チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

介護ロングステイ1年7ヶ月

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介護ロングステイ1年7ヶ月

■タンブンが生きがい
タイでは月に4回、タンブンに良い日がある。ワンプラー(お寺の日)という。満月、新月、半月の日に当たっていて、タイのカレンダーをみるとその日には仏様のマークが付いている。
女中のブアがタンブン好きなことは以前にも書いた。7千バーツの月給のうち5千バーツをタンブンしてしまったこともある。ワンプラーの日になると、妙に生き生きしてきて、ポリ袋にお米などタンブンの品々を入れて、バイクで近くのお寺に行ってしまう。曲がりなりにも自分は仏教徒であるし、その国の文化というかその国の人が大切にしているものは尊重するという気持は持ち合わせている。ブアがタンブンに持ち出す日用品に文句はいわないし、時には誘われてタンブンに同行することもある。タンブンするものが食用油、ミネラルウォーター、果物などかさばるときは、ブアがバイクで行くのは無理だ。車で行くことになる。お陰でチェンライ近郊のお寺をいくつか知ることが出来た。

■ポン・ルアン寺、ピュー師
家から15キロほど離れた所にあるポン・ルアン寺には何回か行った。自分の車とバイクのハンドルに無事故祈願のおまじないとして木綿糸の束が縛り付けられている。これはポン・ルアン寺から貰ってきたものだ。このお寺の住職はピュ-師と言う。40歳くらいの小柄な人だ。初めて会ったとき片手を上げてサワディーカップとやったものだから、向こうが笑い出してしまった。タイではお坊さんより高い位置から話してはいけない。合掌し、ひざまづき、三拝してからおもむろに丁寧語で話さなくてはいけない。彼はどういうわけか親しみをもってくれたらしい。行くとプアン、プアン(友達)と愛想がいい。それがブアにとっては嬉しくて仕方がない。お布施を出し惜しみするし、ワットにいくというといやな顔をするご主人(自分)だが、あのピュー師が「友達」と言って下さるのだから、多少は見所があるのではと思っているのであろう。
先日も、西瓜をひとつ余分に買って「これをピュー師にタンブンする」と言い出した。寺に行くのは面倒だなと思ったら機先を制して、ママさんの病気が良くなるようにお祈りに行くのだから、と言う。そう言われると、行く必要はないなどと親不孝なことは言えなくなる。

■ピュー師とプルーム医師のご託宣
翌朝、ポン・ルアン寺に行ってみると丁度、朝のご祈祷がすんだところらしく、本堂から白服を着た善男善女が2,30人出てくるところだった。本堂には大人の坊さんが4,5人、それからノーネーンという少年僧が10人ほど残って食事の準備をしていた。
ブアが封筒を取り出して、表に母と我々の名前を日本語で書き、タンブンを中に入れるようにという。封筒にはすでにブアが自分の小遣いの中から出した100バーツの新札が入っていた。お金を封筒に入れるのは、僧侶はお札に直接手を触れることは出来ないからだ。
食事前のピュー師を呼び出して、供物をささげ、封筒を渡す。ピュー師は封筒を受け取ると合掌してお経を唱え、途中、エミサン、ヒデキといって人懐こく微笑んだ。自分と母の名前を覚えているらしい。ブアが三拝九拝してなにやらピュー師に尋ねている。母が夜間も興奮してなかなか寝付かない、何とか快方に向かう手立てはないでしょうか・・・・・ピュー師のご託宣は「人間、年をとってくるとそれが普通。仕方ないですね」というものだった。なかなか正直にものを言う坊さんだ。
そういえば、ブアがしつこく勧めるので母をポン・ルアン寺に連れて行き、ピュー師に祈祷してもらったことがある。母を本堂まで連れて行くことは出来ない。師がいすを車の後部座席の横に持ってきて、一生懸命ご祈祷をしてくれた。(画像)でも母はほとんど無関心で合掌もろくにしなかったと思う。あれを見れば少々タンブンを貰ったところで快方に向かいますとはいえないだろう。

それから2,3日経って、病院に行った。月一度の診察日だ。何時ものように、プルーム医師が簡単な診察をする。ブアが、何時ものようにママさんが夜中に大声を出して眠らない、困ったものです、などと説明をしている(らしかった)。プルーム医師は投薬指示書を書きながら「もう年だから仕方ないですね」と答えていた。
坊さんも医者も言うことが全く同じである。でも快方に向かうことはなくても今と同じ状態が続けばそれに越したことはない。昨日と同じ日が今日も、今日と同じ日が明日も続いてくれることが今の我々にとっては有難いことなのである。