チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

タイ日本友好記念館(その3)

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タイ日本友好記念館(その3)

タイは英米に宣戦布告して共に戦ったが、日本の敗戦後はどうなったのか。タイの歴史教科書では開戦から終戦の動きを次のように述べている。(仏歴は西暦に直した。教科書だから非常に読みにくい。お許しを乞う)

「1941年12月8日日本は、ハワイ諸島アメリカ海軍基地である真珠湾を襲った。同時にフィリピン群島、シンガポール、マラヤにも電撃戦で進軍し攻撃した。日本がタイに派兵する前日、駐タイ大使は、英領(ビルマ、マラヤ)進攻のために、日本軍のタイ国領土内通過を要求した。翌朝、すなわち1941年12月8日、日本軍部隊はタイ国内の数地点に上陸した。プラチュアプキーリーカーン、ナコーンシータマラート、そしてソンクラーのタイ軍は、強力な日本軍に抵抗し闘った。

 そのころタイ政府はイギリス政府と連絡をとっていた。イギリス政府は、タイが自衛手段に訴えてもかまわないと返答した。ピブン・ソンクラーム陸軍元帥率いるタイ政府は、タイが日本軍に抵抗しうるかを検討した。そして軍事力が十分でないことから、政府は日本軍のタイ国内通過と、日本との秘密条約調印を承認した。1941年12月21日のことである。

 タイは日本と同盟条約を結び、アメリカ、イギリスとの戦争において日本を支援することとした。日本は失われたタイ国領土を、イギリスから取り戻すのを支援した。そこでイギリスとアメリカはタイ領土を大きな規模で空襲した。1942年1月25日、タイはイギリスとアメリカに対して宣戦布告し、枢軸国の盟友として第2次世界大戦に参加することになった。

 タイ人の多くは日本がタイを占領し通過地とすることに不満を感じていた。タイ人のグループの中には、連合国に反政府派であることを表明し、連合国側に明白に認識させる者もいた。セーニー・プラモート駐米大使はその一例である。彼はアメリカ政府に対して、タイはやむをえず連合国側に宣戦布告したが、連合国との協力により自由タイ運動の手はずを整えている、と説明した。アメリカ国内の自由タイ運動は、アメリカ政府の支援を得て順調に事を運んでいた。

 イギリス国内では、スパサワットウォンサニット・サワディワット親王が自由タイ運動の指導者となった。在英タイ人留学生の大部分は運動に参加し、イギリス政府の援助を受けた。同じころ、アーナンタ・マヒドーン王の名代であるプリーディー・パノムヨン摂政は、タイ国内に坑日地下部隊を組織した。そしてアメリカやイギリスの自由タイ運動と連絡をとり、さまざまな行動を起こした。たとえば、日本の兵力や動向に関する情報を連合国側に提供したり、日本軍に収容されている連合軍捕虜を助けたり、日本軍駐屯地を攻撃したりした。

 日本軍が敗北を認めたとき、プリーディー・パノムヨン摂政は1945年8月16日に、国会の同意に基づき1942年1月25日の対米宣戦布告は無効であると宣言した。また日本がタイに譲渡した英領マラヤやビルマ(マラヤ4州およびビルマのシャン州)を欲したわけではないと弁明し、同時にタイはイギリスにそれらの領土を返還することを申し出た。アメリカ政府は、タイの対米宣戦布告が無効であることを即時に認めた。そのためタイは会談を行い、講話条約に調印する必要はなくなった。こうしてタイは対米宣戦布告の責任から逃れた・・・。」[Prawattisat thai 2(社会科・タイの歴史2;中等3年).1980年.文部省版]

日本の敗色が見えると抗日活動を始め、米英への宣戦布告は日本に脅迫されたものだったので無効と宣言、これでタイは敗戦国にならずにすんだ。

日本が敗れたとき、同盟国タイにも英印軍、オランダ軍、豪州軍が進駐してきた。連合軍は、戦争犯罪人を裁くと主張したが、タイは自国ですると主張し、対英米の宣戦布告を行なったピブン元首相以下10名を逮捕して裁判にかけたが、その後、容疑者全員を釈放している。驚くべき事に、戦犯として逮捕されたピブン首相は、すぐに釈放され、戦後また首相に返り咲いている。そして反共親米政権を作った。

日本でいえば東條首相や近衛文麿元首相が、戦後、すぐに釈放され、また首相に復帰して、米国と共にソ連に対峙したというに匹敵する。もちろん、タイの王制はびくともしなかった。
小国とはいえ、いや小国だから可能だった国の舵取りかもしれないが、タイのしたたかな外交に学ぶところは多いと、個人的には思う。(続く)

画像は市場で見かけるごく普通の「カエルの空焼き」、いつも売っています。