チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

戦争の大義

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戦争の大義

■懺悔と平和の月
8月に入ると、日本では懺悔、懺悔の日々が始まる。戦争は嫌だ、平和が大切です、などと子供にまで言わせる。広島、長崎、そして終戦記念日まで犠牲者を悼む毎日が続く。ついでに御巣鷹山日航機事故犠牲者の追悼番組も加わる。事故も戦争も亡くなった方は同列に犠牲者だ。とにかく日本が悪かった、アジアに謝ろう、こういったマスコミの懺悔の大合唱にはうんざりする。懺悔とは「自分の以前の行いが悪い事だったと気づき、それを悔いて(神仏などに)告白すること」だが、大東亜戦争は日本中が悔いるほど悪いことだったのか。絨毯爆撃や原爆で何十万もの非戦闘員を殺戮した国こそ懺悔すべきと思うのだが。

自分も15日はチェンマイで行われた戦没者慰霊祭に参列した。でも自分は戦没者を「犠牲者」とは思っていない。インパール作戦を酷評する人は多いけれど、兵士は立派に職責を果たした。食糧は尽き、身一つでビルマから撤退してきた兵士であっても決して見苦しいことはしなかった。その証拠にタイ人は彼らを暖かく迎え入れ、体力が回復するまで世話してくれたではないか。

産経新聞の記者、高山正之氏は「戦争」と「戦闘」は違うという。戦闘では手足や頭が吹き飛んだり、血が噴き出したりと悲惨である。死体もゴロゴロ出るだろう。誰もこんな目にあいたくないし、見たくもない。これを「戦争は嫌だ」の一言で片づけてしまう。でも戦闘と違って、「戦争」には目的があり、結果としてその目的が達成されたかどうかが重要となる。

インパール作戦の目的
インパール作戦は、イギリスの植民地支配からの独立を願ったチャンドラ・ボースインド国民軍との共同作戦であった。食糧、弾薬の途絶する中、一度はインド国民軍と共に、コヒマとモイランに進出、遂に念願のインドの3色旗をインド国領土に翻した。しかし、制空権を持ち、物量に勝る英印軍に押され、雨季の6月、惨憺たる撤退を余儀なくされた。

戦後イギリスは「インパール作戦に参加したインド国民軍は、イギリスに対する反逆者」として、3名の将校を極刑に処そうとしたが、このことがインド民衆の怒りに火をつけた。抗議運動はインド全土に広がり、いたるところで官憲と衝突、流血の惨事となった。特にイギリス海軍所属のインド人乗組員の一斉反乱が与えた影響は大きく、遂にイギリスも事態収拾困難と考え、統治権を譲渡、相当の年月がかかるであろうと言われていたインドの独立は、パキスタンとともに戦後わずか2年後の昭和22年8月15日に達成されたのである。

インパール作戦は失敗だったかもしれない。でもインドの独立という目的は、インパール作戦が契機となって達成されたと言える。

「我々インド国民軍将兵は、インドを解放するために共に戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対し、最も深甚なる敬意を表します。インド国民は大義のために生命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代に至るまで決して忘れません」。

「太陽の光がこの地上を照らすかぎり、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本への恩を決して忘れない」。

こういったインド人の感謝の言葉を読めば、インパールに散った英霊たちを単なる「犠牲者」とは呼びたくはない。そういった自分の気持ちをわかって頂けるだろうか。

■先人の気概
8月15日の全国戦没者追悼式における天皇陛下のお言葉の中に「ここに過去を顧み、深い反省の上に立って」の一節がある。これを拝聴した時、「深い反省」とは何だろうと考えた。

どうして先の大戦で負けてしまったのだろう、この次はどうすれば負けないで済むのか、その手立てを構築する、そういったことも反省のうちに入るのではないか。青山繁晴参議員や竹田恒泰氏は「戦争はしてはいけない、でも戦争したら決して負けてはいけない」と言っている。防衛大学校を別にすれば、戦争を研究したり、戦争学を講じている大学はない。見たくないものは見ない、見えないものは存在しない、戦争という言葉を無くせば、或いは聞かなければ、この世から戦争が無くなるわけではない。戦争を研究することから、敗戦の反省は始まる。

