チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

チェンライの珈琲

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チェンライの珈琲

旅行中につき2009年に書いた原稿に小見出しをつけ、加筆訂正の上、再録させて頂きます。

■珈琲の始まり
珈琲の起源については二つの説が伝承として伝えられている。
1. エチオピアのカルディという名前のヤギ飼いの少年が、山中で珈琲豆を食べたヤギが興奮状態になることに気づいたことから発見したという説。
2. オマルという名前のイスラム神秘主義の修道者が、追放されて迷い込んだ山中で鳥に導かれて見つけたという説。
ただしこれらは後世に考えられたという説もあり、その実際の起源は明らかではない。しかしながら、紀元前には既にエチオピアでは珈琲の実を潰して丸めて携帯食としていたとも伝えられている。これらはいずれも実を食用とするものであった。

初期には、このような食用の他に生の実や豆の煮汁として飲まれていたと伝えられている。いつ頃から今日のように焙煎した豆を用いるようになったかは不明であるが、焙煎器具が発掘された年代から、遅くとも紀元前13世紀には焙煎が行われていたと考えられている。珈琲は、6世紀から8世紀頃にエチオピアからアラビア半島のアラブ人に伝わり、彼らを通して中東・イスラム世界の全域に広まった。珈琲には覚醒作用があるところから、長時間コーランを誦修するイスラム僧に愛飲された。

■珈琲ハウスの出現
16~17世紀にかけて、ヨーロッパに珈琲が伝わる。1554年にはイスタンブールに、1683年にはベニスに、それぞれ珈琲ハウスがオープンした。このような珈琲人気を受けて、1650年にはロンドンでも最初の珈琲ハウスが誕生した。イギリスには18世紀初頭、8千軒もの珈琲ハウスがあったと伝えられる。ヨーロッパの珈琲ハウスは、知識人、政治家、地元の市民たちが珈琲一杯で議論や会話を楽しむ場所となった。

その後、珈琲ハウス文化はヨーロッパ全土に拡大。ついに植民地だったアメリカにも上陸する。かの「ボストン茶会事件」の策略もアメリカの珈琲ハウスの一つ、“グリーンドラゴン”で練られた。その後、イギリスは紅茶に取って代わられたが、アメリカではいろいろ因縁のある紅茶より珈琲のほうが好まれて、今では世界第一の珈琲消費国となっている。

■珈琲の生産地
やがて世界中で珈琲の人気が高まるにつれ、珈琲豆の需要も増加してきた。17世紀末、オランダ人がジャワ島(インドネシア)で大規模な珈琲栽培を開始。その数十年後にはフランス人が珈琲の挿し木をマルティニク島に持ち込み、そして南アメリカにも珈琲が上陸した。今日、珈琲のプランテーション(栽培地)はアフリカ、東南アジア、アメリカ大陸へと拡大、世界中の珈琲の大半を供給している。珈琲の生産に最も適した緯度は赤道をはさんで北緯23度27分、南緯23度27分の範囲である。産地として有名なブラジル、コロンビア、インドネシアケニアなどはこのベルト地帯に分布している。

実は、タイ王国も珈琲ベルト地帯の一員。珈琲の栽培には年間平均20℃の気温が必要だといわれており、昼夜の気温差も大切だ。タイ北部チェンライ県の山岳地帯は平均標高1000m。朝夕には冷涼な風が吹き抜けて行く。キリマンジャロによく似た気候のチェンライはタイ珈琲の名産地である。

■タイ珈琲は苦戦中
以前、タイ北部の山岳地帯は芥子(阿片)、大麻などの麻薬の栽培地だった。麻薬に代わる換金植物として、珈琲栽培が奨励された。種類はアラビカ種が多い。王室プロジェクトで有名なドイ・トゥン・コーヒーもアラビカ種である。しかし、山の斜面に植えられた珈琲の木から豆を収穫するには人力に頼らざるを得ない。ということはどうしても豆のコストが上がってしまう。珈琲は市況商品であるから、価格は南米の作柄に大きく影響される。南米の珈琲が大豊作となるとタイの珈琲は価格的に太刀打ちできない。日本を始め、各国のNGOが少数山岳民族の生産する珈琲豆の販売に注力している。しかし、本来 タイの珈琲豆に価格競争力があれば、NGOのお世話にならなくてもビジネスになっています、というのが実情だ。

スターバックスでは「少数山岳民族支援のため」と称して、タイのドイ・トゥン・珈琲を年間100トンほど購入しているという。日本にいたとき、たまにスタバの珈琲を飲んでいたから、ブレンドでチェンライ珈琲を味わっていたかもしれない。