ラオス、アカ族の村を訪ねる(17)
■ 牛糞道路
ウドンムサイ2日目、街から70キロほど離れたアカ村をバイクで訪ねることになった。国道から入った横道は未舗装だった。この日は晴れていたが2,3日前の雨で、日陰になる部分は濡れているし、泥水が溜まっている個所もある。こういった悪路に慣れているリー君にバイクの運転を替わってもらったのは正解だった。この山道は牛糞道路と名付けたいほど、牛糞が転がっている。リー君は巧みに黒い塊を避けながら、登っていく。
ウズベキスタンでは牛糞は熱カロリーの高い燃料として使われていた。サマルカンドやタシケントの夏は気温40度、湿度5%、スイカやメロンの皮が腐る前に、乾燥してクルクルと捩れてくるほどの乾燥度だから、牛糞などカラカラに乾く。サマルカンドの民家でプロフを作る時、燃料に牛糞を使っていたことを思い出す。肥料にもなる貴重な資源だが、ラオスでは有効利用されていないようだ。
突然と4駆のランドクルーザーが前方に立ちふさがった。リー君があわててハンドルを切って衝突を避けた。車の中には年配のファラン夫婦が二組乗っていた。もうすでに山岳民族見学ツアーを済ませてきたのだろう。真っ白な婦人帽が印象的だった。
■コメン村、ラワ村
30分ほど山道を登るとコメン村というアカ族の村があった。山の斜面に同じような家が建ち並んでいる。全戸数78戸とのこと。道路沿いにアカの女性が2人いて訝しげに我々を見ている。道端の子ブタをレンズで追って、カメラの方向が女性に向いた途端、鋭い声で叱責された。勝手に人の写真を撮るな、早く行け、ということらしい。友好的どころか敵対的な態度だ。
コメン村を通り過ぎてラワ村に着いた。アランのバイクのガソリンが切れてきたし、昼飯時なのでここで一休み。
食堂といえるほどでもないが、土間にイスとテーブルが4つほど並んだ店があった。小間物屋も兼ねている。ラオス人グループの先客がいた。アカ族に比べれば愛想がよく、アランに片言の英語で話しかけている。
若夫婦が土間のかまどに火を熾している。リー君に聞くとカム族だという。この山中では料理らしい料理は期待できない。ムアンムンと同じくラーメンを頼んだ。インスタントラーメン2袋分をお湯でふやかしただけのもの。アランはカオニャオ(蒸しもち米)とゆで卵を注文した。
若奥さんはまだ20歳くらいか、顔色の悪い赤ん坊をおんぶしていた。赤ん坊は具合が悪かったらしく、声もあげずに吐き始めた。吐しゃ物は土間に落ち、またおんぶ紐にもかかった。
可哀そうにな、とその様子を見ていたら、アランが大声で「あっ、スープができたぞ、人参も柔らかくなっているし、それに暖かい」と下らない冗談を飛ばした。ラオス人客も苦笑している。
土間の吐しゃ物には亭主がかまどの灰をかけた。奥さんはちょっと店の外に出ていった。おんぶ紐や赤ちゃんの口元をきれいにするためであろう。
食事が始まった。リー君と自分はラーメンを啜る。カオニャオを食べていたアランがつぶやいた。
「ちょっと待て、この店では前客の残した飯は元の篭に戻すんだよな」。そうだと思うよ。
「さっき、おんぶ紐を拭きに行った奥さん、手を洗っていないよな」。そうだと思うよ。
これでアランはカオニャオにぴたりと手をつけなくなった。ゆで卵をもう一つ追加し、彼の昼食は卵3個だけだった。朝食では卵2個のスクランブルドエッグを食べていたから、昼食は朝食より5割がた豪華だったと言えるのではないか。
■村の小学校
店を出て、バイクを置いた所まで歩いた。右手に小学校と運動場があった。ラオス旅行中、いくつかの山岳民族の村を通ったが、ある程度の大きさの村には必ず小学校がある。確かこの村の入り口にも「この村の住民はすべて初等教育を終えています」というボードがあったと思う。初等教育の普及が国の基幹政策なのだろう。
ムアンムンのポンサバン村の小学校やパガン村の広場で子供たちが歌を歌ってくれたことを思い出したのだろう、アランがあの小学校に行ったらまた子供たちが歌を歌ってくれるかなあ、などと言う。
そりゃ行けば、歌くらい歌って歓迎してくれるだろうが、自分としては子供たちの授業を邪魔したくない。それに、4駆に乗っていたファランたちが先に訪問したかもしれない。
「もし、お返しの歌をアランが歌うんだったら行ってもいいよ、テン・コダイ(踊りでもいいぞ)」と言ったら黙ってしまった。どうしても人前では歌いたくないようだ。
(続く)
写真上から「時には水溜り」「泥道」「コメン村」「この日の昼食」