スクータでラオス旅行(6)
■ルアンプラバンを出発
ツアー観光客は通常、この街に2泊して、ビエンチャンやベトナム方面へ向かう。
自分もこの街に2泊したが、観光客とは逆コース、ルアンプラバンからウドンムサイ、そしてルアンナムタ―を通って、国境のフエサイに向かうことにした。フエサイからメコンに架かる友好橋を渡ればチェンライの我が家まで1時間半。
バスでの所要時間はここからウドンムサイまで4時間、ルアンナムタまで9時間、フエサイまで12時間となっている。この4都市を結ぶ道は地図で見れば1本だ。道路状況が良ければ一気にルアンナムタまで行って、翌日に自宅に戻ることも可能だ。
朝8時にGHを出発。郊外を走る幹線道路13Nを順調に北上する。朝のラッシュアワーであるがタイに比べ、自転車が多い。地図では1本道であったが、分岐点がいくつかある。1時間ほど走ると二股の道に出た。表示は何もない。どちらもきれいに舗装されている。ままよ、と右の道を行った。これが災いの元となる。
■川を渡る
道は登りにかかり、舗装道路から砂利道になった。確かGHのおやじさんは舗装道路が続いていると言っていたがなあ、と思いながら走ること30分、商店や露店もある街に差し掛かった。焼き芋を売っている女の子にウドンは、と尋ねると前方を黙って指す。どうやら方向は間違っていないようだ。街を過ぎると、道が狭くなってきた。4年前、こんなにしょぼい道をバスで通ったのだろうか。山道を下っていくと大きな川に出た。進むためには川を渡らなければならない。水遊びをしていた子供たちが自分のスクータを注視している。向こう岸からバイクが水飛沫をあげて川を渡ってきた。鹿も四足、馬も四足の義経ではないが、あのバイクが渡れるなら自分のスクータも渡れるだろう。ゆっくりと水の中に入った。
川岸を登ると村があった。広場にスクータを停め、地図を広げて、ここはどこ、ウドンムサイに抜けられるか、と聞くのだが、人だかりの割には要領を得ない。地図は大雑把で大きな街しか記載されていない。それに現地語はなく、英語表示なので村人には読めない。そのうち警察官がやってきた。ちょっと署に来い、という雰囲気。大きな地図でもあるかと警官に付いていく。事務所に入ると警官は「罰金として2万キップ(200円)払え」という。金額は問題ないがなぜ罰金を払わねばならないのか、納得できないので払わん、とごねてみた。そのうち英語を話す人が来た。学校の先生らしい。要するに外人が入ってはいけない村に来たのでその罰金だという。払わなければ牢屋に入れられ、裁判を受けることになるという。
この村の名はバーンスキア、地図上でどの位置にあるのかわからない。先生は今来た道を戻る方がいいという。しかし途中で、この道はウドンムサイ方向といわれたことが頭にこびりついていた。方向的に正しいのであればいつか大きな舗装道路にぶつかるだろう。先生は2時間も走れば国道に出ると言う。よし、毒を食らわば皿まで。領収書に「道案内料として」と書き足してサインした。出発してすでに2時間が経過していた。
■道に迷う
バーンスキアを通り過ぎるとまた山道に入った。右側は断崖となっていて、はるか下を川が流れている。これは2年前、アランとボロバイクで走った道にそっくりではないか。ランボーという映画で、泥濘の道をミャンマーかベトコンの兵隊がランボーを追って行く。岩陰からランボーが弓矢で兵士を射る。そうだ、あの場面の道だ。雨季には少し早いので道は乾いている。しかし、きな粉のような土や細かい石が溜まっている処に踏み込むとバランスが崩れる。何とか踏みとどまるのだが、もし、慌ててスロットルをふかせば、一気に谷底に転げ落ちる。こんなところで母一人残して死ぬことになるのか。PCを持ってこなかったので、兄は今、自分がどこにいるのか知らない。ここで遭難しても遺体の探しようが無い。1960年代に辻政信がラオスで消息を絶ったことを思い出した。でも自分は辻政信と違って恨まれるようなことはしていない。60も半ばを過ぎた年寄りが何故こんなバカなことをしているのか。本来であれば、散歩を日課とし、孫の相手でああ、疲れたなどと平穏な日を送っているはずなのに。
フォルツァはこんな道を走るスクータではない。フォルツァよ、勘弁してくれ。さすが279侫┘鵐献鵑藁篭い。時速40キロで坂道を登る。しかし無段変速であるから下りではエンジンブレーキが利かない。両腕に力が入る。また川にぶつかった。先生はもう川を渡ることはないと言っていた。どこかで道を間違ったのだ。(続く)
写真上から「警察署」、その下の三叉路左側が「ウドンムサイ方面」、その下スクータで渡った川、