チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

遊就館のパンフレットから

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遊就館のパンフレットから

■チェンライにも駐屯していた
先日、メチャンの知人宅を訪れた。メチャンはチェンライから40キロほど1号線を北上した地点にある。ここでいくつかの街道が交錯するので、昔から少数民族同士の交易で賑わう街である。

さて、知人宅は1号線を少し東に入った道路沿いにある。道を挟んで向かい側には古いお寺がある。知人の奥さんのお婆さんの話だとこの寺には日本兵が何十人か宿営していたという。それほど大きな寺ではないので部隊はこのあたりの寺や民家に分営していたのだろう。お婆さんや村の古老の話によると、兵隊さんはみんないい人だった、農作業なども手伝ってくれた、そしてある日、みなビルマ国境へ進軍していって帰ってこなかったという。

自分はインパール作戦チェンマイが本拠地でチェンライには日本軍は駐屯していないと思っていたが、そうではなかったようだ。それにしても村人が日本将兵によい思い出を持っていると聞いて嬉しく思った。もし、日本将兵が中国が言うような乱暴、狼藉を働いていたならば、お婆さんは孫娘と知人の結婚を、村人も知人の居住を許さなかったに違いない。

■パンフから
一時帰国するたびに九段の靖国神社に詣でる。遊就館で頂いた「インパール作戦とインドの独立」というパンフレットに書かれた作戦の意義をご紹介したい。

(引用開始)
昭和16年12月8日、日本は米英に対し宣戦布告し、大東亜戦争に突入した。開戦初期、日本はハワイ真珠湾、マレー、シンガポール作戦島で戦果を挙げたが、昭和17年ミッドウェー海戦において、航空母艦の大半を失い、その後仙境は逆転の様相を呈してきた。
その時、イギリスの植民地支配からの独立を願い、チャンドラ・ボースが日本に支援を要請してきた。日本はインド国内の反イギリス独立勢力の支援と、混迷する戦局の打開を計るべく、第33師団「弓」、第15師団「祭」そして第31師団「烈」の3個師団によりインド国内の要衝インパールの奪取を目指した。作戦はこの3個師団の他に、チャンドラ・ボース統率下のインド人志願兵1万5千人からなるインド国民軍(INA)も勇躍参加した。

3月から始まった作戦は、河幅600mに及ぶチンドウィン河の奇襲渡河、そして2000mのアラカン山脈の峻険を越えるという最初の難関を克服し、「弓」の進軍にあわせ、「祭」の挺身隊はミッションを占領、インパールコヒマ道を遮断、更に「烈」もコヒマを占領し、コヒマ、モイランそしてインパール周辺にまで日本軍は進出した.
インド国民軍も「烈」と「弓」の両兵団と行動を共にして、コヒマとモイランに進出。遂に念願のインドの3色旗をインド国領土に翻したのである。

しかしイギリス軍の抵抗は極めて頑強で、戦線は膠着、更に空輸により潤沢な補給を行い、反攻を加えてきた。日本軍は食料、弾薬ともに途絶し、その消耗が極限に達した雨季の6月、ついに撤退を余儀なくされた。連日の豪雨の中の惨憺たる撤退は日本軍に多くの戦死、戦病死者を出すことになった。

戦後イギリスは「インパール作戦に参加したインド国民軍は、イギリスに対する反逆者」として、3名の将校を極刑に処そうとしたが、このことがインド民衆の怒りに火をつけた。抗議運動はインド全土に広がり、いたるところで官憲と衝突、流血の惨事となった。特にイギリス海軍所属のインド人乗組員の一斉反乱が与えた影響は大きく、遂にイギリスも事態収拾困難と考え、統治権を譲渡、相当の年月がかかるであろうと言われていたインドの独立は、パキスタンとともに戦後わずか2年後の昭和22年8月15日に達成されたのである。(引用終り)

■決して忘れない
パンフにはインパール作戦に参加した日本軍は、約78,000人、インド国民軍、約15,000人、そして戦没者数は日本軍は、約48,000人、インド国民軍、約3000人と記されている。国民軍の戦没者が少ないのは日本軍が彼らをできるだけ前線に出さないようにしたからという。

インド国民軍ヤタバ大尉の書簡も掲載されている。

我々インド国民軍将兵は、インドを解放するために共に戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対し、最も深甚なる敬意を表します。インド国民は大義のために生命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代に至るまで決して忘れません。我々はこの勇士達の霊を慰め、ご冥福をお祈り申し上げます。

インド最高裁のP・N・Lekhi氏は言う。

太陽の光がこの地上を照らすかぎり、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本への恩を決して忘れない。

インパール作戦には種々批判はあるが、こういった評価があることも記憶にとどめておきたい。


写真は靖国神社遊就館、入場券、パンフ、パンフの内容から