チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

特殊な国

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特殊な国

■ 見よう見まねで国産車開発
「戦前の日本、昭和初期のカラー映像」というビデオを見た。その中に日産が制作した乗用車の宣伝フィルムがある。高等女学校卒業以上、溌剌とした女性という条件のキャンペーンガールには数百人が応募し、4人が採用されたとか。美しい姉妹が出てきて、「お姉さま、箱根まで行きませう」、「そうね、スピードアップで行きませう」といったハイカラなテロップが流れ、二人は快適なドライブを楽しむ。このCMが制作されたのは昭和12年、1937年である。

ヘンリー・フォードが流れ作業によるT型フォード量産化に成功したのは1907年のことだ。遅れること4年、1911年には日産の前身である快進社自動車工場がエンジンを含めた純国産車を開発、更に1931年には大衆向けの国産車が販売されている。

自動車を見てびっくりした民族は一杯いただろう。でも、それを国産で作ろうとし、また成功したのは白人以外では日本人だけだった。感動する商品、製品があったら、自分で作ってみようと思う、こういった精神構造を持つ民族は稀ではないのか。

■有色人種初の蒸気機関
19世紀中葉、蒸気船を見てびっくりした土人はインドにも中国にもタイにもマレーシアにもいただろう。でもその蒸気船を自分の手で作ってみようと考えた土人は日本人だけではなかったか。

1853年、ペリー提督が黒船でやってきた。蒸気船を江戸湾頭で見てびっくりした人の中に、伊予宇和島藩主、伊達宗城(だてむねなり)がいた。彼は国にとって返すと、医者であった村田蔵六に、オランダ語の専門書を翻訳して船を設計するように命じた。肝心要の蒸気機関は城下にいた提灯屋の嘉蔵というものを召し出して制作を命じる。

試行錯誤の結果、黒船到来から、わずか3年後に蒸気船は完成し、瀬戸内海で試運転する。船の大きさに比べ、蒸気機関の馬力が弱かったため、船は蛇行したというが伊達の殿様は大満足だったと伝えられる。伊予宇和島藩は10万石、今の宇和島市くらいの経済規模だっただろう。司馬遼太郎は「この時代宇和島藩蒸気機関を作ったのは、現在の宇和島市人工衛星を打上げたのに匹敵する」と述べている。東大阪のおっちゃん連が人工衛星を上げる時代だから、今なら現在の宇和島市で火星探査機を打ち上げたのに匹敵する。

ご存じの通り、百姓上がりの村医者、村田蔵六は、のちの倒幕軍の総司令官、わが国近代兵制の創始者となった大村益次郎である。1977年のNHK大河ドラマ花神」で大村を中村梅之助が、嘉蔵を愛川欽也が演じたことをご記憶の方もおられるだろう。

■自分が標準、他人も同じ?
絵を趣味としている友人がいる。ネットで見たが素人とは思えない見事な水彩画を描く。彼が「どうして君は絵を描かないのか」と言って来た。自分にできるのだから、中西君だってすぐ絵が描けると思っているようだ。小学校の図画工作の成績が「2」だったことを彼は知らない。

また、海外生活が長く、英語に堪能な人と同席することがある。欧米人と流暢にやり取りし、おし黙っているこっちを振り返り、「ね、わかったでしょ?」。ワカラネーヨー、オジサン英語できねーんだよ。自分ができるものだから、人も当然できると思っているのだ。

日本にできるのだから、他の国だってできると思いがちである。でもそうではない。別に差別するわけではないが、100年経ってもウズベキスタンは日本のような先進工業国にはならないだろう。もしなれるのであれば、戦後、次々と独立し、今こそわが国の明治時代と意気盛んだったアジア、アフリカ諸国はとっくに工業化して、豊かになっていなければおかしい。

日本は白人国以外で産業革命を達成した唯一の国である。日本は色々な意味で他国とは違っている。

■同じ人間だもの・・・、だから?
ある大学で駐日フランス大使とドイツ大使が同席してのシンポジウムがあった。仏独と同じような友好関係を日韓は結べるでしょうか、という学生の質問に対し、両大使は、「仏、独は同じ文化基盤を持つ民主国家だから友好関係を結べた。しかし、韓国は日本とは文化が違い、民主国家ではない。だから日韓友好は幻想だ」と明快に述べた。

何かしてあげれば感謝してくれる、謝れば過去は水に流してくれる、同じ人間同士、誠意を尽くせば分かってくれる、友好は何事にも優先・・・、こういった考えは世界の中でも特殊なものだ。

岡田克也衆議員並びに民主党は、世界には全く異質な思考、文化を持つ国や国民が存在することを学び、今からでも遅くはないから日本という国の再評価を始めてもらいたい。

上から三枚は当時の広告、四枚目が「伊達宗城」その下は「大村益次郎