チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

7月にあったこと

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7月にあったこと

■旅に出る
このところ、以前に書いたブログを再録している。勘のいい人ならおわかりと思うが、旅に出ていた。懸案であった「めざせ、ベトナムハロン湾」計画がいよいよ始動して、7月15日から2週間の予定で家を離れていたのだ。旅に付き物の想定外のことがいくつもあって、待ち合わせ場所となったラオスのルアンナムターで先達のNさんに会えず、ベトナムディエンビエンフーを見ただけで、ラオスに戻ることになった。ビエンチャン経由でタイに入り、25日に帰宅した。今回は自分の愚かさ、無謀さを思い知るいい機会だった。ツーリング中、少なくとも3回は死にかけた。ここで死んだら兄弟親族、現地大使館に迷惑をかけてしまう、友人にはいい年こいて、と笑われる、何とか生きて帰ろうという過酷な11日間だった。

ラオスでは概ね、1泊1000円前後のGHに泊まり、一膳飯屋といったショボい食堂でタイソバなどを啜っていたが、そんなGHや食堂でもWiFi完備であったから、日本のニュースをリアルタイムで知るには全く問題がなかった。日本のWiFi環境はラオスの片田舎にも劣る。

■不逞鮮人を糺す
旅の模様は反省を含めておいおい書いていきたい。それにしても7月はいろいろなことがあった。1日から4日まで予備的にラオス国内を単独ツーリングした。
1日で忘れてならないことは、日本が戦後初めて韓国に対し、大人の対応を取ったことだ。この度、経済産業省が公布した「輸出貿易管理令」の運用の改定は韓国の「輸出管理制度の不備」を理由に、特定の3品目(フッ化水素、EUV用レジスト、フッ化ポリイミド)に関してはこれまでの包括許可から個別許可に移行するというものである。日本人の多くが「ホワイト国」とは何ぞや、ということを知った。要するに、これまでの優遇措置を、以前の対応に戻すというだけのこと。多少、輸出手続きに時間と手間がかかるが、「輸出制限」や「禁輸措置」となるわけではない。
ホワイト国ではない東南アジア諸国で何か日本からの輸入で困ったことが起こっているという話は聞いたことがないから、これが韓国の経済制裁になるのかどうか疑わしいと思っている。

この措置に対し韓国はヒステリックな対応を示した。だが経済産業省パブリックコメントを求めると、たちまち万単位の意見が国民から寄せられ、「9割以上」が今回の措置に賛成という結果になった。一応、政府は戦時応募工問題とは関係ないと言っている。でも昨年来のレーダー照射問題、日韓慰安婦合意無視、更には天皇陛下に対する侮辱発言など日本人の心を逆なでする事案が多すぎたから、これは日本のカウンターパンチだといってもいい。

評論家の門田隆将氏はツイッターに、「最終的かつ不可逆的解決」すら踏みにじる韓国。反日・侮日活動は極限まで達し「親日残滓の清算」の最中に当の日本が「もはや許すまじ」と寛容路線を転換した。「しまった」と思ってももう遅い。とことん反日・侮日を続けなさい。日本人をここまで貶めてきたツケは誰でもない、あなた方が払うのです、と書きこんだ。これが9割の日本人の気持ちを代表しているのではないか。

■野党とマスコミ
7月には参議院選挙があり、チェンマイ日帰りで期日前投票を済ませた。共産党立憲民主党は「韓国への経済制裁の即時撤回」を主張していたからこういう党には投票できない。

7月3日の朝日新聞の社説「対韓輸出規制 『報復』を即時撤回せよ」も韓国べったり。

「政治的な目的に貿易を使う。近年の米国と中国が振りかざす愚行に、日本も加わるのか。自由貿易の原則をねじ曲げる措置は即時撤回すべきである。
 安倍政権が、韓国への輸出の規制を強めると発表した。半導体をつくる材料の輸出をむずかしくするほか、安全保障面で問題のない国としての優遇をやめるという。」
中略
「かつて中国は尖閣問題をめぐり、レアアースの対日輸出を止めた。米トランプ政権は安全保障を理由に鉄鋼などの関税を上げた。国際社会はこうした貿易ルールの恣意(しい)的な運用の広がりを強く案じているさなかだ。」

