チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

出稼ぎ労働者の悲劇

イメージ 1

あるウズベク人出稼ぎ労働者

はい、私の叔父はモスクワで死にました。殺されたのです。まだ39歳でした。あとに叔母と10歳の男の子、8歳、5歳の女の子が残されました。あれからもう1年になるでしょうか。

叔父はサマルカンドのカレッジを出てから、いろいろな仕事を転々としていました。自分から転職したわけではなく、どんな仕事でもあればやるという感じでした。レストランのウェイター、電気工事、農業の季節労働者、でも仕事がなくなって、友人の伝を頼ってロシアに出稼ぎに出たのです。
モスクワに渡って8ヶ月、マンションの建設現場で働いていたそうです。建設関係の労働経験があったので、班長クラスとなり、数名のウズベク人を束ねる仕事をしていました。月500ドルと他の労働者より給料も高かったそうです。毎月300ドルを家族に送ってきました。公務員の給料が平均70ドル、高給といわれる警察官の月給が150ドルといわれるこの国で、特に叔父の家族の住むカシュカダリアのような田舎ではとても手にすることのできない大金でした。叔母もとても喜んでいました。子煩悩な彼は月に何度も家に電話をしてきていたそうです。

ある日、叔父から叔母へ電話が来ました。いつもより給料が多くもらえた、あした送金するから楽しみにしていてくれ、明日はそちらからアパートに電話をくれないか、と大変機嫌がよかったそうです。

事件はその日の夜に起こりました。大家であるロシア人のおばあさんの話では、部屋の中で人の争う声が聞こえた。そのあと自分は外出したが、帰っても見たら叔父がナイフを胸に突き立てられて倒れていたそうです。おばあさんは事件にかかわりを持ちたくないので外出したといったのではないでしょうか。

ナイフは心臓を刺し貫いており、ほぼ即死常態だったそうです。多く貰えたという給料は無くなっており、彼のお金を狙っての犯行だったようです。叔母は翌日の午後、叔父に言われたとおり、アパートに電話して事の顛末を知ったというわけです。

伯父達が2日後にモスクワに着きました。警察には叔父の下で働いていた数人のウズベク人が拘留されていました。問答無用で拘束されたようです。この人たちはあとで全員釈放されましたけれど。
叔父の下で働いていた一人の若いウズベク人が姿を消していました。他の仲間もあいつがやったに違いない、と言っていました。モスクワの警察はこの逃げた若者の行方を追っている、必ず捕まえてあげる、と言ってくれましたが、それから一年、何の連絡もありません。ロシア人はウズベク人を、モスレムを差別しています。ウズベク人同士の殺人事件などまじめに捜査などしてくれません。数百ドルのお金欲しさに叔父を殺した犯人はどこかでのうのうと暮らしているのでしょうか。私達には何もできません。

伯父達はモスクワの監察院に安置されている叔父の遺体を大量のドライアイスと共に列車でカシュカダリアに運びました。故郷で家族、近親者、友人が集まって葬儀が営まれました。遺族のあの時の様子を思い起こすと今でも胸が痛くなります。特にお父さんにいつも会いたいといっていた末娘は泣きっぱなしでした。叔父には兄弟が9人います。叔母と3人の子供の面倒は伯父達が見ていますが、皆、農業の手伝い、4月から11月まで開店するチャイハナ(食堂)のウェイターなど、安定した仕事を持っていません。本当はどこか外国へ出稼ぎに行って仕送りができればいいのかもしれません。でも叔父の事件があって以来、祖母が決して外国へ行くな、と言っていますし、伯父達も気が進まないようです。

え、ロシアにあるウズベク大使館が何かしてくれたかって? いくらパスポートを持っていたって不法出国の人間に何かしてくれるはずはないでしょう。

ロシアやカザフで事件に巻き込まれるウズベク人は少なくないのです。スキンヘッドのように差別意識丸出しで面白半分にモスレムを襲う人たちもいます。でも私達は泣き寝入りするしかないのです。

(ウズベク女子学生の聞き書きです)