チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

地方巡業 12

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地方巡業(まとめ)
トゥルクール、ウルゲンチ、ブハラ(画像)、サマルカンド、テルメズと5ヶ所のバンク・カレッジを回って講演を行った。フェルガナはフライトの出発時間が5時間も遅れたため、キャンセルを余儀なくされ、次の機会ということになった。

各カレッジを回って感じたのは同じような年代の生徒でありながら、第一印象から、講演に対する反応まで皆違うことであった。これは各カレッジでお目にかかった学長のパーソナリティに関係するところが大きい。この国では各組織のトップにすべての決定権がある。、例えば、学校でテレビを購入する場合、銘柄、機種はもちろん色まで学長に決めてもらうシステムとなっている、下手に自分で決めて後で責任を追及されたら困る、というソ連官僚主義が組織に浸透しているのだ。だから、学長の性格が自由奔放なカレッジだと、生徒は明るく積極的だ。逆に学長が官僚的で管理指向のカレッジだと、生徒は何となくおとなしい。

まあそれでも皆ハイティーンだから始めの緊張が解けるとあとは、好奇心丸出しに珍しい外人に向かってくる。お互いざっくばらんというか、ホンネでで向かい合っているなと思えるときだ。何か質問を、というと、どうしてウズベクに来たのですか、ウズベクを来る前にどれだけこの国を知っていたのですか、この国に暮らしてどうですか、この学校の生徒をどう思いますか、と次々に質問が飛んでくる。

思いもかけない質問に対しても、瞬間芸で何か答えなければならない。口ごもったり、考え込んだりすると生徒を落胆させてしまう。知識より反射神経が試されているようなものだ。また答えは人によって違うのだろうが、自分としては舌足らずだったり、余りにも形式的であったりという反省がある。

例えば、経済発展と伝統の関係をどう捉えるべきか、というかなり高度な質問があった。そのとき、文芸春秋(確か2007年11月号)にお茶の水大学の藤原行彦教授が、戦後の日本が拝金主義に陥り、如何に美しき過去の伝統を失ってしまったか、といった内容のエッセイを読んだばかりだった。だから藤原論理にそって経済発展は麗しき伝統を破壊する可能性大、と答えようかと思ったが、まだウズベクは先進国ではない。

自分の答えは、経済発展と伝統の維持は共存しうるものです。例えば日本には古来より、勤勉、正直、信頼、公正、正義、誠実といった徳義を重んじる伝統があります。これはイスラムの教えにも出てくるものです。逆にこういった徳義が尊重されたからこそ経済の発展があったともいえるでしょう、といった面白くもなんともない官僚的なものだった。

ディプロマティック、という言葉があるが、自分はSVとしてではあるがこの国ではお客さんである。お客にはお客の守るべきルールがある。人の家に行った時、天才バガボンの息子のような子が出てきても、まあ可愛いお坊ちゃんで、将来がお楽しみでしょう、というようなものだ。だからどの学校でも出た質問、この学校の生徒をどう思いますか、に対しては、通訳のナフォサットが下を向いて笑うくらい、各校で同じリップサービスを繰り返したものだ。

ウズベクでの業務出張は初めてであり、多くの人と触れ合えたことは、ウズベクを理解するうえで有益だったと思う。本やネットで知るのと、実際に足を運んでそこの空気、臭い、風のそよぎ、人の様子、しゃべり方、あらゆることを自分の眼、耳、鼻、皮膚で感じるのとでは感動は数倍も違う。

この「ウズベクのバザールから」を読んで下さっている方は、ネットや伝聞情報をもとにして書いたレポートと実際に自分が経験したことを書いたレポートでは全く印象が違うことに気付かれるだろう。現場主義、刑事や新聞記者の経験はないが、やはり実際に自分の眼、、耳で見聞きすることがまず物事を知る基本だと思う。

ウルゲンチの空港で現金輸送を頼まれたことで、この国の金融システムについていろいろ考えることができたし、バンク・カレッジが金融機関と契約を結んでいて、景気に左右されず、一定の数の卒業生を金融機関に送り込める仕組みになっているということから、まだ計画経済の範疇を越えられないシステムであること等を感じた。

ともあれ、地方巡業は刺激的な体験であったが、変な外人が変なことを言っていたというので、生徒さんには大変ウケが良かったようだ。いくつかのカレッジの学長から定期的に講演会を開催して欲しいとの依頼も受けた。ああ、そういう内容の講演でしたら、SVでXXさんという人がいますから、JICAに講演依頼のレターを書けばいいでしょう、などと仲間を売り込んだりした。これはSVの活躍の場を広げるだけでなく、広く日本や日本人をウズベクの若い人に知ってもらういい機会になると信じているからである。
(地方巡業の項、終わり)