戦争にはまず大義というものがある。昭和天皇の開戦並びに終戦のご詔勅には大東亜戦争大義が簡潔に述べられている。日本は自存と自衛のため、アジアの解放のために戦った。日本は謝る必要はない、とマハティール首相は言っている。アジア諸国中共と半島を除いて、日本に感謝していることを忘れてはならない。

 

 

慰霊祭の行われたムーンサーン寺の一角にインパール作戦の資料館があります。

インドで今も敬愛されているチャンドラ・ボース

一人でベトナムへ

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一人でベトナム



■不吉な前触れ
思えば、「目指せ、ベトナム」ツーリングは何かに祟られていたと思う。6月はナーンの国境がバイク通過禁止になっていてラオスに入国できなかった。気を取り直して、再度、7月15日に出発したが、待ち合わせ場所であったラオスのルアンナムターでNさんに会うことができなかった。

この日、一人でルアンナムターに向かう途中の村で、フォルツアに黒い塊が飛び込んできた。速度は60キロくらい出ていたからブレーキをかける余裕はなかった。コツンと軽い衝撃を感じた。鶏が道を横切ろうとしたのだ。サイドミラーに小さなボロキレのような骸がチラリとみえた。運転免許を取って半世紀ほど経つが、生き物をはねたのは初めてのことだった。あれは事故だ、どうしても避けることはできなかった。バイクに完全に巻き込まれるタイミングで飛び込んできた。もしかしたらこの世をはかなんでの飛び込み自殺ではないか、そうだ、それに決まっている。もうすぐ、鳥鍋にされるはずだったのだろう

。心の中で自己弁護に努める自分に嫌気がさす。ちびまる子の同級生、藤木と同じではないか。どうせボクは卑怯者なのさ、と居直ってみても、故なく生き物の命を奪ってしまったことは事実として認めざるをえない。気分は落ち込んだ。

■行くか、戻ろか
不吉な予感は当たった。ルアンナムターのナイトバザールでNさんと出会うことはできなかった。チェンコーンのタイ出入国管理事務所を待ち合わせ場所にしていたら、そこで200㏄以下のバイクのラオス入国が駄目、と分かったわけで、ツーリングは中止となっていただろう。

Nさんはせっかくそこまで行ったのだから、一人でディエンビエンフーを目指して下さい、という。しかし、これまで大先達のNさんにくっついて回るだけのツーリングだったから、母親に去られた幼児の如く、不安は募った。一人で行けるだろうか。Nさんからラオスベトナムの地図を貰っていた。その地図とグーグルマップを参考にルアンナムターからディエンビエンフーまでの道路と主な街を書き抜いてあった。何本も道路が走っているわけではない。行って行けないことはないだろう。それにまだ走ったことのない道だし、ベトナムは初めて行く国だ。今、行かなければ、機会は2度と訪れないかもしれない。何事も経験だ。いつもNさんを頼りにしていては一人立ちができない。自力更生でいこう。

■ここは中国か
2日目の朝、ルアンナムターの市街からAH3へ来た。右に行けば友好橋に戻れる。左はベトナムに続く道だ。深呼吸をして左に体をバンクさせる。道路は傷みが激しい。舗装が完全に剥げた砂利道を進む。ここで雨が降ったらUターンしてチェンライに戻った、と思うくらいの悪路だった。
AH3から12号線を右に折れる。このT字路のNateuiは不思議な街だった。すべての看板が中国語なのだ。「夜总会」はナイトクラブか。この街は中国雲南省から20キロしか離れていない。しょぼい街だがここまで中国人が遊びに来るのだろうか。「この土地を売ります」の中国語で書かれた看板があちこちにある。中国人はラオスの土地を自由に買えるのだろうか。

12号線は舗装がないと言っていいほど荒れた道だった。左手に一帯一路の「建好老中鉄路 造福老中人民(ラオス―中国鉄道をきちんと造って、両国民を幸せにしよう)」の標語と共に高速鉄道の建設現場が見えてくる。中鉄第5局の看板も見える。評論家の宮崎正弘さんによると、ラオスは142億ドルの対外債務を負っているという。ラオスGDPの83%にあたり、経済的破滅は必至の金額だ。