そして結びはいつもの喧嘩両成敗。
「日韓両政府は頭を冷やす時だ。外交当局の高官協議で打開の模索を急ぐべきである。国交正常化から半世紀以上、隣国間で積み上げた信頼と交流の蓄積を破壊してはならない。」

協議の申し入れを一方的に無視し、信頼と交流の蓄積を破壊したのはどの国だったか。これだから朝日は部数を減らし、参院選で野党は伸び悩むのだ。

徳義大国、日本

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徳義大国、日本

2014年3月に書いたブログを一部加筆の上再録します。

■非常時にこそ
中国や韓国がなんと言おうと、日本は国際秩序の中で然るべき地位を占め、尊敬されている国だ。これは英国国営放送BBCが毎年行っている国別好感度調査でもはっきり示されている。世界に好感をもたれているのは日本が経済大国であるとか発展途上国に援助を続けているからではない。日本人が正義、廉恥、勇武、礼節、謙譲といった徳義を備えているからである。

東日本大震災では18000人を越える方が死亡、或いは行方不明となった。大災害の中で、というより非常時だからこそ日本人の徳義が際立った。ハリケーン津波、洪水、数々の自然災害が各国を襲う。家族を、家を失い、水、食料もない。災害は地獄であるが、多くの国では本当の地獄は自然災害の後にやってくる。暴行、略奪、殺人の無法地帯が出現するからだ。

トモダチ作戦に参加した米軍のヘリコプター操縦士(女性)は被災地に降り立つことが怖かったという。校庭を見つけて救援物資を満載したヘリが降下した。ヘリから物資がおろされた。その様子を住民が見守っていた。そして作業の途中で住民の代表とみられる人が操縦士に近づいて言った。「これだけ頂けば充分です。残りはまだ救援を待っている地域に持っていって下さい」。
操縦士はこれまで各国の被災地に物資を運んだ経験がある。ヘリが降り立つと屈強な男たちが我先に物資に群がって阿鼻叫喚の世界が出現する。だから彼女は日本人の礼節に深く動かされた。

自衛隊の気高さ
米国軍人ばかりではない。
福島の第一原発を冷却するため水を撒け、という命令が自衛隊に来たのは震災発生から5日目の3月15日だった。官邸からはどこにどれだけ撒け、という情報は何もなかった。水素爆発を起して白煙を吹き上げ、メルトダウンに向かって暴走する原子炉、自衛隊は独自に緊急性の高い3号炉へ空から放水することに決めた。乗務員が高濃度の放射能を浴びることも、また放水のショックで更なる水蒸気爆発を誘発する可能性もあった。

原子炉建屋の上を通過するヘリから、大量の水が投下される様子はテレビで放映された。それを見た各国の武官たちは、日本には何十万の国民を守るためであれば、自分の命をかけても義務を遂行する気高い軍人がいる、と感動したという。また同時に、日本を決して侮ってはいけないと感じたことだろう。

■日本人のマナー
自衛隊だけではない。「東日本大震災で分かった世界も驚く日本人のマナーの良さ」
http://whats.be/4668)というユーチューブから。

「ドイツ人の友達が、地震が起きた時に渋谷にいて、パニックになったところを、日本人に助けてもらったらしく、その時の日本人の毅然とした態度や足並みを乱さず店の外へ出て、やるべきことを淡々とこなす姿にひどく感動し、まるでアーミーのようだったと話していた」。

CNNに登場した千葉県在住の米人学生「私は混乱したが周りの日本人は違う。落ち着いて周りの人と声を掛け合っている。お互いの状況を確認し励ましあい助け合う。日本人は偉大だ。日本は大丈夫だ」。

「駅員さんに『昨日一生懸命電車を走らせてくれてありがとう』って言っている小さい子供たちを見た。駅員さん泣いてた。俺は号泣してた」。

あの日、深夜に歩いて帰宅する人達に熱いコーヒーをふるまっていた人、「トイレご自由にどうぞ」と書いたスケッチブックをもって自宅のお手洗いを開放していた人・・・・このようなテロップが次々に流れ、思わず目頭が熱くなる。

