「戦神」と呼ばれる日本人の戦闘顧問がついたからだとも・・・。
日本の戦神が、国民党軍のバックについた。それは共産軍からみれば死神以上に恐ろしいことです。

共産軍の進撃は完全に止まりました。

10月30日、湯将軍ら一行は、台北に凱旋する。蒋介石は、このとき根本中将の手を握って「ありがとう」とくり返したといいます。
けれど根本中将は、「China撤退の際、蒋介石総統にはたいへんな恩を受けた。自分はそのご恩をお返ししただけです」と静かに語りました。

そして結局根本中将は、この功績に対する報償を一銭も受け取らず、また、金門島での戦いに際しての根本中将の存在と活躍については、公式記録からは全て削除してくれるようにとくれぐれも頼み、台湾を後にしました。(続く)

ねずさんの独り言、「金門島の戦い」全文はこちらから
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