チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

クンユアム再訪(1)

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クンユアム再訪(1)

■タイ日友好記念館
メーホーソン県クンユアムには2009年8月に行っている。ビルマと国境を接するクンユアムにはインパール作戦の前哨基地があった。この地から17万を越える日本将兵ビルマへ進軍した。そして敗走してきた兵士は暫しこの地で体を休め、チェンマイへと転進していった。クンユアムで亡くなった将兵は7千とも1万とも言われている。
クンユアムには「クンユアム戦争記念博物館」、現在の名前で「タイ日友好記念館」がある。一介の警察署長、チューチャイ・チョムタワット氏が個人的に集めた日本軍の銃、軍刀、軍服、認識票、水筒、薬、注射器、歯ブラシなどが展示されていたが、最近では旧日本軍の遺品の他に、郷土資料館として少数民族の民具なども併せて展示されているらしい。

前回に訪問した時はまずチェンマイに1泊、そこからクンユアムに行って博物館を見学し、メーホーソンで1泊、そのあとチェンマイに戻って1泊してチェンライに戻る3泊4日の旅だった。この訪問記をブログ10本にわたって書いている。

■ヘアピンカーブ
チェンマイ日本国総領事館の管轄する北タイ9県のうち、1回しか行っていない県はメーホーンソンだけである。チェンマイから直線距離にして100キロ程であるが、曲がりくねった山道を240キロ走るため、5時間近くかかる。日光のいろは坂のカーブの数は、上り専用の第二いろは坂で20箇所、下り専用の第一いろは坂で28箇所の合計48箇所である。いろは…の48字と符合するのでいろは坂と名付けられたという。でもヘアピンカーブの連続というが片道でせいぜい28、これに引き換え、チェンマイからメーホーンソンを結ぶ1095線にあるカーブの数は1864あるそうだ。桁が違う上にカーブを曲がって下を見ると2階から地面を見るような高さがあったりして、車酔いが恐怖で吹っ飛んでしまうほどだ。
1095線は大東亜戦争時、ビルマに進撃するための物資をトラックで輸送するために日本陸軍第15師団によって建設された。トラックといっても80年前の車、車のパワーを考慮して九十九折のカーブの連続となったという。

メーホーソン県にあまり行かない理由はあのヘアピンカーブを上り下りする苦労、疲労もさることながら、チェンマイを目指してこの道を多くの敗残兵が通っていったことにある。少なからぬ将兵チェンマイに辿り着けず、道路の傍らに倒れていった。そのためこの1095線は別名「白骨街道」と呼ばれている。山間の霧に包まれたメーホーンソンの街、バックパッカー憩いの街パーイ、そしてクンユアムの博物館、いずれも旅の魅力にあふれる場所だが、白骨街道1095線を通ることにある種の心の重さを感じて再訪をためらっていた。

日本兵士の矜持
プレーのワット・プラタート・チョーへーにお参りし、祖国の弥栄を祈願したが、その折、ふとクンユアムの博物館を思い出した。世界広しといえども日本帝国陸軍のことを悪く言わない戦争博物館はクンユアムのタイ日友好記念館だけだという。
日本帝国海軍をフェアに扱っている博物館としてはハワイ島の「パールハーバー・ビジターセンター」がある。これは『青山繁晴の「逆転」ガイド その1 ハワイ真珠湾の巻』に書かれている。ハワイの博物館は海軍航空隊のフェアな戦いぶりを称賛するものであるが、クンユアムではビルマからボロボロになって戻ってきた将兵と村人との交流の記録が主となっている。

博物館の創立者、チューチャイ・チョムタワット氏の著書「第二次世界大戦でのクンユアムの人々の日本の兵隊さんの思い出」にはこう書かれている。

「敗戦前に日本兵ビルマから敗走してきて、お寺、村人の家、学校、村の小さな病院などはほとんどいっぱいになった。そして村の一軒一軒に日本兵が一緒に住むことになった。家の大きさによって違うが、一軒に大体5人~20人くらいいた。また道のかたわらに野宿する人もいた。
日本兵は村の人に何でも出来ることをいろいろと手伝った。たとえば米の脱穀精米作業とか、農作業のときの赤ちゃんの子守などやってくれた。
クンユアムの人たちは、日本の兵隊さんのことをいやだとは思わなかった」

また、タイの運輸大臣を務めたジャルーン・チャオプラユーン氏はこう述べている。
 「私はクンユアムに進駐してきた最初の日本兵から、帰還する最後の一兵までを知っている。クンユアムの日本兵は村人と共に働き、お互い協力して生活していた。カンチャナブリの博物館で宣伝される日本軍とは違う。優しかった日本兵を私は忘れない」 

今、海外派遣された自衛隊が世界で賞賛されているがそれは歴史に連なっていることだ、ともいえる。(続く)



写真はプレーで拝観した仏様