チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

緊急事態発生 2

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緊急事態発生(その2)

集中治療室の面会時間は決まっている。貰ったパンフレットには7時から8時、11時から13時、18時から21時と1日3回になっている。しかし同室の交通事故少年にはお母さんが、開頭手術少年にはお兄さんと見られる青年がずっと付き添っている。集中治療室の外のロビーには長椅子がいくつかある。そこに枕と毛布を持ち込んで寝ているおばさんがいる。タイの病院では入院患者に家族が付き添うのは当然という考えがあるようだ。さすがに集中治療室の中での寝泊りは出来ないようだが、ロビーの長椅子で夜を明かすことは許されている。ロビーとはいえ病院内であるから室温は一定で心地よい。タオルケット1枚あれば、タイの病院では無料で宿泊できるということがわかった。

パッタイ(タイ焼きそば)とスープを持ったおばさんがやって来て、開頭少年付き添いの青年にお皿を渡している。お兄さん、パッタイの出前をとったらしい。日本の集中治療室に「へーい、焼きソバ一丁、お待ちどうさまでーす」と出前持ちがやってくるシーンを想像できるであろうか。お兄さんはさすがに室内ではなく、ロビーに出て食べていたが、食べ終わった食器を集中治療室入り口に置くと、再び弟のベッドへ行った。徹夜で付き添うようだ。

母の隣のベッドに意識不明の坊さんがいた。坊さんはタオルケットの代わりに、オレンジ色の僧服をかけられている。次の日の午後にはベッドがカラになっていた。死んじゃったの?と女中に聞くと、治る見込みがないので退院させられたのだという。チェンライ在住20年というSさんのブログを読んでいてわかったのだが、このお坊さんはチェンライ郊外のメカムにあるお寺の住職で、教僧(パ・クルー)の資格を持つ高僧、末期の糖尿病だったそうである。病院から救急車で寺に戻され、その3日後に亡くなったという。

救急車で担ぎこまれた母の救急処置をしてくれた女医さんに加えて、いつも母の診療に当たっているプルーム医師の二人が主治医として母の治療に当たることになった。大変心強い。プルーム医師の説明では肺炎を起こしているので2,3日、集中治療室で様子を見る、その後、一般病室に移って、熱さえなければ3,4日で退院できるでしょう、とのことであった。結局、母は3日間、集中治療室に居た。口から挿入されたチューブは3日目に外されたが、声が出せるようになると、いつものように兄の名前を連呼し、その合間にはお腹が痛いと言い通しだったようだ。お陰で集中治療室の看護師さんたちは全員、兄の名前を覚えてしまった。それにしても母の声が小さく、弱弱しくなってしまったのは、ゴハンを食べていないせいもあると思うが、気にかかる。

タイの看護師さんは全員大学出であり、英語を話す人が多い。英米人の看護師さんだったら英語が通じないのは一方的にこちらが悪いことになる。しかしタイの場合、こちらが理解できないと、彼女達は自分の英語表現が良くないと考えて、一生懸命繰り返してくれる。本当に助かる。母の世話をする准看護師さんもカタコトの日本語で「ママサーン、イタクナイ」、「ダイジョーブ」などと母に話しかける。我々兄弟に対しても「コンニチワ」と微笑む。明るくて仕事ぶりもてきぱきしている。集中治療室という重症患者ばかりの部屋ではあるが、看護師さんや准看護師さんが若く、明るい人ばかりなので、気分的に救われる。

女中のブアに言われるまま、彼女が市場で買ってきたみかんやお菓子を集中治療室につめている看護師さん達に差し入れした。「あら、あら、すみませんね、コップクンカー(ありがとう)」と喜んで受け取ってくれた。室内中央のナースステーションの中で看護師さんがアイスコーヒーをストローでチュウチュウ吸っていたから、みかんもお菓子もそこで食べるのだろう。一応、規則はあっても面会時間自由、付き添い自由、患者に持ち込んだヤクルトなどを飲ませるのも自由、こういったタイのユルさをとても好ましく思えるのは、やはり1年をこの国で過ごしたせいであろうか。

入院して3日目に集中治療室から個室に移ることが出来た。「退院」を宣告されなくてよかった。しかし、母はこのあと10日も入院することになる。(続く)