チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

熟年ライダー(4)

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熟年ライダー(4)

■日本とタイは戦った
先の大戦において日本とタイは日泰攻守同盟条約を結び、連合国と戦ったことはよく知られている。戦前、アジアの独立国は日本とタイのみであった。タイは同じアジア人として日本の政策にはおおむね好意的で、満州事変後のリットン調査団の報告によって、国際連盟における満州国の合否判断の際も投票を棄権し、満州国も国家として承認してきた。また、ピブーン首相による独裁体制が固められ、1940年に仏領インドシナに日本軍が進駐すると、かつてフランスに奪われた領土を奪還すべく出兵、駐留フランス軍と紛争となった。翌年に日本軍の介入で講和が成立し、これによってタイは旧領土のほとんどを回復できたため、日本への協力姿勢を強めた。

1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開始と同時に、日本軍はタイ南部へ奇襲上陸した。当時、タイは第二次世界大戦に関して中立を宣言していたが、日本はタイを同盟国とすることと、タイ領を経由してイギリス領マレーに侵攻することを意図していた。日本の計画ではすぐにピブーン政権から進駐同意を得るはずであったが、実際には同意獲得までにしばらく時間がかかってしまった。交渉の間に、少年兵による義勇軍を含むタイ軍及び警察と日本軍との間で戦闘となり、双方で数百人が死傷した。

日本とタイとの戦闘が行われた場所の一つが、プラチュアップキーリーカンである。帝国陸軍歩兵第143聯隊の宇野支隊が12月8日午前3時にプラチュアップに上陸し、警察の抵抗を抑え市街を制圧した。
日本軍はさらに航空基地近くに上陸し包囲したのに対し、空軍パイロットと警察が共闘して何とか翌日の正午までは持ちこたえたもののタイ政府から戦闘を中止するようにとの通達を受けたため降伏した。死者は日本側の発表によれば115人で、タイ側の発表によると217~300超だという。

第二次世界大戦歴史公園
プラチュアップには今もタイ空軍・第5航空団基地がある。市内から南のマナオビーチに行くには空軍基地の中の滑走路を横切ることになる。滑走路の両側には線路の踏切のように歩哨が立っている。軍用機の離発着の際は交通を遮断するのだろうが、滑走路を自転車やバイクが横切っていく風景は何とも長閑である。市内からマナオビーチ方面に行き、滑走路を過ぎて左側、シャム湾に向かうと基地入口がある。基地内にはホテル、ゴルフ場、航空博物館があり、広大な海浜公園となっている。基地入口で兵士にパスポートを預け、代わりに首からかける入館証を受け取る。基地内にはそのままオートバイで乗り入れることができた。基地の中には兵営があり、訓練中の兵士が見えた。基地内の滑走路を横切って海沿いに進むと、湾に面した芝生の広場がある。ここが第二次世界大戦歴史公園である。
まず、高さ3m、横10mほどの石浮き彫り絵が目につく。タイ語、英語そして日本語で以下の説明文がある。

「この第5航空団歴史庭園における石浮き彫り絵は、仏暦84年(西暦1941年)12月8日の英雄の勇敢な行為を思い出すために、60トンの緑砂石を用いて作られたものである。表の絵には、日本軍による上陸との対戦を表す。裏の絵には、停戦条約の締結を表す」

表側には進軍する日本軍に果敢に立ち向かうタイ軍兵士が描かれ、兵士の後方にはタイ民衆の姿がある。裏側には両軍の代表が握手する図が中央にあり、停戦を喜ぶ民衆が彫られている。

■英雄の塔
石浮き彫り絵から海を臨む方向に、兵士がタイ国旗を掲げて突き進む「1941年12月8日の英雄の塔」がある。ここにも3か国語の説明がある。ちとおかしいが日本文をそのまま転記する。

「英雄の塔。仏暦84年(西暦1941年)12月8日の英雄の塔は、第2次世界大戦に参戦したタイ王国空軍の勇敢な戦いを尽くした栄巻を持ち上げるためにつくられた塔である」。

但し、 英語では「日本軍に対して勇敢に戦ったタイ空軍兵士の勝利を記念するために建立された云々 (the statue was built to commemorate victory of The Royal Thai Air Force soldiers who fought bravely against Japanese troops during World War 供ΑΑΑ法廚判颪れている。3棟あるという博物館は1つしか開館していなかったが、展示の主眼は、如何にタイ軍兵士が日本帝国陸軍に対し勇敢に戦ったか、に置かれている。

タイは日本の数少ない友好国であったから日本軍の無害通行を認めるにやぶさかではなかった。開戦当日、ピブーン首相の行方がつかめず、更にプラチュアップでは通信機の故障で停戦命令伝達が遅れたと言われている。日本も12月8日に英米に宣戦布告するので、と前もって交渉できるはずもなかった。日タイの交戦は些細な行き違いによる不幸な偶発的事件と言えるだろう。


写真は石浮き彫り絵、進軍する日本軍、講和の様子、英雄の塔と説明銘板