ブランコ祭り再び(1)
■センジャイパタナ
今年もアカ族のブランコ祭りの季節がやってきた。ブランコ祭りは、アカ語で「イェクザ・ラチュ・ビウ」と呼ばれる。雨季の農作業が終わり、豊饒な収穫を待つまでの間、おおむね北タイでは8月の中旬から9月にかけて行われる。お祭りは水牛の日から4日間が続くが、これは村長の都合で適当に変更されるらしい。
今年の予定についてアカ協会の代表、アトゥに聞いてみた。今年は8月16日を皮切りに、最盛期の9月初旬には14,5村で、遅れて9月の中旬に3,4か村で開催される。殆どの村には馴染みがない。地図で調べていってみるかと思っていたら、アトゥが自分の村で行われるブランコ祭りに招待してくれた。彼の生家のあるセンジャイパタナはアトゥのお父さんの葬式や民族舞踊コンテスト見物などで数度訪れたことがある。チェンライ市内から約60キロ、車で1時間強の距離である。北タイの山間部はおおむね舗装されているので、乗用車でも行けるが、高低差を考え、25年落ちだが4WDのカリビアンで出かけることにした。今回は初めて兄も付いてくることになった。
■アカの伝統文化
1号線をメーサイ方面に北上し、右折してドイ・メーサロンへ行く1130号線に入る。ここから道は登りにかかる。アカ族は国家を拒否した人々と言われる。戦いを逃れ、中国からビルマ、ラオスを経由し、北ヒマラヤ山系に連なる尾根に沿って移動してきた移動焼畑農民である。公式記録ではタイ国内に居住するアカ族は5万人余り、となっているが、実際はすでに10万人を越えているらしい。彼らがタイに移動してきたのはぜいぜい100年前である。国共内戦やビルマ国内の民族対立に押し出されるようにタイに入国してきた。入国というより、戦乱を逃れて山沿いに移動してきたらそこがタイだった、ということだろう。20世紀終わりまで、難民扱いで法の庇護を受けることができなかったが、一定の条件でタイ国籍を取得できるようになったし、国の定住政策でタイの学校で学べるようにもなった。少数山岳民族支援のミッショナリー、NGOが村に出入りして、教育支援を行っている。高等教育を受け、いい仕事に就くにはタイ語が必修だ。親元を離れて、街の寄宿舎に住むアカ族の子弟も少なくない。
学校を出ると、子供たちはチェンマイやバンコクで就職し、アカの村には帰らず、アカの伝統文化は次第に忘れ去られていく。それではアカの誇りが保てないと危惧したのがアトゥを代表とするアカ協会の人々だ。ラオスに住むアカ族の援助をはじめ、アカの伝統文化保存に幅広い活動を行っている。
■雨中のブランコ
今年は雨が多い。我々がセンジャイパタナに向かった9月3日も断続的に強い雨が降るあいにくの天気だった。祭りは雨天決行か。村の谷を見下ろす平坦な一角に生木、4本を組み合わせたやぐらが立っており、ちょうどその頂点から蔓を下ろすところだった。数人のアカ族の男が焼酎を飲みながら、陽気に作業している。この祭りは豊穣を祈る女の祭りと言われるが、下準備はすべて男の仕事、子供たちがブランコづくりを遠巻きに眺めている。
大きな傘の下でテレビクルーがカメラを回している。MONOテレビ29というシャツを着ている。MONOは「MOTION NONSTOP」の略らしい。動きが止まらない、というから29チャンネルは終日放送なのだろうか。人数は女性2人を含む総勢10名。昨年、ホエイヨ村のブランコ祭りをバンコクのPBSが取材していた。PBSはキャノンのデジカメで映像を撮っていたが、MONOはソニーのしっかりしたビデオカメラ2台、さらに携帯ビデオを駆使している。かなり本格的である。
蔓縄が固定されると、男が蔓の輪に足を掛けてダイナミックに漕ぐ。1本の蔓縄であるから、下手な人が漕ぐと体が回転してしまうのだが、さすがアカの男、体は谷の方向を向いたままで全くぶれない。ブランコをバックにレポータ役の男性がカメラに向かって、なにやら語る。2,3度リハーサルをやって、ディレクターが「1,2,3」と数えて5から本番スタートとなる。日本のテレビなら指を曲げながら5,4,3と来て、1、スタートとなるところだ。
周りを見たが、部外者はテレビクルーと我々2人だけである。昨年のホエイヨ村の祭りも部外者はテレビクルーと日本人2人だけだった。アカ族の祭りとして最大、最重要な祭りであるが、まだ観光化されていないのだろうか。アカの伝統衣装の女性たちが勢揃いするこの祭りは「絵になる」と自分は思うのだが。
雨足が強くなったので一度、村にあるアカセンターへ行く。(続く)