■一帯一路の破綻
昆明からボーデンを経てビエンチャンに繋がる413キロの高速鉄道には60億ドルが投下される予定だ。その費用の7割を中国が、3割をラオスが負担する。ラオスは毎年、国費から5千万ドルを償還する予定だが、その目途さえつかず、中国輸出入銀行から高利の借り入れを行っている。スリランカパキスタンと同じく、目先の利益(賄賂)に目が眩む政府高官がいるからだろう。ラオスは1975年から人民革命党による一党独裁が続く社会主義国だ。中共にとってはくみしやすい相手かもしれない。

「減速慢行」の看板がひっきりなしに現われるが、20-30キロ程度しかスピード出せないほどの悪路が続く。至る所で高架工事、トンネル工事、橋梁工事が行われている。しかし、あまり人影が見えない。実は中国のカネ詰まりで一帯一路構想が世界中で破綻しており、ラオス高速鉄道計画も20%の進捗を見たところで中断しているとのこと。来年2月(最近、2021年に延びた)の開通は不可能、素人の自分が見ても明白だ。

 

写真はルアンナムターの竹橋、ナイトバザール、そして一帯一路の工事現場と路線予定

戦没者慰霊祭に参列

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■慰霊碑前で
今年も終戦の日にムーンサーン寺院で執り行われたチェンマイ戦没者慰霊祭に参列した。チェンマイはかつてランナー王国として栄えた歴史ある古都であり、古くからの寺院や遺跡の数々が点在している。チェンマイの歴史と共に歩んできたムーンサーン寺院には日本語で書かれた慰霊碑がひっそりと立っている。

慰霊碑には
「戦友よ安らかに眠れ―1970年2月2日吾戦友一同タイ国のこの戦跡を訪れ亡き戦友の慰霊法要を営み謹んでこの銘を納む (於チェンマイ野戦病院跡)」の文字と共に奇跡的に祖国への帰還が叶い、この碑を建立した32名の戦友の名前が刻まれている。
大東亜戦争当時、チェンマイインパール作戦の駐屯地となり、このムーンサーン寺院には野戦病院があった。ビルマから撤退してきた多くの日本将兵が祖国へ帰ることなくここで亡くなった。。

戦没者慰霊祭は今年で24回目を迎えるという。チェンマイ戦没者慰霊祭実行委員会というボランティア団体が、
先の大戦チェンマイの地でお亡くなりになられた日本人とタイ人の戦没者に対しご冥福をお祈りする。
戦没者に今日の繁栄を迎えられた感謝をお伝えし、後世を任された者としてその責任を再認識するとともに平和を誓う。
の2つの目的を持って、慰霊祭を執り行っている。

日本将兵ばかりでなく、タイ人の戦没者の慰霊も、というところに注目して頂きたい。タイは大東亜戦争において、米英の連合国に宣戦布告をし、日本と共に戦った同盟国であった。バンコクチェンマイも空襲を受けている。
何度もドラマ化された「メナムの残照」で米軍の空襲で、木材の下敷きになったコボリ大尉とタイ娘、アンスマリンとの最後の場面を思い出す人もいるだろう。
但し、タイは終戦間際に寝返って日本に宣戦布告し、戦勝国の仲間入りをした。日本は、外交をタイ国に学べ、と言われる所以である。

■日本での式典と共に
8月は雨季の真っ盛りだ。慰霊祭は雨、という年もあったが、今年は曇り空で、関係者を安心させた。慰霊碑前のテントには数十人の邦人、タイ人が集まった。数年前までは日本からの参列者もおられたそうであるが、戦友、ご遺族も高齢化が進んでいる。今年も参列者はタイ在住者ばかりだった。日本とタイは2時間の時差がある。10時少し前にNHKの全国戦没者追悼式の模様が会場のテレビスクリーンに放映された。君が代に唱和する。年に一度くらい、大きな声で君が代を歌うことは良いことだ。

安倍首相の式辞の後、1分間の黙祷。自分がタイの人に温かく接してもらえるのは、先人のお陰、と感謝している。年に一度くらい、感謝の念を捧げるのは当然のことだ。天皇陛下のお言葉を拝聴したのち、放送は終了した。その後、ムーンサーン寺の僧侶による読経があり、慰霊碑前に設けられた祭壇に一人づつ献花と焼香を行った。最後にチェンマイ日本国総領事館、黒井首席領事から日本語並びにタイ語による追悼の辞があった。

