チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

金門島4

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右最上段が38式歩兵銃

 

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これが人民解放軍上陸用舟艇

 

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古寧頭の浜、対岸の中国本土が見える。

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トーチカ内部から浜を見る。

 

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長閑な風景

 

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古寧頭村の家屋に残る銃弾のあと





 

 

金門島4

 

■雪中送炭
根本中将は行きのときの漁船での船酔いがよほどこたえたのか、はたまた蒋介石のお礼の気持ちか、帰りは飛行機で帰国している。羽田に着いたとき、タラップを降りる根本中将の手には釣り竿が一本握られていた。中将は家を出るとき、家族に「釣りに行って来る」と言って出た。そのときの釣り竿を3年間ずっと持っていたのである。

根本中将は無欲の人であったが、帰国後、日本バナナ輸入協会会長を長らく勤めている。戦後のバナナ輸入と言えば、蓮舫さんのお祖母さんを持ち出すまでもなく利権の塊だ。これは根本中将に対する中華民国政府のせめてものお礼の気持ちであったのだろう。

平成21年に台湾で古寧頭戦役60周年式典が行われた。この慰霊祭に根本の出国に尽力した明石元長の息子・明石元紹や、根本の通訳として長年行動を共にし、古寧頭の戦いにも同行した吉村是二の息子・吉村勝行、その他日本人軍事顧問団の家族が中華民国(台湾)政府に招待され、中華民国総統馬英九(当時)と会見した。
また、明石元紹と吉村勝行の帰国の際、中華民国国防部常務次長の黄奕炳中将は報道陣の前で「国防部を代表して、当時の古寧頭戦役における日本人関係者の協力に感謝しており、これは『雪中炭を送る(困った時に手を差し延べる)』の行為と言える。」とした感謝の言葉を述べた。

■アジア独立のために戦った残留日本兵
金門島北西部は金門国家公園となっている。この公園の海岸近くに古寧頭戦史記念館がある。記念館、正面の壁には戦闘場面のレリーフが、その前にはカーキ色の戦車がある。古寧頭戦役で活躍した米国製M5軽戦車だ。弾を打ち尽くしたこの戦車は古寧頭海岸を縦横無尽に走り、ロードローラーとして人民解放軍兵士を押し潰した。
戦闘においては兵士の士気もさることながら、武器の優劣が勝敗を分ける。人民解放軍は歩兵中心、空からも海からも援護はなかった。それに引き換え、国民党軍は戦車はあったし、空軍の援護、更には海軍の戦車揚陸艦が解放軍の上陸用舟艇を破壊したように装備面で共産軍を上回っていた。

記念館の中には戦闘場面の絵画が飾られていた。蒋介石総統が凱旋パレードに使用したジープもあった。兵士が使用した武器も展示されていたが、歩兵銃の中に日本の38式歩兵銃があった。人民解放軍は旧日本陸軍の武器をソ連から供与されて国民党軍を大陸から駆逐した、と言われている。でも国民党軍も一部、旧日本陸軍の武器を使用していたことがわかる。日本に関する展示物は歩兵銃だけで、根本中将始め、日本軍人の記述は全くなかった。これは中将の願いでもあったのだから仕方がない。

インドネシアではスカルノ独立戦争に数千名と言われる日本兵が参加したし、フランスを追いだしたベトナム戦争では数百名の日本軍人がベトミンを指導した。マレーシアでは300名ほどの日本兵がマラヤ民族解放軍に参戦した。台湾でも根本中将とは別に白団(パイ団)という旧日本軍人の一団が国民党軍の近代化に協力している。

もちろん八路軍、即ち人民解放軍日本兵を含む残留日本人を八路軍編入することで軍事技術や専門技術を得た。空軍のなかった八路軍は林弥一郎少佐以下、関東軍第二航空団第四練精飛行隊員を取り込み、東北民主連軍航空学校を設立し、航空部隊を養成した。また、正規の砲兵隊がなかったので日向勝を筆頭とした日本人教官の基で砲兵学校を設立した。医師や衛生兵、看護婦など、戦争に欠かせない技術を持つものは日本に帰国させず、国共内戦勝利後も長きにわたって徴用した。人民解放軍と共に戦った日本兵は一説によると3万人というが、前記の一部を除いて歴史から抹殺されている。

■穏やかな風景
古寧頭戦史記念館の裏は砂浜になっていた。対岸の大陸が望見できる。砂浜には鉄杭が無数に刺さっている。敵の上陸を阻止した名残だろうか。浜を見下ろすように十数個のトーチカがあって、分厚いコンクリート壁にあいた10センチほどの銃眼から青い海が見えた。1949年にはこのようなトーチカが220個作られたという。遮蔽物のない海岸に追いつめられた人民解放軍は、四方からの銃撃になすすべもなかった。この浜に敵兵を集めて殲滅するという根本中将の作戦通りの展開となった。トーチカをバックに若いカップルが記念写真を撮っていた。この浜が兵士の血で染まったことがあるとは信じられないくらい穏やかな風景だった。