■被災者の思いやり
幼稚園児の男の子が行方不明になっていた。お母さんはもちろん、自衛隊もせめて遺体をと捜索を続けた。その結果4月に入って男の子とみられる遺体が見つかった。傷んでいてお母さんに見せるには忍びなく、隊員が遺体の衣服を見せた。「息子に間違いありません」、うなだれる母親。
そしてお母さんは遺体を抱きしめて絞り出すように言った。「xxちゃん、自衛隊さんに見つけてもらってよかったね。生まれ変わって、大きくなったら自衛隊さんに入って沢山の人を助けてあげてちょうだいね」。居並ぶ自衛隊員は号泣したという。我が子を失った悲しみの底にあっても感謝を忘れない若い母親の品位に隊員は感極まったのだ。


敷島の大和心の雄々しさはことある時ぞあらはれにける (明治天皇御製)

降り積もる雪にも耐えて色かえぬ松ぞ雄々しき人もかくあれ(昭和天皇御製)

この大災害を生き抜き,被災者としての自らを励ましつつ,これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています(今上(現上皇)陛下の東日本大震災直後の国民に向けたメッセージから)

「雄々しさ」に顕れる日本の国柄を誇りに思う。

ラオス単独ツーリング(2)

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ラオス単独ツーリング(2)

■検問を通り抜ける
スクータの保険を付保しないまま、国境からルアンナムターに向かう途中、検問に引っ掛かった。子供と言ってもいいような20歳前後のお兄ちゃんが寄って来て、かっこいいスクータだな、排気量は?、などと聞いてくる。型通り、旅券、税関申告書、運転免許をチェックされる。タイで取得した運転免許証はアセアン10カ国で有効だ。書類をチェックしていた兄ちゃんが、ラオスの保険がないようだが?と聞いてきた。まずいな、と思ったが正直に、「保険を買おうと思ったが、保険屋が見つからなかった、ルアンナムターで買うつもりだ」とタイ語で答えると、兄ちゃんはあっさり、じゃいいよ、気を付けてね、と解放してくれた。ラッキー。

3日後、この道を通ってチェンライに戻った。検問所で顔見知りとなった兄ちゃんたちが手を振っていた。ルアンナムターで保険を手に入れていた。保険証書を見せたくて、道路向かい側の検問所に向かって「そっちに行くよ」のジェスチャーをした。でも兄ちゃんは笑顔で「行っていいよ」の手ぶり。日本人はウソをつかない、というところを見せたかったのに、と少しがっかりした。

■雨のそぼ降るルアンナムターへ
北タイは年初以来の雨量が例年の半分以下、という異常気象で田植えがまだできない田んぼが目立った。ラオスもほぼ同様で田起こしがやっと済んだという段階の田が多かった。でもルアンナムターが近づくにつれて、山あいの田んぼで十数人の農民が共同田植えをやっている光景を見た。北タイでは田植え機が普及してきたが、まだラオスでは村の共同作業による田植えが一般的なのだろう。
田植えをしている人の中に合羽を着ている人がいた。それを見て多分、これから降るのだろうな、と思ったが、予感的中、ルアンナムターの手前50キロほどの地点で空が暗くなり、強い雨が降り出した。木陰にスクータを停め、雨具を着る。ベトナムに行くにしても雨季の真っ盛り、雨中走行も経験しておくに越したことはない。

15時過ぎにルアンナムターの市街に着いた。9年前に1泊したことがある。9年前のGHを探したが、全く見当が付かない。雨は降り続くし、合羽の縫い目から水が沁みてジーパンが濡れてきた。目に付いたGH、シンサモンGHに宿を取る。Wベッド、エアコン、ホットシャワー、石鹸、歯磨き、歯ブラシ、櫛、それに飲料水2本で1泊280Bというから日本円で1000円程か。安い。タイと違って、旅券提示も不要でお金と引き換えに鍵を呉れた。この日の走行距離は291キロ。