■遺骨帰還せず
チェンマイ戦没者慰霊祭は、チェンマイ県メーワン郡のバーンガート高校の敷地にある「戦病没者追悼の碑」の前でも行われている。こちらの慰霊祭には例年、総領事が参列している。この場所には当時、野戦病院があり、ここで7千名の将兵が亡くなったという。

平成元年、カンボジア難民慰問の帰りに佐賀県の僧侶及び遺族の一行はチェンマイ県を訪れた。その時会ったタイの老僧よりこんな言葉が一行に投げかけられた。
「ここにはまだ多くの日本兵が眠っている。」「あなた達日本人はそれを省みようともしない。」「そんなあなた達日本人は人間か!」その言葉がきっかけとなって、この地に眠る日本兵の遺骨収集活動が、佐賀に設立された財団によって開始された。そしてこの慰霊碑の下には日本兵・軍属・関係者の遺骨、1万8千柱が納められているという。

また、ラムプーン県パサーン郡には元日本陸軍兵士、藤田松吉さん(故人)が自費で建立した「噫 忠烈戦歿勇士の慰霊塔」があり、彼が個人的に収集した日本将兵の遺骨1000柱余りが納められている。
3つの慰霊碑の維持、管理、慰霊祭は邦人有志、並びにタイ人の奉仕によって行われている。

安倍首相は追悼式の式辞の中で、「いまだ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。ご遺骨が一日も早くふるさとに戻られるよう、私たちの使命として全力を尽くしてまいります」、と述べている。しかし、ミャンマー各地には4万5千柱といわれる英霊の遺骨が放置されたままだ。

個人の奉仕に頼るのではなく、国として英霊の遺骨帰還に策を講じてもらいたいものだ。タイの老僧の叱責は、いまだ現実である。

 

集合写真の軍服の人はチェンマイの有名人、コボリです。毎年この格好で慰霊祭に参列するタイ人です。

「つかみ」に惹かれて

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「つかみ」に惹かれて

■「つかみ」は大切
つかみにはいくつか意味がある。ここで言うつかみとは、「相手の気持ちを引きつけること。また、その事柄。お笑い芸人が観客を引きつけるために最初に放つ独創のギャグ。また、講演や説明会の最初に聴衆の関心興味を高めるために話す事柄」である。
最近読んだ本の「つかみ」にいたく感心したので、そのまま引用する。

私は日本という国が大好きです。
ただ告白しますと、そんな気持ちになったのは五十歳を過ぎてからです。いやもっと正直に言うと、六十歳に近くなってからでしょうか。
若い頃はそんなことに気付きませんでした。自分が生きるのに夢中で、むしろ社会や世の中に不満を常に抱えているような人生を送ってきました。早い話、己の幸福だけを追いかける生き方をしていました。当然、日本という国に対しても、感謝の年など少しも持っていませんでした。
 しかし人生の折り返し点を大きく過ぎ、半生を振り返ってみると、自分は何といい国に生まれ育ったのだろうと気付くようになりました。むしろ、若い頃はなぜこんな当たり前のことに気付かなかったのだろかと思います。
もちろん、今も社会に対する不満は山ほどあります。 
(中略)
 それでも私は、日本は素晴らしい国だと胸を張って言えます。日本が嫌いな人たちも、日本人が優しく、誠実で、勤勉で、悪事を憎む国民であることを否定する人はいないでしょう。
 しかし戦後、私たちは、国を愛せ無くなるような教育を受けてきたといっても過言でもありません。それは自虐史観にとらわれたメディアのせいでもありますが、実は最もひどいのは教科書なのです。本来は、日本の素晴らしさを子供たちに教えるためにあるはずの教科書が、それとは正反対のものになっていたのです。しかも、それは年を追うごとにひどくなっていきます。
 私が『日本国紀』(幻冬舎)を書こうと思った理由の一つはまさにこれです。こんな歴史教育を放置していては、未来の日本を担う子供たちが祖国を愛せない人間になってしまう。
生まれた国を愛せない人間ばかりになった国に、はたしてどんな未来が待っているでしょうか。
(以下略)

