チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

プレー旅行(3)

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プレー旅行(3)

■宣戦布告から無効宣言まで
1941年12月8日に日本軍はタイ領の通過を求めて、南タイに侵攻した。小規模戦闘があったが、同11日にはタイ王国政府により領土通過が許可され、『日本国軍隊のタイ国領域通過に関する協定』が締結された。これはタイに戦争協力を求める一方で、タイが英・仏に割譲した領土の回復に協力するとの旨が書かれていた。このためタイ政府は日本に協力的であった。12月21日には日泰攻守同盟条約が締結され、翌年の1942年1月25日には、タイは米英に対して正式に宣戦布告した。これでタイは事実上枢軸国となった。

しかしこの布告文書には摂政のプリーディー・パノムヨンが署名していなかった。国王がスイスにいたため3人の王族が摂政となっていたが、1人署名しなかった経緯として、タイ政府の中に英米に追従すべきという勢力と、マレー沖で瞬時にプリンスオブウェールズ、レパルスを撃沈し、破竹の勢いでマレー半島を南下している日本と共に戦おうという勢力が拮抗していたからといわれる。

駐英タイ大使は英国政府に宣戦布告をすぐ伝達したが、駐米タイ大使セーニー・プラーモートはアメリカへの宣戦布告伝達を拒否し、自由タイ運動と呼ばれる抗日グループを組織した。自由タイ運動に呼応した留学生の内21名は、CIAの前身である戦略諜報局(Office of Strategic Services OSS)に入隊し、タイ国内における諜報活動等の準備を進めた。OSSにおいて彼らは地下活動の訓練を受けた後、タイ国内に潜入し、終戦時には5万人以上のレジスタンスを組織するまでにいたった。タイには戦争中も米国大使が駐在していて、自由タイに武器を供与し、軍事訓練を援助していた。絹製品で名高いジム・トンプソンはOSSバンコク支局長として終戦前のバンコクに赴任している。

1945年8月16日、タイ政府は文書上の瑕疵があったとして宣戦布告の無効を宣言した。国際社会はこのような言い訳を認めなかったが、自由タイの抗日活動を指導してきた米国はタイ政府の声明を8月20日に受け入れた。

■セーリータイ博物館
モーホームの専門店が並ぶテッサバン通りを1キロほど市内に向かい、ワット・チョム・サワンの先を左に折れた先の右手にパラドーンホテルがあった。奥まったホテル駐車場の片隅にセーリータイ博物館はあった。こじんまりした建物の前に3人の立像があった。プレーにおける自由タイ運動のリーダーで兄弟のようだ。電気はついていなかったがドアが開いたので中に入った。英語とタイ語で自由タイ運動の経緯が書いてある。米国指導によるレジスタンス活動であったが、諜報活動や日本軍の物資調達妨害程度で、日本軍との軍事衝突はなかったようだ。

タイ国内での連合国、日本軍の軍事衝突必至とみて、米国は1945年の11月頃に自由タイの軍事蜂起を計画していた。ベトナム戦争ではCIAがラオスのモン族を訓練してベトコンと戦わせた。モン族の戦死者は20万人、米軍の戦死者はその4分の1くらい。インディアン同士を戦わせたように白人は有色人同士を戦わせる。日本とタイが戦火を交えなくて本当に良かった。

英文パネルにはタイが米英に宣戦布告した事実と共に、タイが日本に占領された(occupaied)、と書かれていた。タイは日本軍と共にビルマ・サルウィン川以東地域へ侵攻した同盟国で、日本は駐留させてもらっていたがタイを占領したことはない。なお、タイ外征軍の一部はチェンライに駐屯していたそうだ。
恐らく英文はタイ人が書いたものではないだろう。カンチャナブリの戦争博物館の英文パネルにも言えるが、この手のパネルには白人の底意地の悪さを感じることが多い。

■タイ植民地化を目論んだ英国
戦後、英国はタイ全土を植民地とすべく軍隊を送り込んだ、とパネルにあった。戦後、ソ連が北海道を火事場泥棒的に占領しようとしたがそれと同じことを英国はやろうとした。だが自由タイ運動の貢献を評価した米国の計らいでその野望から辛くも免れたという。戦前、タイはスズ、チーク材という米と並んで重要な輸出品目をイギリス商人に独占させており、中央銀行の代わりにイングランド銀行がタイ経済を牛耳っていた。英国はある意味でタイを植民地化していたといえる。戦前の関係に戻すだけ、と英国は考えたのだろう。

プレーのワット・チョム・サワンはビルマ様式の寺だ。またランパーンにもビルマ様式の寺がある。19世紀にビルマ商人が建立したというが、彼らの後ろには宗主国の英国がいてタイ経済を侵蝕していた。ビルマ様式の寺には英国の野望が隠れていたというべきか。タイ王国の独立は薄氷の上に存在していたと言える。(続く)



写真はセーリータイ博物館前とパネルの一部、駐米タイ大使セーニー・プラーモート、戦後タイの首相を務めた、ワット・チョム・サワン内部、床、柱はチーク材