■ゲストハウスのベッドで
ルアンナムター県は約93万ヘクタール、ほぼ青森県と同じ広さ、うち95%が標高2000m程度の森林山岳地帯である。ルアンナムターはタイから国際バスでラオス世界遺産、ルアンプラバンに行く途中、或いはルアンプラバンからタイ国境に戻る途中にバスが一時停車して乗客が夜食を取るだけの街である。素通りの街といっていいかもしれない。
近年、観光が盛んというがトレッキング、カヤッキングといった欧米の若者に人気のあるハードなアクティビティが中心。少数山岳民族の村を訪ねるというコースもあるが、中国製バイクで何十キロものダート走行が必要、これは数年前に豪州人アランと経験済みだ。ステント手術で救われた残りわずかな命、もう要らぬ危険は冒したくない。

取りあえずタイ、ラオス国境の友好橋を渡ってみることだけが目的だったのだから、このまま引き返そうか・・・・。GHのベッドに寝転がっていたら2010年に初めてこの街へ来た時のことを思い出した。ルアンプラバンからのミニバスの中でウィーンの元高裁判事、マンフレッドとその夫人、セイダと知り合い、夜遅くまで少数山岳民族について語り合った。あなたはやはりアカデミックの世界の人ですね、とお世辞を言ってくれたなあ。そして翌日、彼らと年に一度の満月祭りを見るためにムアンシンに行ったのだ。

思い出すなぁ、お玉ケ池の千葉道場、自分も今じゃ、異国のボケ孤老、人生裏街道の枯れ落ち葉か・・・・。あの頃はラチャパット大学の図書館に通って、アカ族のことを調べていた。やる気はあったし、多少の努力はしていたのに。とほほ。

空腹だと思考回路が退嬰的になる。GHの前の食堂でチャーハンを食べる。15000キップ(約200円)。ご飯の量がタイの1.5倍はある。完食すると元気が出てきた。せっかくここまで来たのだから、明日はムアンシンに行ってみよう。ここから60キロ、2時間ほどの距離だ。(続く)

心臓手術その後

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心臓手術その後

■払えるなら診ます。
2カ月前、5月21日にたまたま近くの病院で健康診断を受けた。そこで心臓の冠動脈狭窄が発見され、検査、即ステント手術ということに相成った。血管造影のためのカテーテルが入っている状態で、「このままでは危ない、手術しますか」と聞かれ、それじゃお願いします、と答えた。すかさず、看護師が携帯の翻訳アプリで「費用は40万B」と教えてくれた。こういうやり取りは日本の病院では決してないと思う。

日本の医師は医療倫理、「ヒポクラテスの誓い」を医学部で習っている。また日本の医師法19条では「診療に従事する医師は、診察治療の求があつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」と定めている。この「正当な事由」のある場合とは、医師の不在又は病気等により事実上診療が不可能な場合に限られると解される。従って、医業報酬が不払であっても直ちにこれを理由として診療を拒むことはできない。だから支払い能力のない中国人や韓国人が病院に担ぎ込まれても診ないわけにはいかない。彼らが入院費、手術代等、一切合切を踏み倒すと半ば分かっていてもなすすべがない。

この点、タイでは支払保証がないと診てもらえない。これはウズベクでも米国でも同じで、金がなければ瀕死の病人であっても病院の入り口でほおっておかれる。
タイでは入院に当たってある程度のデポジット(前払い金)が必要だ。自分の場合、これまでの信用があるからお金を積まなくても手術して貰えた。でも、40万Bすぐには払えないんですけど、と言えば、じゃ、また来てください、で終わりになったと思う。

タイでは貧乏な一般庶民は近代医療とは縁がなかったが、タクシン政権の時に「30バーツ医療」制度が始まって、曲がりなりにも国立病院で安価に治療、投薬を受けられるようになった。この医療制度は米国より進んでいると言える。

■保険で全額カバーされた。
ステント手術を受ける直前に、費用は40万Bという、まことに心臓に良くないご託宣を受けたのであるが、実際の支払額は27万5千B(日本円で100万円弱)ほどで済んだ。日本で同様の手術を受けた場合、その費用は100万円から150万円という。国保で3割負担とすればMax30万円は必要となる。しかし現在の医療保険制度では、高額医療費自己負担限度額があり、定額を超える分は後日給付金として支給されるため、実際の自己負担額は10万円程で済むらしい。

