ブランコ祭り再び(3)
■ギリシアのブランコ祭り
古代ギリシアのアッティカではアイオーラという祭儀が行われていた。これは葡萄の収穫祭でもあり、木々には豊穣祈願のために小さな人形や仮面が吊るされた。
一説には、元は人間の娘を吊るしていたが、円盤に顔を彫った面を吊るすように変わったのだと言う。
その由来は、以下のような神話として伝えられている。
ディオニュソス神が輝くような若者の姿でアッティカのイカリア村にやって来た時、歓待したのはイカリオスという農夫と、彼の娘のエリゴネだった。神は父娘のもてなしに満足し、葡萄の木を授けて栽培法を教え、更には葡萄酒の作り方を伝えて立ち去った。
イカリオスは教えられたとおりに葡萄酒を作り、隣人たちにふるまった。ところが人々は葡萄酒というものを知らなかったため水割りにせずにそのまま飲み(古く、ギリシアでは葡萄酒は水で薄めて飲むものだった)、しかも口当たりがよかったので飲み過ぎた。急激に酔いが回った彼らは毒を盛られたと思い込み、怒りのままにイカリオスを打ち殺して死体を始末したのである。そこからはやがて一本の葡萄の木が生え出た。
エリゴネは、酒袋を持って出かけたまま帰らない父を探してあちこち尋ね歩いた。その後にはイカリオスの愛犬であるマイラがつき従った。長い捜索の旅を続けて乞食のようにぼろぼろになった頃、一本の葡萄の木が蔓を伸ばしている場所に差し掛かった。マイラが悲しげに吠えて報せ、エリゴネは父の死体を発見した。悲嘆のあまりに、彼女はその葡萄の枝に縄をかけて、首を吊って死んだ。
この後、ディオニュソス神の怒りによってアッティカを災いが襲った。旱魃による飢饉が起こり、女たちは何かに取り憑かれたかのように錯乱し暴れ回って夫たちを苦しめた。娘たちはエリゴネのように木に縄をかけて、次々と縊れて死んでいった。
人々はデルポイの神託を伺って、これがイカリオス父娘の死による祟りであることを知った。そこでイカリオスを殺した者たちが探し出され首吊り刑に処され、更には供養祭を毎年行ってイカリオス父娘を祀り、霊を鎮めることになったのである。これがアイオーラ祭の始まりである。
アイオーラ祭では、人形や仮面を吊るす儀式と並行して、娘たちによる野外での《揺さぶり》の遊びも行われていた。木から縄で吊り下げた板に立って体を揺すったとも、木から縄でベンチを吊るして、娘たち同士で腰かけたり背中を押してもらったりして漕いで楽しんだなどとも言う。
エリゴネの縊死の模倣が原型だとされるが、これをブランコの起源の一つだとする説がある。女性のブランコ遊びを含むこのディオニュソスの祭儀は、ローマにも伝わって隆盛し、オスキラと呼ばれた。
■アジアの優しさ
北欧神話では主神のオッディーンがトネリコの大木に自ら首をつり、9日9夜後に縄が切れ、木から落ちて蘇った。これがブランコ祭りの原型となったという。アーリアンのブランコ祭りは屍肉を吊るすという凄惨な起源を持つ。
一方、アカ族のブランコ祭りについては次のような話が流布されている
かつて世界には女がいなかったがそれぞれの民族に神が授けた。しかしアカ族の祖先は遅刻したため女を得られなかった。女を求める歌を唄いながら森へ入りさまようと、ブランコに乗っていた妖精を見つけた。これを連れ帰って妻にし、一族は繁栄した。よって、妖精である女たちを慰労するため年に一度ブランコに乗せるのだと言う。
別伝では、鳥を追って森に入った勇敢な若者がブランコに乗った美しい妖精と出会い、連れ帰って妻にしたが、彼女が故郷を恋しがって泣くのでブランコで慰めるようになったのだと言う。
あるいは、ブランコのように稲穂が揺れるほどたわわに実るよう祈願するためだとも、体の内部に宿った悪霊をブランコの揺れで振り落とす、女性の厄払いの意味があるとも言う。
もう一つ付け加えるならば、この祭りは夕方から夜にかけて行われ、若い男女の歌垣(かがい)の機会でもあった。歌垣というと雅なイメージが湧くが、谷を一望するブランコ会場は若者の「ふれあい広場」であったのだろう。また、アカ女性は紺のミニスカートを穿く。ブランコの乗り降り、また高くブランコが宙に舞う時、ちらりとスカートの奥が見えたかもしれない。ちょっぴりエロチック。「豊穣」の中には子孫繁栄も含まれているから当然か。
ブランコには板を渡し、そこにまたがるので、スカートの奥は見えない。以前、木製の小型観覧車式ブランコ(ガラ・ラチュ)で遊ぶアカの少女を見た。この時、スカートの奥が瞥見できたが、その写真は撮らなかった。(続く)
写真は出番待ちのおばさん、アカ家屋をバックの収録風景、右奥にガラ・ラチュが見えます。
最後の2枚は数年前撮影したガラ・ラチュに興じる少女たち。あまりうまく撮れませんでしたが。