勝利の記念像、旗を掲げるベトミン兵士
勝利の記念像、かなり大きい
勝利の記念像のある丘から市内を眺望、あの山から砲撃された
A1の丘
分解、空輸され組み立てられたフランス軍のN24戦車
960キロ爆弾爆破の跡
ディエンビエンフー見物
■タクシーをチャーター
外国人はバイクでラオスからベトナムへは入国できない。アジアをツーリング旅行している人がどうしてもベトナムに入れず、バイクをハノイに空輸して、そこらツーリングを再開した、というネット記事を読んだことがある。これに反し、ベトナムの入管、税関を何事もなくバイクで通過できたというレポートもあった。要するに、タイと同じくアジアであるから、ルールがあっても係官や入管事務所によって対処が違うのだろう。
さて、「めざせ、ベトナム、ハロン湾」はラオス国境、タイチャンで挫折した。スクータをラオスに残してディエンビエンフーに行き、そこからバスでハノイに向かう、という考えも頭をかすめた。でも無理はすまい。とりあえずベトナムへの入国スタンプを押してもらい、ベトナム戦争でフランス軍とベトナム人民軍(ベトミン軍)が熾烈な戦いを交わしたディエンビエンフーを見物して帰ろうと決めた。
ラオス国境からディエンビエンフーまでは30キロほどある。入管から100mほど離れた民家の壁にに英語でタクシーと書いてあり、物置に韓国製の小型車が止まっていた。ディエンビエンフーの街を回って、ここに戻ってくる。片道30キロ、観光名所を回るのだから50万キップ(約6千円)も高くないのではないか、と思った。タクシーには運転手の奥さんも乗ってきた。お客がいるときはついでに街に出て買い物をするのだろう。国境のタイチャンは食堂が1軒あるだけでホテルやゲストハウス、土産物店もない閑散とした場所であった。
■第一次インドシナ戦争の激戦地
1954年3月から5月にかけてディエンビエンフーでベトミン軍10万、フランス軍2万が激突し、両軍合わせて約1万人の戦死者を出した。フランス軍はベトミン軍をタイ-ラオス国境地帯に引きつけるために空挺部隊をディエンビエンフーに降下させ、占領した。それに対してベトミン軍がフランス軍を包囲攻撃し、50日あまりの戦闘で降伏に追い込んだ。ベトナムのゲリラに負けたことはフランスにとって大きな衝撃で、国内で停戦の声が高まった。フランスはジュネーヴ会議での交渉を再開し、1954年7月、ジュネーヴ休戦協定に調印した。これでフランスはベトナム撤退を余儀なくされることになった。
いわゆる仏印と言われたインドシナには大日本帝国がフランスから独立させたベトナム、ラオス、カンボジアがあったが、フランスは独立を認めず、再びインドシナを植民地にしようと大軍を送ってきた。日本人にだってできたのだ、ベトミン軍を指揮したボー・グエン・ザップにはそういった思いがあっただろう。あまり知られていないが、ベトミン軍には600名とも800名とも言われる残留日本兵が参加しており、そのうち半分がベトナム戦争で戦死したとされる。
ディエンビエンフーは盆地である。旧日本陸軍の山砲を分解して山の上に運び込み、砲弾を打ち下す作戦はベトミン軍参謀の半分を占めた日本兵の発案、指導によるものである。
フランス軍は旧ナチスの外人部隊、アルジェリアの植民地部隊、それにベトナム人部隊との混成で、戦意は乏しかった。特にベトナム人部隊からの脱走者は多かったという。「春秋に義戦なし」というが、これほど大義のない戦争はなかったと思う。
■観光スポット
ベトナムの入国を済ませ、山道をディエンビエンフーへ下りていく。やがて稲田が広がる平地を10キロほど走って、街へ入る。まず向かったのは街の象徴、勝利の記念像だ。像のモデルは、フランスの司令部を陥落させた時に、屋根に上って旗を振ったベトミン兵士達とのこと。像は高い丘の上にある。運転手は一人で行って来いと言う。ステント手術直後の自分には370段の階段はきつかった。でも丘から街が一望でき、眺めは抜群。確かに盆地で山に囲まれている。10万のベトミンに囲まれたフランス軍の絶望が分かるような気がした。
次に、観光客が必ず訪れるという戦跡、A1の丘へ行く。ディエンビエンフーにはフランス軍の陣地だった丘がたくさんあり、それぞれに番号が付けられているが、A1の丘はフランス軍が最後まで立てこもったところとして知られている。
今は公園となっているA1の丘には、フランス軍が使用していたN24戦車がそのまま残されているほか、塹壕やトンネルなども当時のままの姿を留めている。すり鉢状の巨大な穴があった。これはベトミンが数kmものトンネルを掘り進んでフランス軍の塹壕の下で960キロ爆弾を爆発させた、その跡とのこと。
白人を追いだした記念すべき戦跡と思うのに観光客が殆どいない。ファランも中国人も全く見かけない。肩透かしにあったような気がした。