チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

日本舞踊と能楽の夕べ

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日本舞踊と能楽の夕べ

8月末にナボイ劇場(写真)で「日出る国の文化、日本舞踊と能楽」という催しがあった。こちらにいると日本では1万円くらい払わないと鑑賞できない日本芸能がタダ、もしくは安価に楽しめる機会がある。今回は2年に一度のサマルカンド国際音楽祭に出演するために、日本舞踊葵流家元、喜多流能楽師等4名が訪ウした。サマルカンド音楽祭の前にナボイ劇場でタシケント市民、在留邦人に日本の芸能を披露してくれることになった。
市内のあちこちに「鷺娘」のポスターが貼られ、前評判は上々、自分も大使館配布の招待券を貰おうとしたが、申し込みに遅れたため入手できず、ナボイ劇場窓口で有料チケットを購入する羽目になった。いつもオペラやバレエが3000スムのところ、今回は8000スム。目が飛び出たが能や日本舞踊をここ地の果てウズベクで鑑賞できるのだからと逡巡せず切符を買い求めた。

日劇場に行ってみると3階まで観客が一杯入っている。この劇場は1500人収容だ。恐らく1000枚以上の招待券が配られたのだろう。小さい子を連れた家族連れも多い。

最初に鼓師と笛方が出てきて、能楽について説明をする。笛にせよ鼓にせよ、会場の熱気、季節の湿度、空間の広がり等によって微妙に音色が変わり、決して同じ演奏というものはありえないと言う。

それでは、と障子をイメージした白いボードをバックに笛と鼓による演奏を始めた。鼓師の「イヤァーッ、ホオーッ」という掛け声、ポポンと鼓、かすれがちな笛の音。ウズベクの人にとっては地味すぎてつまらないのか、演奏中なのに私語で会場がザワザワする。「ホオーッ」の掛け声にあわせて幼児が「アー」など騒いでいる。どうやらウズベクの人に能楽の幽玄さを理解してもらうには至らなかったようだ。

次は日本舞踊「元禄花見踊り」。鼓と違ってこれは明るく華やかな踊りだ。日本人家元と一緒に6名のウズベク美女が和服の帯をきりりと締め、さくらの造花を手に踊る。彼女たちはウズベク舞踊学校卒業生で構成されている伝統民族舞踊団「オリファン」のメンバーだ。何時練習したのだろうか。たおやかな踊り振り。こういう子が座敷にきてお酌をしてくれたら5000スムくらい上げちゃうよーん、とおじさんはすぐそんなことを考えた。

続いて能舞「獅子」。能「石橋」のクライマックスシーンとして有名。寂昭法師が唐は清涼山の深い峡谷に至る。そこには現世と浄土を繋ぐという石橋がある。寂昭がその橋を渡ろうとしたそのとき、童子が現われ、並みの人間には渡れぬ橋であると告げ、姿を消す。童子が消えた後、文殊菩薩の使者である獅子が現われ、咲き匂う牡丹の花の間を御代の千秋万歳を寿いで舞う。地謡だけのときは退屈してザワザワしていた館内も獅子の面、きらびやかな能装束のシテが登場して舞い始めると「オッ」と言う感じになる。ただし拍手は花見踊りよりも低調。

次は日本舞踊「鷺娘」。人生のはかなさ、苦しみを凝縮した詩的でダイナミック展開を持つ華麗な舞踊である。天井から間断なく降る紙吹雪が薄倖な娘の哀れさを象徴する。とてもいい踊りで、自分としては感動したが、白ボードをバックに一人で踊るのでウズベク人にとってはもう一つ盛り上がりに欠けるものであったようだ。

このあとは「オリファン」による「咲いているウズベキスタン」というウズベク伝統民族舞踊。スザニの民族衣装に身を包んだ若い女性が20人近く、キャッと明るい掛け声を上げて踊る。会場から手拍子も出て興奮は一気に高まる。やっぱウズはこれでなくっちゃいかんよなーという観客の気持ちがひしひしと伝わる。溌剌とテンポよく踊る彼女たちを見ていて、司馬遼太郎が「独楽のようにくるくると舞う胡人の踊りが・・・」と長安の賑わいを描いている一節を思い出した。

なお、サマルカンド国際音楽祭はカリモフ大統領の都合で開催直前に1日、日程が早まってしまった。音楽祭ためにツアーを組んで日本からウズベクに来た人はもちろん、早くからホテルや列車を予約したタシケントの邦人もこれにはびっくり。ま、言ってみれば紅白歌合戦をその筋のお達しで直前に12月30日にやることになりました、というに等しい。何でもあり、の国ではあるがここまでやるかという感じだ。数十カ国から集まった演奏家たちも予定変更でてんやわんやだっただろう。