■国を愛する心
引用は百田尚樹氏と有本香氏の対談本、『「日本国紀」の副読本、学校が教えない日本史』のまえがきである。書き出しの「私は日本という国が大好きです」が光る。核心をまず述べて、その理由を書き、そして日本を貶める戦後日本の歴史教育に矛先が向かう。さすがベストセラー作家、わかりやすく、テンポのいい文章だ。ついつい、本文を読まなければ、という気になる。「つかみ」の傑作と思う。

未熟だった己の国家観をまず素直に反省し、なぜこの本を書いたか、なぜ、日本は素晴らしいのか、逆にダメなのか、なぜ、日本は歴史に学べないのか、更には「消された歴史」、教育の現場で蔓延する「負の歴史教育」など、対談本とはいえ内容は充実している。百田、有本両氏の国を愛する心が十分に伝わってくる一冊だ。

■すごい国
歴史(ヒストリー)は物語(ストーリー)と語源が同じである。歴史は年表の羅列ではなく、喜怒哀楽の迸る、活き活きとした物語であるべきだ、そして誇りをも掻き立てる物語であるべきだ、と百田氏は言う。

南蛮人の鉄砲を見てびっくりした土人は世界中にいただろう。でも種子島に鉄砲が伝来した1543年から約30年後の1575年には長篠の戦において織田、徳川連合軍は武田の騎馬軍団を3000挺の鉄砲を駆使して打ち破っている。びっくりしただけではなく、時を経ずして鉄砲の大量生産システムが出来上がっていたということだ。

また、1853年にはペリー来航があった。日本人以外でも蒸気船にびっくりした土人はいたと思うが、ペリー来航後、数年内に薩摩藩佐賀藩、伊予宇和島藩が文献を頼りに蒸気船を建造した。それにペリー来航後、わずか15年に明治時代に入る。これだけの大変革を短期に成し遂げる国が世界にあっただろうか。戦後の復興のスピードは言うまでもない。

■自国の歴史に虹を見る
英国の言語学者オーエン・バーフィールドは「歴史は虹のようなものだ」と言っている。歴史的事実は無数にある。しかしそこに虹を見ようとするなれば、特定の視点と距離が必要である。
虹を構成する水滴は塵も含まれているだろう。化学物質も含まれているかもしれない。歴史はきれいごとばかりではない。しかし、無数に存在する水滴に虹を見るように、子孫に誇るべき国民の共通認識を歴史として伝えていく、これは大切なことだ。百田さんはそれを「日本国紀」を始めいくつもの著書で我々に示している。

今、はっきりと言いたい。私も日本という国が大好きです。

 

 

写真は今盛りの竜眼ラムヤイ)、市場の様子

 

苦難の始まり

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苦難の始まり

■ムアンシンからチェンライへ
7月の初めにラオスを単独ツーリングした。初日、チェンコーンから友好橋を渡ってラオスに入り、290キロほど走ってルアンナムターに着いた。2日目は60キロほど離れたムアンシンへ。ラオスにはいわゆるコンビニはない。ルアンナムターではパン屋とか生菓子店があったが、ムアンシンあたりに来ると生鮮食料品を売る店は見当たらない。サンドイッチとかフランスパンを探し求めてみたが、ポテチなどの袋菓子を売る雑貨店はあってもパン屋はなかった。夜、四川料理店で豚肉と野菜の炒め物を注文、異常に辛い上にやたらと量が多く、完食することができなかった。タイの少量皿に慣れてしまったせいか。

3日目はムアンシンを出発し、悪路を県都ルアンナムターに戻る。いくらか文明圏に近づいた証拠にカフェがあったので、昼食としてお茶のスムージーとヤキソバを食べる。カフェとは言いながら、珈琲がないというおかしな店だった。

ルアンナムターからタイの国境に続くAH3を西へ進む。初日に通った道だ。ここらあたりで雨具を羽織ったな、などと思い出しながらメコン河に向かう。3時過ぎに友好橋の近くまで来た。このまま橋を渡ってチェンライに戻ってもよかったが、ラオスの河岸の街、フエサイに1泊することにした。フエサイは友好橋から数キロ離れている。橋ができる前はチェンコーンから渡し舟でフエサイに来た。今でもタイ人、ラオス人は渡し舟を利用できるから、舟着き場はある。基本的には外人はこの街に泊まることはないのだが、中国語看板のGHやホテル、食堂が並んでいる。雲南省からの貨物船の船員やフエサイ郊外にあるカジノへの客が泊まるのだろうか。河を見下ろすGHに泊まり、道を隔てたレストランで夕食、医者から一生飲むな、と言われたビールを1本飲んで幸せな気分になった。この日の走行距離は247キロ。

