チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ブランコ祭り 5

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ブランコ祭り(5)

■踊りのコンテスト
9時にブランコ祭り開始の儀式が始まり、有力者の挨拶があった。アカの人が圧倒的に多いが、有力者にはタイ人もいるので、タイ語とアカ語の同時進行となる。ウズベクにいたとき、弁論大会やコンサートの説明がいつもウズベク語とロシア語の2ヶ国語であったことを思い出した。
紺の上着、羽飾りのついたターバンを被ったアカの男たちが10人ほど壇上に上がって、中の1人が吹く笛に合わせて踊り始めた。笛は笙の笛かアンデスサンポーニャと同じく、長さの異なる竹を並べた20センチほどパンパイプだ。男たちは円陣を作り左回り、あるいは右回りをしながらゆるゆると足を上げる。平安朝の雅楽のような素朴で優雅な踊りである。村の長老始めアトゥなどの有力者が踊るのだが、一つも間違わない。長年にわたって様式化されているのであろう。

大方のセレモニーが終了し、10時前から踊りのコンテストが始まった。舞台に上がるのは10-20人の女性グループ。司会から出身村の紹介があるたびに会場から応援の歓声が沸く。年配の女性がマイクの前でアカの民謡を声張り上げて歌う。踊り手は皆、竹の筒を床にとんとんと打ち付けて拍子をとり、円形に回りながら、時には二手に分かれて対面形式で踊る。何歩か歩いて両膝をかくんと折る。概ねこれの繰り返し。ステップの踏み方に部族ごとの違いがあるようだがよくわからない。ごく単調な歌と踊りであるが、アカのそろいの民族衣装が美しい。時にはテープの音楽で踊るグループもあった。そのバックミュージックの一つに「北国の春」があった。アカの人も「ああ、誰にも故郷はある」というフレーズが好きなのだろうか。アカ族の若い人は学業あるいは仕事を求めて山を下りている。ステージで踊る女性も大半が年配者であった。

■アカの民族衣装
センジャイパタナのブランコ祭りはチェンマイの邦字紙にも出ていたくらいだから、結構知られていたのだろう、当日は多くのファランが見物に来ていた。彼らはアカの女性の写真を撮り、ブランコに打ち興じ、ステージで続いている踊りを見て、1時間ほどで帰っていく。アカの民族衣装は確かにエキゾチックだ。兜や上着には19世紀後半の銀貨が縫いつけられている。人によっては数十枚ものコインが縫い付けられている兜や衣服を身に着けているから相当の重さだ。銀貨を一つ首から下げているアカの子供をよく見かけるから、銀が体を守ると信じられているのだろう。しかしアカの衣装に銀貨や銀が用いられているのには、お守り以外の理由がある。アカ族は戦うより逃げる、怒るよりあきらめるという形で、中国からビルマ、タイへと争いを避けて移り住んできた民族だ。すべての財産を身に着けて歩き、権力者や盗賊に襲われたときは即座に着の身着のまま、つまり全財産を身に着けて逃げるという知恵でもあったのだろう。彼女たちが身につけている銀貨は、先祖がアヘンや米と引き換えに一つずつ集めてきたものに違いない。

■買い食いを楽しむ
お祭りというと屋台の店がつきものである。このブランコ祭りにも、いくつか出ていた。みな麓からやってきたバイク付き屋台である。アトゥからアカセンターに戻れば適当に昼食は取れるから、と聞いていたが、屋台の食べ物も美味しそうだ。タイ名物、アイスクリーム・サンドイッチを注文する。ハンバーガー用のパンの間に、先ずカオニャオ(もち米)を大匙一杯ほど、そこに直径3センチほどの球状のアイスクリームを数個挟み、ケチャップをかけて出来上がり、ちいさなプラスチックの匙もくれる。冷たいアイスクリームともち米の食感が見事に調和する。これでわずか10バーツ(28円)。このサンドイッチを酷暑の日本で販売したら大人気になるのではないかと思った。さらに10バーツの串揚げルークチン(日本のつみれ)、これまた10Bの砕け氷いりコーラなどを購入。久し振りにお祭りの買い食い気分を楽しんだ。
このバイク付き屋台はお祭りでないときもセンジャイパタナの村へやってくる。バイクのおじさんはチリンチリンと鈴を鳴らして「アイスクリーム屋が来ましたよー」とアピール。すると、10バーツを握りしめたアカの子供や大人が飛び出してくる。アトゥは「そういう形でアカ族はどうしても現金というものが必要になってくるんだよ」と嘆いていたが。

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「ウロアカ族」「ウロアカの踊り」「パミアカ族」「ファラン(欧米系の外国人)」「衣装を身につけた子供達」