チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

コーン島

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コーン島

■鉄道橋を見ながら白人の悪行を思う
鉄道橋のたもとにあった一泊200BのGHに投宿、ここで明るいうちからビヤラオを飲んだせいか、だるくなってベッドで眠り込んでしまった。その間、NさんはGHの貸し自転車でソムパミットの滝やフランスが使用したボロボロの機関車を見に行ったという。自転車の借り賃は3万キップ、また滝の見物料は3万キップ、それぞれ日本円で400円強だ。ビヤラオ1本が1万キップ位だから、ビヤラオ本位制からいくとかなり高い。

メコンを遡れないので鉄道で物資を運んだというが、何を運んだんでしょう、とNさんが言う。そりゃ決まってますよ、兵隊と軍需物資です。

1858年にナポレオン3世はフランス宣教師団保護を目的としてベトナムのダナン、サイゴンに遠征軍を派遣した。ベトナムには越南国阮朝があったが、フランスとの戦いに敗れ、実質的な植民地になる。ラオスがフランスの支配下に落ちるのは19世紀終わりのことである。フランスはベトナム保護国とした時に50台のギロチンを持ち込み、200ともいう刑務所を作った。米国や韓国がベトナム戦争でやったことは報道されるが、植民地時代にフランスがインドシナでやった悪行はもう歴史の彼方ということか、あまり知られていない。

ギロチンの稼働率は高かったというし、馬に乗ったフランス人は村人ハンティングをやっていたというから、インディアンを虐殺したアメリカ人と同様であったのだろう。有色人種は辛い。江戸時代末期、英国には詳細な日本占領プランがあったそうだから、まかり間違えば日本人も同様の運命をたどったはずだ。

ハノイにはフランスの作った刑務所がそのまま博物館となって残っている。ベトナム戦争当時の名はホアロー収容所、米軍捕虜からハノイヒルトンと呼ばれていた。ジョン・マケイン米国上院議員もホアロー収容所に5年ほど監禁されていた。

いずれにせよ、フランスはメコンを遡って、中国雲南省まで手を伸ばした。1910年には昆明ハノイを結ぶ鉄道が完成している。歴史に「もし」はないが、日本が大東亜戦争に立ちあがって白人の野望を打ち砕かなかったら、フランスはベトナムラオスカンボジア、並びに雲南、広東、広西省に渡る広大な植民地の宗主国となっていたに違いない。

■のどかな島
ラオスの国別訪問者数を見ると6割近くがタイ、続いてベトナム、中国、4位に米国の約5万人、5位がフランスの4万4千人、6位英国の3万8千、7位に日本の3万6千人(2011年統計)となっている。いずれにしても観光客は少なく、米仏英日はそれぞれ全体の1%台に留まる。米国はモン族を含むベトナム戦争の、フランスはインドシナを侵略した先祖の関係者が多いのではないか。

ゲストハウスの宿泊客は、我々以外はフランス人カップルだけで、夜にロシア人女性が二人、食事に来ただけだった。夜食後、どこかへ繰り出そうと、GHの主人にビヤバーのありかを聞いたが、そんなもの無いよ、と一笑に付された。それでもGHの前の一本道を、紅灯を探して歩き始めたが、街灯一つない真っ暗闇、100mも歩かないうちに引き返さざるを得なかった。

翌朝、早く目が覚めたので、前日、Nさんが行ったというソムパミットの滝を見物に行った。コーンパペンの滝だけではなく、ラオスカンボジア国境附近には同様の滝があちこちにあるらしい。7時前のため、公園には誰もいない。壮大な景観をひとり占めしたようで気分がよかった。公園を出る時、少し離れたチケット売り場から「ハロー」と声が掛かったが、無視してペダルを漕いで通り過ぎた。ハーイなどと答えて近寄ったら、入場料3万キップを徴収されるに決まっている。おお、早起きは3万の得、更に気分が良くなった。

■サイクリング
この島には舗装道路はない。田んぼの中の凸凹道を自転車で走る。刈り入れはすでに終わっている。2毛作はしないのだろうか。森も林もある。墓地があった。ラオスはタイと同じく上座仏教であるから原則として墓は作らない。墓標を見ると「阮」という漢字が見える。

フランスはラオスを統治するにあたって、中間官僚としてベトナム人を登用した。戦略物資がコーン島の鉄道を行き来した頃、このあたりは大いに発展したに違いない。ラオス人を徴用し、強制労働させた時、フランス人の手先として実際に鞭をふるったベトナム人も多くいたはずだ。多分、その時の特権ベトナム人の墓なのだろう、それにしてもそれほど古さは感じない。そのまま子孫がラオス人となって定住しているのだろうか。世の中、分からないことばかりでもどかしい。



写真は鉄道橋、滝への案内板、滝、島の中の道