4日目、最終日は友好橋を渡ってチェンコーンに入り、チェンセーン経由で自宅へ。この日の走行距離は130キロ、3泊4日で総計756キロ走った。目指せ、ベトナムの予行演習としてはまずまずの距離だ。アジアハイウェイとはいえ、ラオスの道路状況はタイとは比べ物にならないほど悪い。スピードの出し過ぎは、陥没個所にタイヤを取られ、命にかかわる。年寄は安全運転が一番、まあバイクに乗らなければもっと安全だが。

■再度出発
バイクでベトナムへ、はラオス縦断やチュンポン3000キロの旅を共にしたNさんとの懸案事項であった。バイクの保険問題で出発が遅れたものの、6月26日に2人はチェンライを出立した。ナーン県のフアイコンの国境からラオスに入り、ベトナムを目指そうとした。でも2年ほど前からバイクでのフアイコンの国境越えが禁止となっていて、あえなく中止、そのままナーンから自宅へ戻った。

7月の初めにラオス国内に入る予行演習をしたのち、再度、Nさんと自分はベトナムを目指すことになった。7月15日のことである。チェンコーンのタイ出入国管理事務所を待ち合わせ場所にしようと思ったが、Nさんの提案で、ラオス、ルアンナムターのナイトバザールで午後6時に会うことにした。ルアンナムター県は面積の95%が標高2000m程度の森林山岳地帯である。ルアンナムターまで国境から200キロ弱であるが、急カーブの続く山道だ。山岳走行に慣れたNさんならば、愛車ホンダのPCX135で自分のフォルツァのはるか先を行ってしまうだろう。一緒に走ってはNさんの足手まといになる。ルアンナムターは2週間前に行っているし、朝出れば、昼過ぎには着いて多少の観光と休養が可能である。わかりました、それじゃナイトバザールで会いましょう。

■ルアンナムターにて
バザールを行きつ戻りつしたが、Nさんがいない。電話で「今どこですか」と聞くと、「アー、家にいます」。げっ、まだ家? なんと、タイ、ラオス国境で200㏄以下のバイクは入国禁止と言われ、やむなく引き返したとのこと。(PCX135の排気量は149㏄)「せっかく、そこまで行ったのですから一人でベトナムを目指して下さい」。
突然、シェルパに去られたエベレスト登山隊の気分だ。いつもNさんのバイクを追っかけて、Nさんがここで泊まりましょうといったところで泊り、ここを観光しましょうと言えば、言われるままに観光して歩くといったツーリングだった。もしNさんが、単独ツーリングは危険ですから、このままチェンライに戻っては如何ですか、と言ったならば、素直に引き返しただろう。何故、そう言ってくれなかったのか、と心の中で反芻するに日々がこれから10日も続くことになろうとは知る由もなかった。

 

写真はメコン河ッムアンシンの道と風景

 

 

 

一人暮し

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一人暮し

■もう1年経った
昨日、8月7日が母の一周忌だった。人の死はごく日常的なことだし、その死を悲しむのはせいぜい1親等か2親等までの親族と、何人かの友人だけだろう。母の場合、年だったから女学校時代の友人はもういなかったし、町内会のお仲間も超後期老齢者ばかり、それでもタイでの葬儀も、国に帰って菩提寺で行った葬儀も多くの人お陰で滞りなく済んだ。

一周忌の法要は帰国している兄が一人で行った。生きている人は忙しいし、法要は参列者の数が問題となるものではないだろう。命日の7日には2カ月ほどチェンライに短期ロングステイをしていた弟夫婦が帰国した。暫くチェンライで一人暮しとなる。

