チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

プレーの旅(5)

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プレーの旅(5)

■原爆の模型
セーリータイ博物館の一番奥の展示スペースにリトルボーイとファットマンの実物模型があった。リトルボーイは広島に投下されたウラン235型の原子爆弾、ファットマンは長崎に落とされたプルトニウム型の原子爆弾だ。
どうしてレジスタンスと原爆が関係あるのか。それは模型の横にある広島への原爆投下に関するトルーマン大統領の声明コピーにヒントがある。

「世界は、最初の原爆が軍事基地である広島に投下されたことに注目するでしょう。それは、われわれがこの最初の攻撃において、民間人の殺戮をできるだけ避けたかったからです。もし日本が降伏しないならば、爆弾は日本の軍需工業施設に投下されなければならなくなるでしょう。そうなれば、不幸にして、多数の民間人の生命が失われるでしょう。
 原爆を獲得したので、われわれはそれを使用しました。われわれは、パール・ハーバーにおいて無警告でわれわれを攻撃したものたち、アメリカの捕虜を餓死させ、殴打し、処刑したものたちに対して、戦争の国際法に従うすべての虚飾をもかなぐり捨てたものたちに対して、原子爆弾を使用したのです。戦争の苦痛の期間を短くするために、若いアメリカ人の多数の生命を救うために、それを使用したのです。」

原爆の投下により日本が降伏した、戦争を早く終わらせるためには仕方なかった・・・・。説明はこれに尽きる。

 しかし、広島は軍事基地だったか。20万人の爆死者のほとんどはは軍人ではなく非武装の民間人ではなかったか。それに原爆の威力を示すためだったら、長崎への原爆投下は必要なかった。
原爆の開発を担当したロスアラモス研究所の公式記録には、「 史上二度の原爆実験に成功した」と書かれている。もう戦闘能力をほぼ失い、ポツダム宣言を受諾するばかりの日本に種類の違う原爆を投下したのは「実験」だったからだ。決して早く戦争を終わらせるためではない。報復能力を持たない日本に対して安心して2つの原爆を使用したのは、領土拡張を狙うソ連を牽制するためであった。

こんな小さな博物館で原爆投下の言訳をしているということは、設立に助言したであろう白人にうしろめたさ、といった感情があったからではないか、と思った。

中村中
リトルボーイ、ファットマンの模型を睨むように対面の壁にタイ駐屯軍司令官、中村明人陸軍中将の写真コピーとタイ語の説明文があった。ジアップ先生に解読して貰ったところ、「やたら褒めているわよー」とのこと。

昭和18年中村中将がタイに赴任する。当時、戦局の悪化によるタイの動揺や、バーンポーン事件(タイの僧侶が連合軍兵士の捕虜に勝手にタバコを恵んでいたため、誤解した日本軍兵士が殴ってしまったことから起こったタイ警察と日本軍小隊の銃撃戦)などの異国ゆえの習慣の違いから起こった事件により、日タイの関係が悪化しつつあった。ホトケの中村とよばれた中将は問題を円満に解決すると共に、「僧を敬う、やたらと裸にならない、子供の頭をなでてはいけない…」といった「タイべからず集」を兵に配布し、日タイの融和に努めた。
戦争末期に日本に協力的だったピブン首相率いる内閣の総辞職により、抗日組織である『自由タイ』が不穏な動きを見せた。それを察知した際は、武装解除させ軍政を敷くべきという日本軍部内の強硬派の意見に「自由タイは戦局を左右するものではない」「長い目で日タイ関係を見ると相互に戦争や占領という汚点は残すべきでない」として強硬派をなだめた。
このお陰で、中村中将が司令官を務めていた終戦までの間、日タイ間で流血事件が起こることは無く、この中村将軍の判断は、戦後においてもタイで高く評価された。昭和30年にタイの政府要人に中村中将らは招待されたが、中村中将はタイ国民から「まるで竜宮城にいった浦島太郎のような思いだ」と語ったほどの大歓迎を受けたという。

■コボリのモデル
日本人将校と情熱的なタイ娘との悲恋を描いた小説「メナムの残照」は何度も映画化、テレビドラマ化され、日本軍人コボリの名を知らないタイ人はいないと言われる。原作者トムヤンティは父から中村中将の話を聞き、自分の理想の男のイメージを重ね合わせて「コボリ」を作り上げたという。2人の関係をそのまま国家間関係に当てはめ、タイに誠実に尽くそうとする日本と、戸惑いながらも日本に心惹かれるタイという構図で捉える人も多いとのこと。

また「コボリ」の実直さと誠実さが日本人のイメージと結びつき、戦後の対日感情をより良い方向に変えたとも言われている。タイ在住の邦人男性は中村中将に感謝すべきかもしれない。(続く)



写真は原爆模型と広島、中村中将、「メナムの残照」映画ポスターから