米国を震撼させたコンニャク兵器
今では100%食用となっているコンニャクではあるが、その昔は和紙を張り合わせる糊として使用された。張り合わせた和紙をよく揉んで柔らかくし、柿渋を塗って防水性を高め、「紙子」と呼ばれる軽量防寒具に仕上げた。紙子は平安中期から修行僧が身につけるものとされ、今でも東大寺二月堂のお水取りの修行僧たちが伝統的に紙子を着ることが知られている。
大正から昭和にかけては、工業用途に使用が広がり、天幕、食器カバー、オブラート、セルロイド代用品、雨よけシート、更には自転車タイヤ、ゴム靴、ゴム草履などがコンニャクで作られていたという。
コンニャクの工業用途で特筆すべきはやはり大東亜戦争末期に帝国陸軍が米国へ放った風船爆弾であろう。水素を詰めた気球に15キロ爆弾と焼夷弾を吊り下げ、これを太平洋上の偏西風に載せて、米国本土攻撃を行うという壮大な作戦だった。打ち上げられた9300発のうち、推定1000発がアメリカ大陸に到達したといわれ、各地に山火事を起こした。
材料に和紙とコンニャクが使われたことについて、日本が資源に乏しかったからという説があるが、これは正しくない。気球の素材といえば、まずゴム一般的だが、実は当時ゴムよりも和紙とコンニャクのほうが数段優れていたのだ。陸軍登戸研究所では開発に当たり、球皮の材料としてゴム引き布、合成樹脂、各種油脂、各種糊剤などの機密性測定を行っているが、その中で最も優れた結果を出したのがコンニャク糊だった。
米軍も飛来してきた風船爆弾を徹底調査して驚いている。球皮を調べた結果、その水素漏洩量は一平方メートル当たり1日0.98リットルで、これは当時米軍が使っていたゴム引き気球の10分の1だったからだ。
こういった抜群の気密性に加えて、軽量でコストが安いのも和紙とコンニャクの大きな特色だった。風船爆弾は陸軍と海軍で開発を競ったのだが、海軍の材料は羽二重とゴムの高級素材で量産化ができず、開発を断念している。
風船爆弾の気球は直径10米の巨大なもので、和紙4,5枚をコンニャク糊で張り合わせたものである。薄いものを想像しがちであるが、球皮の厚さは2センチくらいある。紙5枚の厚さはたかが知れているから球皮はほとんどコンニャク糊で出来ているといってもいい。和紙、厚糊、薄糊を13回に分けて塗布する。この作業に全国の女学生が動員された。
風船爆弾一個に要したコンニャク粉は90キロだという。自分が50グラムのコンニャク粉で市販の板コンニャク6枚を作ることを思うとべらぼうな量である。これを冬季の高度1万メートルの偏西風に乗せれば2、3日で米国本土に着くという単純なものではない。昼間は太陽光で膨らんだ気球が夜になるとしぼんで高度を下げ、大陸に到達するまでに太平洋に没してしまうという問題があった。この課題をクリアするために気球には1個3キロほどの砂袋が30個ほど積まれていて、高度が9千メートル以下に下がると、電気信号で火薬に火がつき、砂袋を少しずつ落下させるという装置がついていた。こうしてバラストを使い切ったころ丁度アメリカに着く、そして5千メートルに高度が下がったところで爆弾と焼夷弾が自動投下された。
和紙とコンニャク、動力は風というこの爆弾は、日本の知恵を結集した省エネ、ハイテクの秘密兵器だったわけだ。
日本ではそれほど評価されなかった風船爆弾ではあるが、本土爆撃を敢行された米国にとっては大きな衝撃だった。米国西部防衛司令部参謀長、ウィルバー准将は後にリーダースダイジェストに手記を寄せ、「これは戦争技術における目覚しい一発展を画したものであった。世界で初めて、飛び道具が人間に導かれないで海を渡ったのである」と述べ、もし1945年3月に日本がやったように1日平均100個の風船爆弾が飛来し、それも小型焼夷弾や細菌爆弾を搭載していたら、恐るべき破壊がもたらされていたであろうと風船爆弾を高く評価している。
プルプルしていて特に美味しいと言うものでもなく、とらえどころのないコンニャクではあるが、60年以上前、米国を震撼させた純国産兵器の主要天然素材であったということを覚えておいてもいいだろう。
(講談社現代新書、「こんにゃくの中の日本史」を参考にしました)