自分の場合、幸い、クレジットカードに自動付帯の海外傷害・疾病保険の対象に該当したので、27万5千B、全額の還付を受けることができた。日本の保険会社のバンコク支店経由で請求したのであるが、請求後1月ほどで全額、タイの銀行口座に振り込んでもらえた。偶々、健康診断を受けたこと、保険がまだカバーされている期間の手術だったことなど幸運が重なったと言える。

タイでは疾病保険と傷害保険の2種類の保険に入っていた。疾病保険は日本円で年額10万円くらい払っていたから国保と同じくらいか。手術を受ける前に保険カードを提示したが、もう切れてます、とのことだった。70歳を過ぎるとタイでは疾病保険は自動的に退会になることを後で知った。老齢者は病気になるから保険の対象外。タイの保険会社が儲かるはずだ。

傷害保険は7,8年前、テニスのプレー中に左足首を骨折した時にお世話になった。傷害保険の掛け金はそれほど高くはないし、スクータで転げたり、また足首を折らないとも限らない。引き続き加入するつもりである。無保険状態にある疾病保険については国保加入も含めて、現在考慮中である。

障がい者手帳
手術を受ける前に狭心症の前駆症状がなかったのか、と聞かれると、いえ、ありませんでした、ということになる。コートでは息切れしたり、鼓動が激しくなったが、これは激しい運動に付き物と、特に心配はしていなかった。でも手術後は苦しい息切れ、動悸は起こらない。やっぱり心臓に負担がかかっていたんだなあ、と今になって思う。

ステントが入っているのならば障がい者手帳が貰えるよ、と教えてくれた友人がいる。認定制度だから誰でも、というわけではないが貰っている人はいるようだ。この手帳があるとJRは半額、都営交通や全国の博物館、美術館は無料、などの特典がある。でも自分の場合、手術前より健康になったという実感がある。だから手帳を申請する気にはなれない。現在、ワーファリンなど血液の薬を服用している。術後180日は薬代も保険の対象となるらしいが、これまで請求するのはなあ、と手続きはしていない。これくらいは払わせてください。


写真は病院、担当医、ステント

ウズベキスタン追想

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ウズベキスタン追想

2009年6月に書いたものを再録します。

■古い歴史の国
タイ、チェンライの生活に慣れていくにしたがって、ウズベキスタン2年間の想い出も遠くなっていくように感じる。考えてみれば昨年の3月までタシケントで暮していたのだ。

零下20度の耳がちぎれるような冬、スイカの皮が乾燥して捩れていく湿度5%、気温40度の乾いた夏、空よりも蒼いサマルカンドのモスク群、ウルゲンチの廃砦に沈む夕日、ブハラのマドレセの庭の静けさ・・・・

タイにおける国の成り立ちは、1000年ほど前、中国南部に「南詔」という国を作っていたタイ族が、クビライ汗の侵攻等、中国大陸の政治情勢の変化に伴い、13世紀にビルマベトナムラオス、タイに南下してきたことに始まる。タイには旧石器時代の遺跡もあり、ヒトは相当昔から住んでいたのであるが、歴史上、タイ(シャム)が登場するのはやはり13世紀のスコタイ朝の成立を待たなくてはならない。

その点、ウズベキスタンは紀元前からヘロドトスの「歴史」にも登場するし、シルクロードの要衝として知られた古都が各地にある。タイとは「古さ」が違う。

井上靖氏のエッセイから
学生の時からシルクロードに憧れ、ウズベクの諸都市に想いを馳せていた作家に井上靖氏がいる。彼は昭和40年、58歳にして初めてソ連領だったウズベクの地を踏んでいる。下記のエッセイは彼がまだウズベクに行く前のものだ。

シルクロードへの夢」(井上靖

 少年時代、私はいろいろな夢を持った。本気で満州へ行って馬賊になって、高粱畑に沈む赤い太陽を見たいと思ったこともあれば、北欧の海に沿った小都市に行って、靴屋の職人として名もない一生を送りたいと思ったこともあった。本気で考えたのだから不思議であるが、どちらも特殊な自然への憧憬と、その自然に合致する人生とを志向したのであるから、その点ではなかなか高級でもあり、純粋でもあった。

