獅山砲陣地入口の薬莢
8インチ榴弾砲
触っても怒られない
馬山観測所入口、かなり狭い
大陸反攻のスローガン
テレサテンが大陸呼び掛けの放送をした部屋
■タクシー利用
空路、高雄から金門島へ渡った。ホテルは携帯のWiFiで予約した。タクシーで着いたホテルは周りに何もなかった。食事はホテル備え付けの自転車で5分ほど離れた食堂に行くしかない。泊り客は中国本土からの団体客が多かった。習近平主席は1国2制度を拒否した蔡英文総統への嫌がらせとして中国本土からの個人旅行を禁止したが、団体客は今のところ台湾観光が認められている。金門島は福建省厦門から10キロ、フェリーで1時間足らずの近さだから、2001年に951人だった中国人観光客は2017年には35万人に激増したという。この島では中国の人民元も使える。
到着した日の午後はタクシーで観光名所を回ることにした。4時間貸し切りで4千円程。40代の女性運転手はガイドではないのだが、携帯の翻訳アプリを使って、行く場所のことを説明してくれた。お任せであったが、山后民俗文化村、獅山砲陣地、馬山観測所、古寧頭戰史館、北山古洋楼など、金門島で行くべき所を案内してくれたと思う。
■獅山砲陣地
1958年8月23日午後6時に中国人民解放軍は、中華民国の大金門島・小金門島に対し火砲459門で砲撃を開始した。戦闘開始2時間で4万発、1日では5万7千発もの砲弾が使用された。世にいう「823戦役(金門島砲撃戦)」である。人民解放軍による砲撃は、米中国交樹立が成る1979年1月1日までの約21年間にわたって定期的に続けられた。その間、金門島に打ち込まれた砲弾は総計47万発にのぼるという。
制空権、制海権がなく、また米軍が台湾の後ろで睨みをきかせていたため、結局、人民解放軍は金門島への上陸、武力制圧を果たすことができず、砲撃戦は失敗に終わった。国民党政府は米国から提供された8インチ榴弾砲で厦門の人民解放軍砲兵陣地を攻撃し多大な損害を与えた。この8インチ榴弾砲が今でも中国本土に向けられているのが獅山砲陣地である。陣地入口に珈琲ショップのような案内所があったが、その建物全体が直径20センチ、長さ50センチほどの薬莢で囲まれていた。
岩をくりぬいた隠し砦の先端にピカピカの大砲が据えられている。即、使用に耐えられるなと思ってみていたが、1日に何度か観光客のために空砲を発射するパフォーマンスがあると後で知った。陣地から対岸の建物がかすかに見える。発射音は中国にも届くのではないか。
■馬山観測所
金門島東部の最北端にある「馬山観測所」は、対岸の中国を警戒・監視するための軍事施設である。入口には「還我河山」(故郷の河と山をかえせ)、という大陸反攻のスローガンが掲げられている。ここから厦門の高層ビル群が望見できる。この観測所の建物は日本統治時代にできたらしい。厚いコンクリートに仕切られた迷路のような観測所内を巡るうちに、旧式のマイクが置かれた小部屋が目についた。この観測所から大陸へ向けた宣伝放送を行っていた時期がある。部屋の中に軍服姿の女性の等身大写真がある。テレサ・テンではないか。
テレサ・テンがこの観測所から「大陸の同胞たちが、私たちと同じ民主と自由を享受できることを期待します」と呼びかけたのは1990年代のことという。
■鄧麗君の時代
彼女の曲は海賊版カセットテープにより、1980年代初めには中国大陸の人々の心を掴んでいた。1986年、改革開放路線を進める中華人民共和国においてテレサの歌が事実上解禁されたことで「昼は鄧(小平国家主席)が、夜は鄧(麗君)が中国を支配する」と言われるほど人気が拡大した。
1989年5月27日には、かねてから中華人民共和国内で起きていた民主化要求デモを支援する目的で行われた、香港ハッピーヴァレー競馬場での中華人民共和国の民主化支援コンサートに参加。約30万人の前で、平和を願う「我的家在山的那一邊」(私の家は山の向こう)を歌い、亡命した民主化活動家とも交流を持った。その直後、天安門事件が起こり、1990年に予定されていた中国本土での初のコンサートが中止になった。当時、彼女は「夢は殺され 夢は見ることさえできなくなってしまった」とその心境を語っている。
90年代から次第に体調を崩していく。そして1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメーピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。42歳という若さだった。
放送室の等身大パネルは顔と身体部分の写真を別につなぎ合わせたのか、不自然な印象を受ける。壁際の戸棚には雑然とカセットテープが積み重ねられて殺風景な室内と合わせて、侘しい感じがつのる。終焉の地となったメーピンホテルも改装のため取り壊された。80年、90年代はもう遠い時代になるのだろうか。