チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

金門島2

 

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チェンライ花博から

 

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チェンライ花博から 菊

 

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チェンライ花博から ダリアも種類が増えた

 

 

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チェンライ花博から

 

 

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チェンライ花博から

 

 

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チェンライ花博から チューリップ

 

金門島2

■恩義に報いるとき
昭和24年、東京多摩郡の根本元陸軍中将の自宅にひとりの台湾人青年が訪ねてきました。彼は李鉎源と名乗り、台湾なまりの日本語で「閣下、私は傳作義将軍の依頼によってまかり越しました」と語りました。

傳作義将軍は、根本中将が在留邦人や部下将兵の帰還の業務に当たっていた時に世話になった恩人です。
そのころ、China本土を追われた蒋介石の国民党は、台湾に逃れ、そこを国民党政権の拠点とし、福建省での共産党軍との戦いを繰り広げていましたが、敗退につぐ敗退です。
このままでは蒋介石の命が奪われ、台湾が共産党支配下に落ちるのも目前という状勢にあったのです。

「なんとか閣下のお力を貸していただきたい」という李鉎源の申し出に、根本中将は、いまこそ蒋介石が復員に力を貸してくれた恩義に報いるときだと、確信したといいます。

ある日、根本中将は、釣り竿を手にすると、普段着姿のまま家族に「釣りに行って来る」といい残して家を出ました。
そしてそのまま、台湾に渡航するための工作活動にはいったのです。

■密航
さて台湾を行きを決意した根本中将は、まず戦前の第七代台湾総督だった明石元二郎の息子の明石元長に会っています。
明石元長は台湾で育ち、戦後は日本にいて台湾からの留学生や青年を援助していました。

台湾に国民党がやってきて以降、彼ら国民党が、元からいる台湾人(旧日本人)を何かと差別し、いさかいが耐えないことは明石元長も承知しています。
しかし蒋介石率いる国民党が、毛沢東の共産軍に負ければ、台湾は共産党政権に飲み込まれ、台湾の同胞たちはもっと悲惨な眼に遭う。
明石は、なんとかして軍事面で蒋介石を支援しなければならないと考えていました。
そのためには、戦いの神様と呼ばれた根本中将を台湾に送り込むしかない。

けれど終戦直後のことです。
明石も無一文なのです。
明石は、資金提供者を求めて回り、ようやく小さな釣り船を手配しました。
根本中将は、その釣り船に乗って、昭和24年6月26日、延岡の港から台湾に向かって出港します。

■台湾で逮捕さる
根本中将を乗せた釣り舟は、普通なら琉球諸島を点々と伝いながら台湾に向かうところ、GHQに見つからないようにと、延岡から海を最短距離で一直線に、台湾を目指しました。
そして出港から14日をかけて、ようやく台湾北端の基隆に到着したときは、船はボロボロ、乗っていた根本中将以下全員は、まるで浮浪者姿です。
一行は全員、その場で密航者として逮捕されてしまいます。
根本中将は牢獄の中で、通訳を介して「自分は国民党軍を助けに来た日本の軍人である」と何度も主張しました。
けれど看守達は、「何を寝ぼけたことをいっているのか」とまるで相手にしませんでした。

それでも二週間もすると、どうやら基隆に、台湾を助けにきた日本人がいるらしいというウワサが広がります。
そのウワサを聞いたのが、国民党軍幹部の鈕先銘(にゅうせんめい)中将でした。

鈕中将は、根本中将が北China方面軍司令官だった頃に交流があった人物です。
この話を聞いたとき、鈕中将は反射的に椅子から立ち上がったそうです。
根本中将の人格と信念を知る鈕中将は、
「あの人なら、台湾に来ることもあり得る」と直感したのです。
鈕中将は車を基隆に走らせました。

鈕中将が来ると知らされた看守らは、慌てて根本中将ら一行を風呂に入れ、食事をさせました。
根本中将らは、急に看守達の態度が変わったので、「いよいよ処刑か」と覚悟を決めたそうです。

蒋介石と会見
そこへ鈕中将が現れました。
鈕中将は、根本中将の姿をひとめ見るなり、
「根本先生!」と駆け寄りました。
その手をしっかり握りました。
それまで共産党軍にさんざん蹴散らされ、辛酸を舐めてきた鈕中将にとって、戦神根本の出現が、どれほどありがたく、大きな存在であったことか。

根本中将らは鈕中将とともに、8月1日に台北に移動しています。
そこで国民党軍の司令長官である湯恩伯(とうおんぱく)将軍の歓待を受けました。

湯恩伯将軍は、日本の陸軍士官学校を出た親日派の将軍です。
さらに根本中将が台湾に来て、湯将軍と会っているというウワサは、蒋介石総統の耳にもはいります。
蒋介石も行動は早い人です。すぐに根本中将に会見を求めました。

根本中将が応接室に入ると、蒋介石は、「好(ハオ)、好、好、老友人(古くからの信頼する友人)」と固く手を握ったそうです。

しばらく話が弾んだ後で、蒋介石は真剣な顔で根本中将に切り出しました。
「近日中に、湯恩伯将軍が福建方面に行く。差し支えなければ湯と同行して福建方面の状況を見てきて頂きたい」
即座に快諾した根本中将に、蒋介石は感激して「ありがとう、ありがとう」と繰り返しました。(続く)