チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ラオス、アカ族の村を訪ねる 4

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ラオス、アカ族の村を訪ねる(4)

ラオスについて
ラオスは東南アジアで唯一、海を持たない国である。北に中国、西にミャンマー、東にベトナム、南にカンボジア、タイと国境を接する。日本の3分の2ほどの広さの国土を持ち、人口は約630万人。GDPは2011年のIMF調査によれば78億ドル、鳥取県の3分の1の経済規模である。1日2ドル未満で暮らす貧困層は国民の60%を占める。
タイ、ミャンマーと国境を接するボケオ県は6つの郡(ムアン)に分かれている。これから行くムン郡はボケオの中でも貧困度が高いところらしい。

朝になってリー君が、ムンにはアカ族がいる、フエサイからムンまでは1日1本バスが出ている、距離は150キロなどという情報を持ってきた。彼はガイドというより、通訳兼探索方といった役回りのようだ。
朝食を摂って、朝9時半にはバスターミナルへ。バス停まではソンテウを利用するのだが1人12,000キップ(120円)、アランは「グリーディ(強欲な)」と不満げだが仕方がない。ラオスはタイ以上のインフレに悩まされている。2011年のIMFの推定値で8,7%のインフレ率だ。朝飯のソバは一杯120円だったから、タイ並みかそれ以上の価格だ。

アランが来た2年前からモノやサービスの価格が軒並み上がっているようで、この日から何回もアランの「グリーディ」を聞くことになる。

■バス待ち
バスターミナルといっても、待ち合わせ小屋がある小さな広場だった。チケット売り場も行き先表示もない。リー君の話ではバスは午後に出るという。出鼻をくじかれた感じだが、予定通りにいかないのが旅の常。朝から缶ビールを飲みながら、広場横の市場を見て回る。どことなくのんびりしている。市場の道路際は青空食堂となっている。プラニン、ナマズ、鶏、豚肉などを焼いている店もある。若い夫婦と幼児が食事をしていた。家族の真ん中に大人の頭ほどもあるカオニャオ(もち米)の塊が置いてある。プラニンの塩焼きをちょっとつまんではカオニャオを一口大にちぎって口に入れる。米はまさに主食。びっくりして見ている自分に奥さんがほほ笑んでくれた。まだ十代だろう。若いお母さんだ。

リー君の指示で豚肉の串焼きとカオニャオを買った。これが本日の昼飯だ。カオニャオは蒸したてで熱いが手にはくっつかない。塩味のきいた豚肉とよく合う。そうこうしているうちに、リー君がムンに戻るプライベート・バスを探してきた。実際はバスではなくムンから下りてきた小型トラックだが、カラ荷で帰るのも、ということらしい。貸切で4千円ほど。フエサイからトラックを仕立てれば100ドルはかかると聞いていたので、アランと即決、バス停を出たのは昼過ぎだった。

トラックの助手席にアラン、狭い後部座席に自分、荷台にはリー君と荷物、貸切のはずだが、トラックはあちこちで荷物やおばさん、お姉さんを拾って走る。フエサイとムンを結ぶ公共交通機関はないから、宅急便とバスを兼ねているらしい。10キロほど走るとトラックはガソリンスタンドに入った。燃料代がないので、今4千円払って欲しいとのこと。ラオス交通機関のお約束事、客が乗ったら燃料を入れる。自転車操業の典型だ。

道は未舗装地帯に入る。揺れるうえに運転手のお兄ちゃんがラジオをガンガン鳴らす。イヤホンの音量を上げて対抗したが、ラオスの旅行では音楽プレイヤーは必携である。

■車外の風景
道路の状態は国の経済力を反映する。ラオスの道路舗装率は16%、国道に限っても45%というからボケオの田舎道路が舗装されているはずがない。それに高低差の厳しい山道である。時折、開けた場所に村がある。わずかな平地は田んぼとなっており、ちょうど刈り入れが終わったばかり。11月の午後の陽ざしを浴びて白く明るい。竹壁、茅葺きの家屋が多い。民俗学の泰斗、宮本常一は洗濯物を見て住民の経済状態を見ろ、と言っている。干し物も村人の衣服も粗末でタイの山岳民族に比べても格段に貧しいことが見て取れる。

村ごとに家屋の形や衣服が微妙に違うのだが、それは部族が違うからだろう。ラオスはラオ族が人口の半分以上を占めるのだが、全体として49の部族から成り立っている。その部族もたとえば、山腹ラオ族の一つ、モン・クメール語族のカトゥ族系は、カタン族、マコン族、タオイ族など10部族ほどに分類され、さらにその下に数部族の下部部族がある。東京都品川区荏原一丁目部族みたいに細かくなってくる。
言語、慣習、文化が違う多民族を束ねていくのは、日本のように単一言語、単一文化の国と違って相当な苦労があるのだろう。

そんなことを考えているうちに150キロ、3時間余りのドライブが終わり、トラックはムンの町に着いた。(続く)


写真上から「ソンテウ」「バスターミナル」「焼き鳥」「ムンヘの道」