母の死去に際しましては多くの方からお悔やみメールを頂きありがとうございました。
10日(金)に荼毘にふしまして12日(日)に骨上げを行い、タイの葬儀は終わりました。日本で49日に合わせて葬儀を行うつもりです。まだブログを書く元気がありませんので、以前アップした原稿を再録させて頂きます。
チェンライの珈琲(その5)
■謀議から作曲、執筆まで
17世紀初頭にイスタンブールからヨーロッパに伝えられた珈琲は瞬く間にヨーロッパ中に広まった。17世紀の終り、英国には8000軒もの珈琲ハウスがあったことは先に述べた。珈琲ハウスは上流階級から中流階級の人々の溜まり場となり、政治、経済、あるいはゴシップなど社交、議論、情報交換の場となった。銀行、株式取引所、保険会社のロイド、英国王立科学院(ニュートンが院長を務めたことがある)など、すべてが珈琲ハウスから誕生した。かの「ボストン茶会事件」の策略もアメリカの珈琲ハウスの一つ、“グリーンドラゴン”で練られた。
眠気を払い、知力を集中させる効果のある珈琲は芸術家や文学者に愛飲され、その結果、優れた作品の数々が生まれた(バッハの作品に「コーヒー・カンタータ」がある)。ベートーヴェンも珈琲に大変うるさかった。一杯分の珈琲をいれるのに使用する豆は、キッチリ60粒と決めていたという。この60粒は、約10グラムである。我々が珈琲花園で飲む「アメリカーノ」一杯に使用する珈琲豆は約8グラムとMさんが教えてくれた。だからベートーヴェンはうまくて、コクのある珈琲を飲んでいたと思われる。もっとも、自分自身で淹れていたというのも、彼の口うるささに辟易して、家政婦が長つづきしなかったからである。
彼が朝食に供する珈琲は、スペシャル・ブレンドを使用し、コーヒー・ミルはトルコ式のもので、その都度、手回しで挽き、抽出器も秘蔵のもので、来客に自慢話をするのが、毎度のことだったという記録が残っている。珈琲にこれほど時間を取られなかったら交響曲も第9では終らず、オペラも何本も作曲できたかもしれない。でも珈琲のお陰でいい仕事ができたのだ、とベートーヴェンは言うに違いない。
フランスの文豪バルザックは、毎日夕方6時から夜12時まで眠り、それから起きて12時間ぶっ続けで原稿を書き、その間、80杯の珈琲を飲んだということが「近代興奮剤考」という本に書かれている。「諸君の胃袋の中にこの香り高い飲みものが入ると、珈琲はすばらしい活動を始める。それはあたかも戦場において大歩兵部隊が敏速に機動しながら、戦いを進めていくさまに似ている。記憶は風のように駆け戻り、頭脳の論理的な働きは思索の関連を保ちながら騎兵隊のように展開する。 ウィットはたちまち成り、用紙は名文に充ちてしまうであろう」 と謳歌した。コーヒーを飲みつつ、次々に大作をものにしたバルザックにとって、珈琲はまさに文筆活動のエネルギーであったに違いなく、彼の言葉から珈琲が格別頭脳労働に不可欠な飲みものであったことをうかがわせる
■日本の文化人と珈琲
日本に喫茶店が流行り始めたのは明治時代の終わりからと言われる。明治、大正の文化人はカフェに集い、珈琲に西洋の香りをかいで、芸術論を交わしたものらしい。
何となく古き恋など語らまほしく、
当てもなく見入れば白き食卓の
磁の花瓶にほのぼのと
薄紅の牡丹の花
珈琲、珈琲、苦い珈琲
木下杢太郎の詩集、「食後の唄」の一節である。彼が出入りした銀座西8丁目の「カフェ・プランタン」(明治44年開店)には北原白秋、永井荷風、吉井勇、小山内薫、彫刻家の高村光太郎、画家の黒田清輝、岡田三郎助、歌舞伎の菊五郎、猿之助、歌右衛門、他にも森鴎外、徳田秋声、谷崎潤一郎等も集まったことを夏目漱石が書き残している。
■チェンライの珈琲ハウス
チェンライの珈琲花園にもカフェ・プランタンや銀座裏通りのカフェ・パウリスタほどではないが、チェンライの自称文化人が集まる。珈琲の味もさることながら、やはり店主のMさんとお話したいという理由もあろう。銀座のバーのママと同じで、絶世の美人である必要はないが、女主人がきっぷがよくて、頭の回転が速く、話していて楽しいということが流行る喫茶店の条件だと思う。
タイの新聞も読めず、テレビも理解できない自分にとって、タイ人の口コミ情報や村の生活で体得したタイ人の思考方法を伝授してくれるMさんは貴重な存在だ。珈琲花園は、限られた人の間での貴重な情報交換の場という意味で、17世紀に盛んだったヨーロッパの珈琲ハウスに限りなく近いのではないだろうか。
現在の珈琲花園 雨の日と晴れの日の眺め