介護ロングステイ5年6カ月
■モトはとれた
チェンライに移り住んで5年半になる。乾季の寒さ(といっても15度はあるのだが)を感じることはあっても、年間を通してTシャツ、短パンで過ごせる。のんべんだらりと日が過ぎていくためあまり月日の流れを感じない。ついこの間、親子3人移り住んだような気がする。月に一回は介護関連の原稿を書いている。古い原稿を読み返してみると、5年前、母は活発に歩いていたし、お客さんとの応対もそれなりにこなしていた。そのうち楽しみにしていたビールを飲まなくなり、歩くこともできなくなった。確実に老いは進行している。
現在、88歳、日本にいた時、医師から83歳でお亡くなりになりますから御覚悟を、と宣告されたが、あれから約6年、よく頑張ってくれている。日本にいたらあの医師の言うような結末となったかもしれない。でも曲がりなりにも歩き、箸を使ってご飯を食べ、自分の意思を言葉で表わせた本人が2,3ヵ月の入院生活で亡くなるというのだから、、我々にとっては寿命というより突然死に近い感じになったと思う。悲しいことではあるが、身近でだんだん衰えていく母を看取るのは、子供として十分に納得できる形といえる。不謹慎ではあるが、もうモトは取ったかなあ、という感じだ。
■女中さんのお陰
介護はつまるところ、飲食、排泄、身体の清潔保持の3つになる。入浴はチェンライに来た当初、1,2度経験しただけ。バスタブのある部屋が2階にあること、なれない浴室で母が嫌がるので、その後は清拭、シャワーとなっている。爪切り、散髪も女中さんがやってくれる。友人の奥さんで本職の美容師がいて彼女に出張カットをお願いしていたこともある。でもお金を受け取ってくれないので心苦しい。その点、女中さんは髪が伸びていると遊び感覚で櫛、ハサミでイガグリ頭にしてしまう。ほらね、可愛らしい、ママさん、サバイサバイと満足している。こんな刈り方にされ、元気な時の母だったら激怒したかもしれないが、ツイッギ―のショートカットのようでもあり、それなりに清潔感があっていいかと思っている。
こちらに来た頃は尿意を伝え、自分でトイレに行っていたが、今は無理。紙パンツを常用している。1,2日に一度、そろそろ頃あいと女中さん2名で母をトイレに運んで用を足させる。トイレはシャワー室共用になっているので、トイレの後、シャワーで体中を洗ってもらうこともある。
毎朝、あるいは暑くて汗をかいた時はその都度、シャツを着替えさせ、天花粉を振る。こちらであせもができたことはない。2週間ほど入院していたことがある、その時、いわゆる床ずれ(褥瘡)ができてしまったが、自宅の戻ったら女中さんが母をコロコロ転がして床ずれをあっという間に治してくれた。
息子より身近で母を見ているので、何か変化があればすぐ気付いて報告してくれる。落ち着いていますからどこか1週間くらい旅行にいらしては、などと言われる。日本で介護していた頃を思うと、気軽に外泊できるなどとは夢のようである。
■それなりに気を使う
ブアさん、ニイさんのコンビは2年近く続いている。タイも中進国、生活水準が向上し、なかなか女中さんのなり手がない。田舎であるチェンライでは多少事情はいいようだが、介護と聞くと二の足を踏む人が多い。女中さん1名体制が続いた時、ブアさんと二人でチェンライ近郊を女中さん探しに歩いたこともある。ニイさんはラオス人である。タイは階層社会だから、タイ人、ラオス人の上下関係がはっきりしているから女中さんの関係がうまくいっているのかもしれない。
ニイさんは家族と近くの村に住んでいる。勤務時間は週6日、7時半から18時まで。休みの日であっても、ブアさんの呼び出しがあれば駆けつけてくれる。
先任女中として、ブアさんは結構ニイさんに気を使っていて、時折、食用油や果物を渡している。
女中さんに頂き物のお菓子などをあげることがあるが、ニイさんには直接渡せない。本人も気にするし、やはりまず先任のブアさん、ブアさんからニイさんという手順を踏まないといけない。
昼食は兄か自分が作った麺類で済ませることが多い。3食、ブアさんの炒め物を食べていては肥満になると思ったからだ。食べ終わると、日本にいた時の癖で、ついつい皿やコップを洗い場に持っていく。これを女中さんが嫌がる。「私がやりますから、そのままにしておいて下さい」。日本にいた時のようにお皿をきれいに洗いたいと思う時もあるが、これもじっと我慢する。
人を使うことは気疲れするものである。
写真一番下は今、出盛りの竜眼