母と兄、自分、そしてメバーン2人と一時は5人が寝起きしていた家だから、通いのメバーンが帰るとガランとして寂しくなる。昨年の9月からニイさんに家事一般をお願いしていた。ニイさんは家族持ちだから16時半には帰宅する。夕食開始は16時半が普通、お陰で早寝、早起きの習慣が身に付いた。ニイさんの作るおかずは豚肉入り野菜炒めが主体、それにムーピンという豚の串焼きなどが付く。残してはいけないと思って、炒め物をせっせと食べていたせいか、10カ月で4キロほど体重が増えた。昨年6月に日本で受けた健康診断では問題なかったのに、この5月には体重増加のせいか、血糖値、A1c値が境界値を越え、糖尿病患者の仲間入りをしていた。冠動脈がコレステロールで詰まったのも太り過ぎ、油の摂りすぎが原因ではなかったかと思う。

■減量に注力
5月のステント手術後、我が家では純正オリーブ油とココナツオイルだけを使用することにし、何本かあった大豆油、コメ油、コーン油は全部、ニイさんに持ち帰ってもらった。しかし、その後も豚肉主体の料理が続く。食べなければいいんじゃないか、とも思うが、血糖値を下げるには体重管理が重要。丁度、ブアさんがまた働きたいと言うし、ニイさんもお母さんの見舞いで暫くラオスに行くということで、兄の日本帰国を機会にメバーンがニイさんからブアさんに交代した。ブアさんはジェー(菜食主義者)だから、あまり肉は料理しない。こっちに来て10年近く、ブアさんの作る晩飯を食べていた時は血糖値は正常だった。心臓手術をして以来、遅ればせながら自分もいくらかは健康に気を使うようになった、というわけだ。

手術後、主治医から、これから一生、1滴たりともビールとラオカオは飲んではいけない、と申し渡された。でもネットの「セカンド・オピニオン」を参考に多少は嗜んでいるが、酒量は減ったし、ドライデーも少なくない。飲まなくても平気、ということが信じられない。現役の時どうしてあれほどビール、酒を欲したのか? 自分はアル中ではないかと心配したことさえある。酒を飲まずにその分、貯金していたら、今頃は・・・・、金はあっても同様の大したことのない人生を送っているに違いない。飲酒については後悔していません。

酒はあまり飲まないし、食事にも注意しているので3ヶ月足らずで、4-5キロの減量に成功した。先月15日から25日まで身の細るようなラオスベトナムの単独ツーリングのせいもある。減量により今月末に受ける血糖値検査では良好な結果が得られるものと期待している。

■モロヘイヤ
今の家は広すぎるが賃借料をかなりまけてもらったので、来年の6月までの再契約をした。家主は自分が出ていったら、かなりの高額で貸そうと、業者を差し向けて家の外壁、内部の塗装を始めた。お陰で見た目は新築家屋のようにきれいになった。また、1個2キロ近くのアップルマンゴーがなる木が庭にあったのだが、昨年、大家の独断でバッサリ切られた。根が張って塀が歪むという理由だ。幹がわずかに残っていて今年は1,2個の実がなった。でもツーリングから戻ってみるとマンゴーの木は完全に枯れていた。10年、美味しく食べさせてもらった。合掌。

大家の指示で庭には除草剤がまかれ、1日にして庭は枯草だけになってしまった。ただ、自分が丹精しているモロヘイヤだけはこの被害を免れている。モロヘイヤはクレオパトラも愛した健康野菜だ。数年前、息子が百均で買ってきた種がもととなっている。今年は2mの高さに茂って、毎日収穫しているのにどんどん大きくなる。ピラミッドを作った労働者はモロヘイヤのスープを飲んで頑張ったという。来週は戦没者慰霊祭でチェンマイに行くし、再来週はドラゴンボート世界大会が開かれるパタヤに数日滞在する。日本代表として参戦する東京龍舟チームの応援のためだ。今月も多忙だがモロヘイヤを食べて頑張るぞ。


家の外観、庭、枯れたマンゴーの木、モロヘイヤ、3カ所で繁茂。

ラオス単独ツーリング(3)

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ラオス単独ツーリング(3)

■外国だが海外ではない
ベトナムツーリングの予行演習として、7月1日から4日の日程でラオスに行ってみた。チェンライ県はラオスミャンマーと国境を接してているから、車で家を出ればその日のうちに「外国」に入ることができる。距離的には東京から山梨、群馬、静岡、茨城各県に行くほどの感じだ。でも外国であるから、言葉も通貨も交通規則も違う。タイは車は日本と同じ左側通行であるが、ラオスミャンマーは右側通行だ。ラオス国内に入ってからは「右側通行」と何度も呟いて、反対車線に行かないよう注意した。

