チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

 ディエンビエンフーで

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フランス軍総司令部跡

 

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総司令部跡にあったレリーフ

 

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フランス軍総司令官、クリスティアン・ド・カストリ大佐

 

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戦勝記念博物館、フランス軍総司令部陥落のシーン

 

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使われた武器

 

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博物館のショップ、ホー・チ・ミンと並んで人気のボー・グエン・ザップ将軍


 ディエンビエンフー

                                      

■ 日本と米国の武器による日独戦

ディエンビエンフーを巡る攻防戦は、ベトミンとフランス軍の戦いとなっているが、実際は旧日本軍将兵と旧ナチス・ドイツ残党との戦いだったという側面がある。この奇妙な出来事は意外に知られていない。つい数年前まで同盟国だった両国将兵が、あらぬところで全面戦争を演じていたのだ。勝利したのは旧日本軍であった。

 

北ベトナムは、1946年4月には独自の軍士官学校を設立した。中部沿岸のクァンガイ陸軍士官学校で、教官は元日本軍の将校だった。このような残留日本兵は、「新ベトナム人」とよばれた。その中には北ベトナム軍の危機を救う作戦を立案・指導した日本人将校がいた。例えば、総司令官ボー・グエン・ザップ将軍直属の軍事参議官として、遺憾なく才能を発揮した中原光信少尉の名はベトナムではよく知られている。ベトミンの武器は中共ソ連から提供されたが、多くは旧日本軍のもので38式小銃などが多かった。

 

一方、フランス軍は、この急激に独立運動が進むベトナムにただちに大規模な正規軍を派遣するだけの余裕がなかった。そこで、ドゴール大統領はモロッコアルジェリアの植民地軍だけでなく、フランス外人部隊を中核としてベトナムに派兵する。第二次世界大戦終結後、大量に余った武器弾薬が米軍より供与された。

 

このフランス外人部隊の指揮官等はフランス人が原則だが、兵隊や下士官は外国人で構成されていた。れっきとしたフランス正規軍なのだが、国籍は千差万別。なにしろ、過去の経歴を問わないため、犯罪者などが紛れ込むには最適の隠れ蓑となった。このときも、前科者や当時ナチスの戦犯追及が厳しく、ドイツ本国にいられなくなったような多数の「ナチス親衛隊」、「突撃隊(SS)」、「ゲシュタポ」、「戦争犯罪者」、「ユダヤ人収容所の職員」が応募した。フランス外人部隊は「前歴」を一切問わない。いったん入隊すると政府などの公的機関による追及から、合法的に逃れることができる。しかも、入隊すると「フランス国籍」が優先的に取れる。フランス軍塹壕からは、あちこちで「ナチス党歌」(ホルストベッセの歌)が高らかに聞こえていたそうだ。ディエンビエンフーでは米国の武器を持ったドイツ兵と38式小銃を持った日本兵ベトナム人を率いて戦った。

 

■双方で1万人超の戦死

ディエンビエンフーには旧日本軍が設営した飛行場があった。この飛行場を活用して軍需物資を大量に運びこみ、補給、航空基地とし、ベトミン正規軍主力を逐次遠隔地に誘引し撃滅することが計画された。

ディエンビエンフーは盆地であるが、ベトミンには重火器が乏しく、迫撃砲や無反動砲程度では稜線外から盆地中央部を攻撃することは困難とフランス軍は見ていた。またベトミン軍は補給能力が貧弱であり、根拠地から離れた同市周辺に大部隊を展開・維持することは困難が予測された。これに対し、フランス軍は航空輸送により補給を確保しうると考えた。

 

ベトミン軍はソ連中共から大量の武器・弾薬の援助を受け、昼夜兼行の人海戦術を用いて大砲・ロケット砲・対空火器を山頂に引き上げ、要塞を見下ろす位置に設置、密かに要塞を包囲していった。105mm砲20門、75mm砲18門(攻撃中に増勢し、最終的に80門となる)、12.7mm対空機銃100丁、迫撃砲多数が集結した。攻撃に参加したのは総兵力7万名で5個師団、補給物資も多量に集積され、その備蓄は105mm砲弾だけでも15,000発に達していた。

武器の中には、大日本帝国陸軍から接収した山砲も含まれており、大いに活用された。補給にはシクロが活用され、一台あたり300キログラムに達する貨物を輸送した。また山中機動においては、重火器類は分解され、人力担送された。

 

56日に亘る戦いの末、滑走路を破壊され、補給路を断たれたフランス軍は2万人のうち2200名の戦死者を出し、降伏した。

 

■ド・カストリの司令部跡など

車は塀で囲まれたカマボコ状の小さな建物に着いた。ああ、これがフランス軍総司令部跡か。フランス軍総司令官、ド・カストリ大佐に因んで名づけられた壕だ。彼は捕虜となって4ヶ月拘留された。以前は内部を見学できたようだが、自分が行った時は入口が閉ざされていた。

 

昼食後、ディエンビエンフーで、絶対見落としてはならないというディエンビエンフー歴史的戦勝博物館に行った。博物館の敷地面積は、なんと2万2千平方m!1000点以上もある展示品は、ディエンビエンフーの戦いに関する4つのテーマに沿って展示されている。撮影は禁止と聞いていたが、見学者は自分だけだし、同行の運転手が構わないというので、写真を撮りまくった。