チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

タイのコーヒー 5

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タイのコーヒー(その5)

17世紀初頭にイスタンブールからヨーロッパに伝えられたコーヒーは瞬く間にヨーロッパ中に広まった。17世紀の終り、英国には8000軒ものコーヒーハウスがあったことは先に述べた。コーヒーハウスは上流階級から中流階級の人々の溜まり場となり、政治、経済、あるいはゴシップなど社交、議論、情報交換の場となった。銀行、株式取引所、保険会社のロイド、英国王立科学院(ニュートンが院長を務めたことがある)など、すべてがコーヒーハウスから誕生した。かの「ボストン茶会事件」の策略もアメリカのコーヒーハウスの一つ、“グリーンドラゴン”で練られた。イギリス国王の独断によって高い関税を強いられた紅茶に抗議することの方が、コーヒーを楽しむことより大切だったのだろうか。

眠気を払い、知力を集中させる効果のあるコーヒーは芸術家や文学者に愛飲され、その結果、優れた作品の数々が生まれた(バッハの作品に「コーヒー・カンタータ」がある)。ベートーヴェンも、コーヒーに大変うるさかった。一杯分のコーヒーをいれるのに使用するコーヒー豆は、キッチリ六〇粒と決めていたという。この六〇粒は、約10グラムである。我々が珈琲花園で飲む「アメリカーノ」一杯に使用するコーヒー豆は約8グラムとMさんが教えてくれた。だからベートーヴェンはうまくて、コクのあるコーヒーを飲んでいたと思われる。 もっとも、自分自身で淹れたというのも、彼の口うるささに辟易して、家政婦が長つづきしなかったからである。

ブレックファーストに供するコーヒーは、スペシャル・ブレンドを使用し、コーヒー・ミルはトルコ式のもので、その都度、手回しで挽き、抽出器も秘蔵のもので、来客に自慢話をするのが、毎度のことだったという記録が残っている。コーヒーにこれほど時間を取られなかったら交響曲も第9では終らず、オペラも何本も作曲できたかもしれない。でもコーヒーのお陰でいい仕事ができたのだ、とベートーヴェンは言うに違いない。

フランスの文豪バルザックは、毎日夕方6時から夜12時まで眠り、それから起きて12時間ぶっ続けで原稿を書き、その間、80杯のコーヒーを飲んだということが「近代興奮剤考」という本に書かれている。「諸君の胃袋の中にこの香り高い飲みものが入ると、コーヒーはすばらしい活動を始める。それはあたかも戦場において大歩兵部隊が敏速に機動しながら、戦いを進めていくさまに似ている。記憶は風のように駆け戻り、頭脳の論理的な働きは思索の関連を保ちながら騎兵隊のように展開する。 ウィットはたちまち成り、用紙は名文に充ちてしまうであろう」 と謳歌した。コーヒーを飲みつつ、次々に大作をものにしたバルザックにとって、コーヒーはまさに文筆活動のエネルギーであったに違いなく、彼の言葉から、コーヒーが格別頭脳労働に不可欠な飲みものであったことをうかがわせる

日本に喫茶店が流行り始めたのは明治時代の終わりからと言われる。明治、大正の文化人はカフェに集い、コーヒーに西洋の香りをかいで、芸術論を交わしたものらしい。

 何となく古き恋など語らまほしく、
 当てもなく見入れば白き食卓の
 磁の花瓶にほのぼのと
 薄紅の牡丹の花
 珈琲、珈琲、苦い珈琲

木下杢太郎の詩集、「食後の唄」の一節である。彼が出入りした銀座西8丁目の「カフェ・プランタン」には北原白秋永井荷風吉井勇小山内薫、彫刻家の高村光太郎、画家の黒田清輝、岡田三郎助、歌舞伎の菊五郎猿之助歌右衛門、他にも森鴎外徳田秋声谷崎潤一郎等も集まったことを夏目漱石が書き残している。

チェンライの珈琲花園にもカフェ・プランタンや銀座裏通りのカフェ・パウリスタほどではないが、チェンライの自称文化人が集まる。珈琲の味もさることながら、やはり店主のMさんとお話したいという理由もあろう。銀座のバーのママと同じで、絶世の美人である必要はないが、女主人がきっぷがよくて、頭の回転が速く、話していて楽しいということが流行る喫茶店の条件だと思う。

タイの新聞も読めず、テレビも理解できない自分にとって、タイ人の口コミ情報や村の生活で体得したタイ人の思考方法を伝授してくれるMさんは貴重な存在だ。珈琲花園は、限られた人の間での貴重な情報交換の場という意味で、17世紀に盛んだったヨーロッパのコーヒーハウスに限りなく近いのではないだろうか。(まだまだ続く)