チェンマイのバス停
チェンマイ空港ロビー
機内から
機内から2、日が暮れてきた
桃園空港到着、夜になっていた
台湾に行く
■出張で
30代、40代の頃、台湾に何度となく出張した。十数回は行っているだろう。初めて行った1980年前後は蒋経国総統がまだ健在の軍事独裁時代。同行してくれた代理店の人の写真を撮ろうとした。偶々、背景に警察署が写るアングルだった。すると、どこからか変なオジサンが飛び出して来て「ここで写真を撮ってはいけない」と強い口調で注意されたものだ。市内のあちこちに「大陸反攻」と書かれた看板があった。代理店の課長さんは英語でその意味を説明した後で、ポツリと「デモムツカシイ」と日本語で言った。
桃園空港から台北市内に行くには、今では高速電車が走っているが、80-90年代はバスかタクシーしかなかった。台北出張は到着がいつも夜だった。暗い夜道を3,40分走ると市内の明るい街並みが見えてくる。看板がみな繁体文字の漢字で書かれている。別に読みたくはないのだが目は自然と漢字の洪水を追っていて、牙科は歯医者、小百貨はスーパーかなどと翻訳してしまう。あの漢字だらけの市街をみると、ああ、台北に来たと思うと同時に、仕事前からどっと疲れが出たものだ。
でも台北では良い思いをしている。出張の度に世界4大博物館の一角を占める故宮博物院を訪れたこともその一つ。30-40年前は日本からの団体旅行者が多かった。彼らはガイドに率いられて故宮の展示品を見て回る。いつもその後ろに付いて歩いていたので、ガイドのセリフをほぼ暗記してしまった。それで会社の若い人と故宮を観覧した折、片っ端から陳列美術品の解説をした。若い人は「どうしてそんなに知っているんですか!」と驚愕していた。鷹揚に微笑しただけで、単なる受け売りなんだよ、というネタばらしはしなかったが。
■二人の台湾人
台湾というと取引先の社長、黄さんを思い出す。自分が30代の時で、黄さんはもう60をいくつか越えておられたと思う。いわゆる日本語世代だ。毎月「文芸春秋」を取り寄せて読んでいるという。漢字ばかりの中華書籍よりひらがなが混じる本のほうが優しい感じで読みやすいと言っていた。
戦前、若い黄さんを島津製作所の上司が可愛がってくれた。その人は四国の出身でいつも四国八十八ヵ所のお遍路の話をしていた。だから私も元気なうちにお遍路の旅をしてみたい。帰国後、何冊か遍路巡礼の体験本を黄さんに送った。嬉しかったとみえて読後感を交えたお礼の国際電話をくれたものだ。お遍路といえば全行程1400キロ、黄さんの年ではもう歩き通すのはムリだったかもしれない。でもバスやタクシーで回ることもできるし、長年の夢を果たしたのかどうか。
もう一人、忘れられない台湾人がいる。チェンライに来た当初、ビザやリエントリの取得のためにタイの北端、メーサイにある出入国管理事務所に通ったものだ。チェンライからメーサイまでは60キロちょっと、昼食をメーサイで取ることが多かった。美味しい餃子屋があると聞いて国境から数分のソイを入ったところにある餃子店に入った。店の主人とみえる小柄な老人が微笑みながら応対してくれた。注文をするときにわかったのだがこのおじいさん、やたらと日本語がうまい。思わず「おじさん、日本語上手だね」と言ってしまった。すると彼は憤然とした面持ちで「当たり前だよ、ボクは中学1年まで日本人だったんだ」と言い切った。
その後、メーサイに行く度に餃子屋に行ったが、特に話をしたことはなかった。7,8年前に体を壊したとかで、店は伴侶のビルマ女性が切り盛りしていた。風の噂では数年前に彼は亡くなったとのこと。餃子屋も閉店して久しい。終戦当時の中学校に通っていたのだから、頭もよく、裕福な家庭の少年だったのだろう。それがどうして北タイの果ての国境でビルマ女性と餃子を焼くようになったのか。ボクは中学1年まで日本人だったんだ、毅然としたあの時の彼を思い出すことがある。
■チャンス到来
台湾に最後に行ったのは少なくとも4半世紀前のことだ。また故宮博物院を訪ねたいと思っていたが、最近は大陸からの観光客ばかりと聞いて躊躇していた。2018年の大陸からの観光客数は205万人、2位の日本140万人を大きく上回っている。ところが蔡英文総統が、習近平国家主席の提案した「一国二制度」をきっぱりと拒絶したため、中共政府は2019年8月1日に大陸から台湾への個人旅行を停止するという通達を出した。
嫌がらせだが自分にとっては朗報、ネットではホテルが軒並み割引になっている。LCCのエアアジアがチェンマイから台北に飛んでいて料金は往復で1万6千円ほど、これは行くしかないでしょう。(続く)