チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

タイ日本友好記念館(その4)

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タイ日本友好記念館(その4)

朝、7時半にチェンマイを出発した。通勤ラッシュの市内を抜けるともうほとんど車が走っていない。107号をメーテン手前まで行き、左折して1095線に入る。この道をひたすら西に走ってメーホーソンまで行く。この道は、昔は人間が一人歩けるかどうかの山道であったが日本軍が山を削って4メートル幅に拡張した。これがいわゆる白骨街道、別名、靖国街道と呼ばれた道だ。1990年代のガイドブックにはトラックでなければ通れないと書いてある。そのころはまだ舗装されていなかったから、雨期には道がぬかるんでトラックでも難渋したであろう。90年代半ばから部分的に舗装がされ、現在では完全舗装の2車線道路となっている。

この道路の建設には多くの村人が協力した。以下はチューチャイ氏の著書による。
チェンマイ、ランプーン、ランパーン、チェンライ、プレーの各県からタイ人が、ナタやクワ(それくらいしか道具がなかった)を持って働きに出た。作業と村から建設現場へ行く移動時間に賃金が支払われた。一日約1バーツで、一人大体16日間働いた。現場の往復に4日かかるので賃金は20日分支払われた。一日の労働時間は6時間~8時間だった。賃金の額は、腕の良し悪しで、また現場の難しさによって違った。例えばタイ人の中にもリーダーがいるが、これは2バーツくらい貰った。道路建設のとき日本兵は、タイ人とは仕事だけの付き合いであり、余り話し込んだり、遊んだりすることはなかった。しかしタイ人のほとんどは、休み時間に貰ったお金でバクチをやっていた・・・」

大きな崖や谷があり、その上、山特有の病気もあって、タイ人労働者にも死者が多く出た。メーホーソンに入る手前40キロのドイタンマケンでは1日40-50人のタイ人が死んだという。タイ人にとってもこの道は白骨街道であった。

1095線に入って20キロくらい走ると、道はヘアピンカーブの連続となった。日光いろは坂は登り20、下り30のカーブがあるといわれているが、メーテンからメーホーソンまでのカーブの数は1300以上、ある情報では1864のカーブがあるという。とにかくほとんど直線道路がないのだ。高度差は1300メートル以上、これを上り下りする。カーブを一曲がりして下を見ると2階から見下ろすほどの高低差がある。下りに入ったと思うとまた上り、と何処が峠に当たるのか判らない。
「この道をみんな敗走して行ったんだね。可哀想だなあ」と同行のSさんがつぶやく。

インパール作戦は日本の敗色が濃厚となってきた昭和19年3月に始まった。インドのインパールに進攻し、連合国軍が蒋介石の国民党軍に物資を運ぶいわゆる「援蒋ルート」を遮断し、インド独立を支援するものだった。川幅600メートルのチンドウィン河を渡河し、その上で標高2千メートル旧の山々の連なる、急峻なアラカン山系のジャングルを長距離進撃しなければならない。だが、この作戦に動員された兵士は3週間分の食料、弾薬を持たされただけだった。補給計画は「敵の弾薬、食料を取って戦え」というひどいものだった。作戦中止の命令が出る6月まで、制空権を持つ米、英、印軍との熾烈な戦いを強いられた。動員日本将兵10万人中、戦死3万人、戦病死4万2千人、ガダルカナルと共に日本陸軍が大敗北を喫した作戦であった。

潰走せざるを得なかった日本軍であったが、その戦いぶりは連合国軍をして瞠目させるものがあった。インパール作戦のノンフィクション、「コヒマ」を書いたアーサー・スウィンソンは、日本の読者へと題して次のように書いている。

「日本の読者はすでにご存じのように、コヒマは、貴国の陸軍が敗れた激烈な戦闘である。しかし、著者は、日本の読者がかつての敵軍もさることながら日本軍の将校、連隊将校、兵士たちに対して寛大な気持ちをもって、この記録を読まれることを希望する。戦史を通じて、彼らがその守備に見せたほどの優秀な戦術と勇気はほとんど前例がないのである。彼らは四六時中、飢餓と疫病と砲撃に苦しみながら、しかもなお諦めなかった。わが偉大な司令官、スリム元帥は『かかる戦況で陣地を死守できたのは日本軍をおいてほかにない』と書いている。この敗北は日本軍の恥辱となるものではなかった。いや、日本軍の勇気と忍耐力とは誇るに足るものであった」。
またグルカ隊隊長 D・ホースフォード中佐は言う。「日本兵は第一級の兵士であった。砲撃をやめると、半堀壕から飛び出してきて防戦をいつまでも続けた」。

道路建設も戦闘も本分を守り、誠実にやりとげた。この日本人の特性とも言える「誠実さ」がタイ人や連合国兵士に評価されたのではないか。(続く)



写真はチェンセンの古寺、ワットチェデルワン。