最後の巡業
昨年11月にウズベク各地のバンク・カレッジ5ヶ所を講演して回った。フェルガナにも行く予定であったが当日の飛行機が5時間遅れたため、中止せざるを得なかった。フェルガナはJICAの旅行禁止区域となっており、業務上の必要性がない限り、旅行できない。行ってはいけないと言われると行きたくなるののが人情。再度、カレッジの学長からの依頼状をJICAに提出し、フェルガナ・バンク・カレッジでの出張講演の許可をもらった。
フェルガナはタシケントから東へ300キロ、北を天山、南をパミール高原に挟まれた大盆地の一角に位置している。この盆地は大昔、大隕石が中央アジアに落ちた時にできたと言われている。フェルガナ盆地は昔から豊穣の地で良馬を産することで知られていた。紀元前2世紀、前漢の武帝の時代に、西域への大旅行をした張騫の報告により、大宛国(フェルガナ)に汗血馬という名馬が産することを知った武帝は、外交交渉でこれを手に入れようとしたが、決裂したので遠征軍を送り、これを得た。
フェルガナはカシュガルから中央アジアへ抜ける要衝の地でアーリア系、テュルク系、アラブ系、ウズベク系と様々な民族の抗争の舞台となった。西遼、モンゴル軍もこの地を通過した。チムールの玄孫でムガール帝国の開祖となったバーブルはフェルガナ出身である。フェルガナ地方は精強かつ忠誠心の強い兵士の供給地として知られ、ティムール軍の右翼を固める兵士はすべてフェルガナ出身者で構成されていたと言われる。
フェルガナに居住する人々はサルト人と言われるが、ウズベク系、タジク系、それに20ほどの少数民族からなる。ウズベク国内では比較的人口密度が高く、工業地帯でもある。2005年に起きた反政府暴動、アンディジャン事件の起きたアンディジャンはこの地方にある。いまだ、反政府運動の火種が完全に消えたとは言えず、その危険回避のためJICA関係者の自由旅行が認められていない。
さて、タシケントを朝7時45分に飛び立った24人乗りジェットAN24は1時間ほどでフェルガナ空港に着いた。
空港と外部を隔てる金網のところでアリシェル学長が出迎えてくれた。空港からカレッジまでは車で15分くらいである。フェルガナは小タシケントと呼ばれており、ソ連時代の都市計画の影響が残っている。道路の両側には2抱えもある大木が連なっている。静かで落ち着いた緑の多い町だ。盆地であるので山からの水がふんだんに流れている。標高は約700メートル、気候はタシケントより冬は寒いものの、その分、夏は涼しいとのこと。
カレッジに着いてみると、空色の軍服のような制服を着た男女生徒が校門から校舎入り口まで3メートルおきに整列している。我々を出迎えるためだ。まるで兵隊さんの栄誉礼を受けているようで気恥ずかしい。フェルガナ・バンク・カレッジは財政、銀行など4学部からなり、生徒数2170名、教員数140名である。卒業生の37%が大学へ進学し、残りは就職、兵役など。ここでも就職率がいいのでバンクカレッジの人気が高いようだ。
学長室でとりあえずお茶のご接待を受ける。以前は緊張して、講演前は食べ物が喉を通らなかったが、巡業も6校目ともなると、余裕ができ、学校の特徴や地域との関わりなどを聞きながらフェルガナ特産のクリームをパンに塗って食べる。講堂には興味津々の生徒、教師、合わせて350名がびっしりと座っている。
悲惨な敗戦後の窮乏の中から、日本が多くの国々の助けによって復興し、世界第二の経済国となった。今、日本はその恩に報いようと援助活動を行っている、とJICAの活動を簡単に紹介したあと、起業家に求められる経営基本能力について説明を始める。ティムール大王の情報収集、戦闘配置とベンチャーの共通性、また会場がだれて来たと見ると、紙を配布してパズルを解かせるなど、いつもよりテンポよく進む。
質問コーナーでは日本の若者と比べ、ウズベクの若者はどうですか、日本では老人は尊敬されていますか、といった質問が次々に出る。「日本人としてこう言わなければならないのは大変残念ですが、ウズベクの方が老人を大切にしていると思います」という答えに会場は拍手と歓声に包まれる。学長が質問を打ち切らなかったら、あと30分は続いたであろう。学長の締めの挨拶が終わると、自分とナフォサットにカーネーションの花束が女子生徒から贈呈された。嬉しくもあり、恥ずかしい。
学部長からは、いつもすぐ騒ぎ出す生徒たちが静かに聞き入っているのにびっくりした、との講評を受けた。講演後、学長から案内してもらった市内の名所、旧跡のことを書くつもりだったが、冗長になるのでこれで。
来週3月26日にウズベキスタンを旅立ちます。それまで「ウズベクのバザールから」をよろしく。