 そのほかにもいろいろな夢を持ったが、そうした少年時代の夢の中で大人になるまで変色しないで私の心に生き続けて来たのは、中央アジアへの夢である。中央アジアへの夢は少年期というより、青年期に心にはいり込んで来たもので、この夢は満州や北欧よりずっと複雑なものになっている。いつも歴史の背景において、そこの特殊な自然が考えられているからである。時代は変わり、世が変わっても、依然としてそこの自然は、砂漠も、オアシスも、草原も、昔ながらの姿を持っており、変わる方は歴史の方である。そこの自然の中には往時の人間の営みの欠片(かけら)が人骨のように散らばっているのである。

 私は学生時代、どんなにシルクロードを旅したいと思ったであろう。往時東洋から西洋へ絹を運ぶ商人が、キャラバンを組んで通ったところである。駱駝と人の隊列、砂丘、草原、オアシス、砂あらし、幻覚、幻聴、そうしたものは昔も現在も変わらない筈である。時間だけが、歴史だけが、それこそ対象のように砂漠を横切って行ったのである。

 中央アジアで一番行ってみたいところはサマルカンドである。このいかなる記録や旅行記においても、美しいという形容詞を決して忘れられることなく冠せられている砂漠の都邑に立ってみたいという思いは、若い頃も五十になった今も変わりはない。単なる若い日の感傷とのみはいえないようである。この町はあらゆる民族に侵されている。アラブ人、カラキタイ人、回教徒、モンゴル人、ロシア人、いずれもこの都邑を栄えさせたり、惜し気もなく焼き捨てたりした。

 サマルカンドの古い城址に立ったら、何人の脳裏をも、さまざまな民族の栄枯盛衰が、それこそ走馬灯のように廻って来るであろう。一二二二年、長春真人は、山東半島からはるばる当時チンギス・カンの行営の置かれてあったこの地へやってきた。チンギス・カンに求められて、長生の秘法を説くためであった。併し、真人はチンギス・カンに謁して、「長生の方なし、衛生の道あり」と語った。

 こうした長春真人の旅行記である「長春真人西遊記」は、私の好きな旅行記の一つである。
―――城郭は毅然たれども人煙は断絶せり
 こういう記述がある。その頃と同じように現在も半ば砂に埋もった無人の城は、今も沢山なお砂漠の中に眠っていることであろうと思う。(以下略)

チェンライの生活も悪くはないが、こういった美しい文章を読むと「現在も半ば砂に埋もった無人の城が、今も沢山なお砂漠の中に眠っている」ウズベクの古都に再び立ってみたいものだとつくづく思う。人はやはり歴史に惹かれるのであろうか。

この年、2009年に友人の結婚式参列のため、サマルカンドを再び訪れる機会に恵まれた。縁があったのだろうと思う。




写真は無人の城、サマルカンドの風景

ラオス単独ツーリング(1)

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ラオス単独ツーリング(1)

■予行演習
約2週間の予定でNさんとハノイへ行こうと、6月26日に胸膨らませて我が家を出発した。しかしながらタイ、ラオス国境のナーン入出国管理所を通過することができず、あえなくツーリングは初日にして中止と相成った。その経緯は「めざせ、ベトナムハロン湾」でご紹介済み。

27日に帰宅して、またテニス中心の生活に戻ったが、7月の初旬はベトナムの各地をツーリングしていたはず、と思うと何か味気ない。次回は我が家から100キロほど離れたチェンコーンの友好橋からラオスに入国することになる。チェンコーンを経由してルアンプラバンに行ったことがあるが、国際バスに乗っていたので、出入国の苦労はそれほどなかったせいか印象が薄い。でもNさんによるとバイクで友好橋を渡った時には、何やかんやで1500B(5千円)くらい取られたという。数年前、ナーンのイミグレでは300Bくらいだったと記憶する。まだ自分は友好橋をスクータで渡ったことがない。時間はあるし、一度、チェンコーンからラオス入りを体験しておこう。そう考えて、7月1日に我が愛車、279佞離侫ルツァに跨り、チェンコーンに向けて出発した。

