チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

クンユアム再訪(6)

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クンユアム再訪(6)

■民俗資料も
クンユアム旧日本軍博物館は1996年にチューチャイ・チョムタワット氏が個人的に開いた博物館だった。その後、2007年にタイ日友好記念館と改称され,創設者の手から離れてクンユアム市に管理と運営が移管された。2008年にメーホンソーン県、文化省、教育省、観光省、チェンマイ大学、タイ日友好フォーラムが中心となって「タイ日友好記念事業プロジェクト委員会」が発足した。2012年にはタイ日修好宣言調印125年記念事業として新館が建設された。現在はタイ国メーホンソン県立博物館としてクンユアム市が管理している。
チューチャイ氏が天皇陛下からお言葉を賜ったのが2006年だから、その後日本からの援助ラッシュが始まり、ハコモノが拡充され、展示物も日本軍の遺留品だけでなく、民具や山岳民族関連に広がっていったのだろう。

展示説明のパネルは日、タイ、英の3カ国語で書かれているので有り難い。クンユアムは19世紀後半から20世紀初めかけて英国の絡んだチーク材伐採で栄えた。タイからビルマへのルートが古くからあったために1942年に日本軍が5000-6000人がやってきて、まず兵站基地を置いたようだ。27万人の日本将兵がクンユアムを通過してビルマへ向かった、とパネルにはある。

展示されている武器は銃剣、日本刀、小銃だけでなく、機関銃の残骸もあった。展示されている火器の名称、製造年代、製造国を細かく記載しているネットによると、機関銃の中には日本製ではないものもあるそうだ。鹵獲して使用したものだろうか。

軍用トラックの説明もあった。1934~1941年に製造されたと考えられる。これらはイスズ97モデル(1934年製4輪車)、イスズ94モデル(1937年製6輪車)、イスズ1モデル(1937年製6輪車)、トヨタKBとKC(1941年製4輪駆動)。戦争が始まる前から日本は4輪駆動のトラックを製造し、輸送船でタイに持ち込んだ。日本は技術も低く、見るべき戦略もなかった、という人がいるが、当時、トラックを国内製造し、船でインドシナまで運べる国がどれくらいあったか。

若尾文子
地球の歩き方」に「第2次世界大戦に関する展示は資料写真の誤用や日本語解説文の間違いが目立つ。立派になる建物と反比例して展示がお粗末になるのは残念」と書かれている。
日本軍の服装に関する説明で、ハングルではないかと思われる不思議な文字があった。よく見ると「日本軍の軍帽」と書かれた文字が上下逆さになっていた。

写真では軍人に交じって従軍看護婦の写真があった。看護婦さんのポートレートの中に一際きれいな人がいる。若尾文子さんだ。これは1966年増村保造監督 有馬頼義原作の大映映画、「赤い天使」に出演した彼女の写真ではないか。「赤い天使」は従軍看護婦という女性視点から戦争の悲劇、悲惨さを表現した作品だ。

昭和14年に天津にある陸軍病院に赴任した看護婦若尾文子、彼女と関係した兵士川津祐介、軍医芦田伸介等は、みな非業の死を遂げる。フランスでは今でも評価が高いと言うが、結構暗い映画で見た後は鬱状態になる。どこでこの写真が紛れ込んだのだろうか。

■ワット・ムアイトー
記念館前の道路を挟んで右手にワット・ムアイトーという寺がある。当時、野戦病院があり、ここで亡くなった将兵も少なくない。寺の敷地には数カ所の慰霊碑がある。今回訪ねてみると「タイ日歴史公園」が新しく整備されていた。その一角に行軍中の、村人から果物を買っている、あるいは倒れた仲間を介抱している日本将兵のブロンズ像があった。その群像になにか違和感を感じる。雰囲気がどう見てもタイ人だ。帝国陸軍の兵士には見えない。

日本軍のエピソードが描かれた壁画が飾られた回廊も完成していた。中にフクダ上等兵と短くも幸せな結婚生活を送ったバーケーオさんの絵もあった。天皇陛下から下賜された銀杯を前に微笑んでいる。死んだらフクダに会えるから嬉しい、と言っていた彼女も亡くなった。この悲恋はチューチャイ氏の手になる「ドグブアトーンでの愛の物語」http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/page008.html に詳しい。

慰霊碑は平成になって建てられたものが多い。新しいものほど立派になっていくが、この地にいた将兵はもうほとんど死に絶えたであろう。記念館の訪問客のうち日本人は1割程度だと言う。慰霊碑を訪れる邦人はますます減っていくのだろうか。

境内にいくつかある慰霊碑のうち、「悼 天に星 地に草の露 はるかに故国を恋いつつ ここに兵士らの御魂眠る ただ虫の声のみ その勇武のあわれを悼むなり 伊藤桂一」と刻まれた黒色の碑に魅かれた。「蛍の河」を始め、彼の叙情的な戦場小説が好きだった。ひたむきで誠実な将兵、軍馬、軍犬の切ない最期、彼の作品を思い出して胸が熱くなった。



写真は「日本軍の軍帽」が逆さ、絶対この写真は若尾文子、タイ風皇軍兵士群、最後は伊藤桂一氏自筆の慰霊碑。