ミャンマービルマ語だが、先般出かけたチェントンではバイタク運転手がタイヤイ族だったからタイ語が何とか通じた。ラオスラオ語であるが、タイ語と似通っているので、タイ語が何とか通じる。ラオ語はいくつかの方言があり、お互い、意思疎通ができないほど違っている。西ラオ語はタイ東北部で話されるタイ語に酷似しているという。
考えてみればミャンマーのチェントンはチェンライ、チェンマイを都としたランナー王国の領土であったし、タイ東北部は14世紀に興ったラオ族のランサーン王国の支配下にあったのだから、言葉や民族が共通というのも当たり前かもしれない。

ラオスの通貨はキップである。1000円が8万キップ、1000バーツが28万5千キップになる。ラオスで「キップを使いましょう」というポスターを見たことがある。これは外国のお金も通用します、を示している。実際、ルアンナムターでは食堂でもGHでもバーツで支払うことができた。数年前になるが、食堂で支払いをバーツでしたら、おつりが中国元で戻ってきたことがある。今はいつ切り下げがあるかわからないから中国元は流通していないのではないか。

■子供が多い
さて、単独ツーリングの初日は290キロほど走ってルアンナムターに宿泊した。雨でジーパンが濡れていたが、宿泊したGHの部屋の天井には回転式の扇風機が付いていたので、ジーパンを扇風機の下へぶら下げた。夜半にはジーパンはパリパリに乾いていた。扇風機で濡れたジーパンを乾かす方法はNさんに教わった。

朝、市内をスクータで回って、ファラン夫婦が珈琲を飲んでいるカフェに停まり、美国式朝餐を摂る。20センチほどのフランスパンにバタ-、ジャム、目玉焼き2ケ、ハム、それに珈琲、生ジュース、フルーツ盛り合わせが付いて、140Bほどだった。ラオスはフランスの植民地だった影響かパンが美味しい。満足感を覚えて、中国国境の街、ムアンシンを目指す。右手にナムター川の渓流を見下ろしながら北へ進む。時折、道沿いに山岳民族の集落があって、子供たちが大型スクータに吃驚している。4,5歳の幼女が手を振ってくれるので、こちらもそれに応える。

ラオスでは18歳以下の若年層が人口の50%を占める。日本では2014年のデータだが、30歳以下の若年層が人口に占める割合は27.6%とのことだ。ラオスでやたら子供が目につくのも当然と言える。日本でもタイでも子供がいると何かとお金がかかる、と考えるが、まだラオス後発開発途上国、子供は小さいうちから働いて家計の助けになる。生活の向上のために子供をどんどん産むということだろう。

ラオス自治区
ルアンナムターから北方面、2股に分かれた道を右手に進めば国境のボーデン、ここから中国、雲南省に入国できる。左手の道を北上するとムアンシンだが、この道路の状況が実に悪い。場所によっては砂利ではなく、石が飛び出ていてスクータにその衝撃が伝わる。プロレスのアトミック・ドロップ、尾てい骨割りの連続技をかけられているようだ。脊椎圧迫骨折によりスクータを下りた瞬間、その場に転倒する、という恐れもあったが、何とかムアンシンのGHへたどり着く。宿泊料は350B(1200円)

観光案内所に行ってみたが、係員がこの街は何もないところだよ、トレッキングは人が集まらないとできないし、とつれないことを言う。フランスが100年ほど前に作った砦があると聞いていたが、係員は知らないようだった。街はルアンナムターもそうであったが、中国語の看板が目立つ。走る車の2,3割が青色の中国ナンバーだ。
ムアンシンは中国領だったことがあり、市内の道路は碁盤目状に走っている。しかし、中央を走る幹線道路だけがまともに舗装されていて横道や幹線に並行して走る道はダート状態、水溜りはどれだけの深さがあるやも知れず、恐ろしくて走る気になれない。午後の早い時間に到着したが、だらだらとGHのベッドで時を過ごした。こういう怠惰な時間があってもいいかな、と自分に言い訳をする。この日の走行距離は88キロ。


中国語の看板ばかり、ガソリンスタンドも。ルアンナムターは空港があるのでハノイにも行ける。ムアンシンの田園、道路。