■橋を渡ってラオス
第4タイ・ラオス友好橋はタイのチエンライ県チェンコ-ンとラオスのボーケーオ県フアイサイを結ぶ橋である。 建設費は16億2400万バーツで、タイと中国が半分ずつ負担した。当初は2012年開通の予定だったが、工事が遅れ、2013年12月11日に完成した。中国の昆明とチェンライを経由してバンコクまで延びるアジアハイウェイ3(AH3)のメコン河をまたぐ橋である。この橋ができればチェンコーン辺りには中国の工場団地が建設され、チェンライ県は工業県になると期待された。バンコクの金持ちがチェンコーンの農地を買い占めて、土地ブームに沸き立っていたことが思い出される。橋ができたころ、入管の前には土産物店や急造のレストランが軒を連ねていた。でも今回、行ってみると辺りは閑散として店は閉まっている。中国の工場は来なかったし、国際バスは通り過ぎるだけで、人が集まる要素は全くない。

先ず、橋の手前にあるタイの税関でスクータの通関手続きをする。用意してきた車検証、パスポート、運転免許証のコピーを提出、言われるままに200Bを支払う。続いて出国手続き、友好橋を渡ってラオス側で入国、税関手続きを行う。ラオスでもお金を払ったが200Bくらいだったと思う。 Nさんが友好橋を渡った時は、タイの職員がこの車について来いと言ってトラックで先導してくれた。但し、先導料として別途500Bを徴収されたという。職員のちょっとしたアルバイトだったのだろう。

ラオス側で入管事務所の隣にあるビルの入り口に中国語で「保険」と書いてあった。ラオス国内を走行する場合、ラオスの交通保険に入っていないと検問でもめることがある。3階にある保険会社窓口にいってみたが、バイクの保険は扱っていないという。バイクでラオス国内に入る人が少ないせいだろう。

■走行注意
友好橋での手続きは30分ほどで終了した。主目的のラオス入国は果たしたわけで、まあ国境のフアイサイに1泊して帰ろうか、と思ったが、次回、通るはずのAH3を北上してルアンナムターまで行ってみることにした。ルアンナムターまでは国境から約180キロ、4時間の距離だ。時速50キロ以下でしか走れないのには理由がある。まず山道で高低差を伴った急なカーブの連続であること、タイの国道と違って片側1車線しかない為、追い越しが楽でないこと、更にこれが一番大きな理由かもしれないが、AH3といっても道路状況が非常に悪い。どうして、と思われるような道路陥没個所があったり、突然、舗装が切れてでこぼこの砂利道になる。場所によっては70-80キロで走行できるが、カーブや道路状況を確かめながら走る時は20-30キロに落とす必要がある。コケても単独ツーリングだから助けを呼ぶことができない。いつも以上に慎重な運転を心掛けた。
道すがら保険屋を探したがそれらしいところはない。ナーンの国境はラオス側に入ると道路沿いに何軒も保険店があったのだが・・・。

交通量は多くはないが半分くらいの車両が大型トラックで、それも40フィートコンテナ積載クラスだ。これでは道路が傷むはずだ。大型トラックは上り坂になると急激にスピードが落ちる。対向車が来ないことを確かめて我がフォルツァは軽快にトラックを追い越していく。

気持ちよく走行していると、検問所があり、数人の警官(兵隊か)が見えた。無保険だし、やばいなあ、と思いながら警官の制止に従ってスクータを停めた。(続く)



我がフォルツァ並びに友好橋の上で。

参院選挙始まる

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参院選挙始まる

■選挙結果を憂慮
7月4日に第25回参議院選挙が公示され、現在、活発な選挙運動が行われている。タイに在住する自分も長躯、200キロを飛ばしてチェンマイ日本総領事館に行き、投票しようと考えているが、どうも今回は力が入らない。というのは安倍政権が勝利を確実にするために、消費税凍結あるいは中止を宣言し、衆参同日選挙に打って出るのではないか、と期待していたからだ。
同日選挙を回避し、消費税増税を謳って選挙に臨むのでは与党の大勝は見込めない。日銀短観帝国データバンク景気動向調査も消費者態度指数もこのところ景気悪化を示している。これで消費税増税となれば景気はさらに落ち込んで、それこそ日本発のリーマンショック級の悪影響を世界経済に与える。過去、消費税を上げた時は景気が落ち込んだ。全野党は消費増税反対を打ち出しているが、かといってこれといった対案はない。

野党第一党立憲民主党でさえ、その支持率が3-4%だ。野党がだらしないから安倍政権は消費増税でもこの参院選で充分勝てる、と思っているのだろうか。数量政策学者、高橋洋一氏によると、自民の獲得議席は48、新聞各社の予想50台半ばをかなり下回る。
50を相当割り込めば、自民党が公約の第一に上げている「憲法改正」は難しくなるし、安倍さんも求心力を失ってレームダック化する。でも安倍さんに代わる有力政治家がいないから、日本の政治は混乱する。お隣の国の大統領を笑ってはいられない。

■門田隆将氏のコラム
今回の選挙で各党の女系天皇に関する考え方に、幾らか違いがある。立民、共産は女系天皇賛成、国民は女性天皇容認だが男系を重視すべき、といった具合である。令和の時代になって間もないというのに、次期の天皇は誰に、とは不敬の限り、と自分は思うのだが、この件に関し、作家・ジャーナリストの門田隆将氏が産経6月23日付で『なぜ「女系天皇」なのか』というコラムを書いている。

(引用開始)

 皇室打倒を掲げていた共産党と、自身の著書でかつて皇室を「生理的にいやだと思わない? ああいう人達というか、ああいうシステム、ああいう一族がいる近くで空気を吸いたくない」と語った辻元清美氏が国対委員長を務める立憲民主党が相次いで女系天皇容認を打ち出した。

 皇嗣である秋篠宮文仁親王悠仁親王という皇位継承者がいるのに皇室典範を改正してまで「女系天皇を誕生させよう」というのである。

 両党の背中を押しているのは朝日と毎日だ。朝日が女性・女系天皇容認を提言した小泉政権下の有識者会議メンバーの「あの時、議論を止めるべきではなかった」という言葉を紹介してこれを推進すれば(4月23日付)、毎日は「前近代までは確固とした皇位継承原則がなかった」という確定した学説でもない研究者の言葉を引用した上で、〈「男系継承が古来例外なく維持されてきたことの重み…」。3月の参院予算委での安倍晋三首相の答弁の一部である。ぜひ、正確な歴史認識の共有の下、議論を進めたいものだ〉と男系継承を批判した(5月16日付夕刊)。

 これに違和感を持った人は多いだろう。2000年にわたる皇統の唯一のルール「男系」を否定するものだからだ。先人は男系で皇統を維持するために涙ぐましい努力を続けてきた。第25代武烈天皇が後嗣を残さず崩御した際、越の国(現在の福井県)から応神天皇の実に5世孫を招聘し、継体天皇として即位させた。また江戸時代には皇統断絶を憂えた新井白石の進言で閑院宮家が創設され、実際に白石の死の70年後、後嗣がないまま崩御した後桃園天皇のあとに閑院宮家から光格天皇が即位して現在の天皇家へと引き継がれている。

 一部の政治勢力は、そうまでして維持してきた男系の継承者を廃嫡にしても女系天皇を実現しようというのだ。その理由と背景を指摘したのが8日付の産経抄である。

 〈天皇制のそもそもの正当性根拠であるところの『萬世(ばんせい)一系』イデオロギーを内において浸蝕する〉-これは共産党の理論的支柱であり、皇室と民主主義は両立しないと主張した憲法学者・故奥平康弘氏の月刊『世界』(平成16年8月号)における文章だ。萬世一系の皇統が途絶すれば、皇室そのものの正当性の根拠は消え、内側から解体されていくという意味である。

 いま日本は“内なる敵”のために大きな岐路に立っている。そのことに警鐘を鳴らすことのできる新聞を国民は待ち望んでる。

(引用終り)

8日付の産経抄は本ブログでも全文掲載した。(皇統の危機 https://blogs.yahoo.co.jp/uzbekistan24/56483852.html)
自分も門田氏と同じ危惧を抱いている。従来より、安倍首相は「男系継承」をはっきり打ち出している。これだけでも自民党に1票、と思うのだが。



写真はミャンマー、チェントン旅行から