ウズベク会でトーク
ウズベク会という会合がある。原則月一回、日本センター(写真)のセミナー室で、在ウの日本人が講師となり、1時間弱話をして後は質疑応答を行うというものである。すでに20回以上開かれている。日本にいたら聞くことができないような専門的な話、あるいは興味深い経験談をその道のエキスパートから聞くことができる。そのいくつかは本メールでも「国際人のマナー」、「法支援整備の苦悩」などでご紹介したことがある。
世話人のIさんからウズベク会で話を、という依頼があった。まだこちらへ来て7ヶ月ほどの新参者が、という気もあったが、この国に来て考えていること、やっていることを皆さんに聞いていただき、誤解していることを先輩諸氏にご指摘頂ければ、と考え直してお引き受けすることにした。誤解といえば「恋愛は美しき誤解、結婚は惨憺たる理解」という。自分のウズベクに対する惨憺たる誤解が美しい理解にいたるチャンスかもしれない。
演題は「頑張っても報われない社会と起業」とした。(実はこの演題が後で波紋を呼ぶことになる)
土地の私的所有権の確立が経済成長と歴史的にリンクしていること、ウ国では土地は国家のもの、農民は土地の利用権を持つだけであり、担保価値は低く、ビジネスを起こす場合のネックとなっていること、さらに利権でがっちり固まった社会では新しいビジネスを起こそうとしても既存利権構造に阻まれて、自由な競争市場が成立しにくい、和歌山、宮崎、福島などで県幹部による官製談合事件が摘発されているが、ウ国に比べれば日本は健全な自由競争社会ではないか、と話をした。ウ国では学校の入試、成績はお金、コネで何とかなる。勉強を頑張ることが結果に結びつく度合いは少ない。勿論、日本への留学試験は公正であり、よく勉強した学生にはそれだけの見返りがある。でもこういったケースはまれと言えよう。
日本は江戸時代、新田開発が行き詰まり、農民は投下労働の拡大で生産性をあげなければならなかった。その激しい農民の労働が勤労のエトスとなって、頑張ればそれだけの報いがある、一生懸命働けば何とかなるという考え方が日本に定着した。しっかり勉強すれば試験に受かるという考え方もこの延長上にある。
それに引き換え、イスラム社会では努力が報われるという考えに乏しい。アラビア語で生産物、結果を意味する言葉は「ラクダが子を産む」と同義だという。自分の働きではどうにもならない。そのラクダの子でさえ、熱波であっけなく死んでしまう。なけなしの水を撒いて育てた小麦も砂嵐で一夜のうちに砂に埋もれる。さらには他部族の略奪で全てが奪われる。こういう社会では労働の対価で成果が得られるという発想は持ちにくい。同様に自分が怠惰であったために成果が得られなかったとは決して考えない。
バンク・カレッジの生徒が授業に一度も出てこないのに、「先生、どうしてもっといい成績をつけてくれないのですか」とねじ込んでくる姿を見てびっくりしたことがあるが、彼らにしてみれば自分が勉強しなかったせいではなく、運悪くコネやカネがなくて、もしくは先生にちゃんと交渉しなかったので成績が悪かったのだと思うようだ。
初めから勉強してもしょうがないと考えるのであれば「頑張っても報われない社会」ではなくて「初めから頑張らない社会」になってしまう。しかし起業には人一倍の頑張りが必要だ。貧弱なファイナンスシステムしかないこの国で、ビジネスバックグラウンドを持たないカレッジの生徒にどうやってベンチャー論を教えるのか。
とはいえ、バザールに行けば人は生き生きとして商売に励んでいるし、勉強だってやる学生はやっている。100%だめだと決め付けることはできない。ビジネスでいえばベンチャースピリットは日本であれ、米国であれ、ウ国であれ同じだろうと考えて授業ではベンチャーの成功事例を多く取り上げている、社会的に意味がある仕事、自分がやって楽しい仕事、顧客に喜んでもらえる仕事をするということを話して、生徒を元気付けている、といった話をした。
棉摘みツアーはニッチではあったがニーズがあり、顧客もいた、ツアーに参加した日本人はもちろん生徒たちもとても楽しかったようだ。これがビジネスの基本の一つである。
と、こんなことで1時間弱のトークを締めた。
当日、自分の演題「頑張っても報われない社会と起業」は日本語で日本センターに掲示されていた。日本語のわかるウズベク人も多く出入りするため、一部の日本人から日本センターの活動を否定しかねない演題だ、というクレームがついたという。確かにその通りだ。そこまで考えずに演題を連絡した自分の迂闊さと途上国で働く難しさを実感した。
ウズベク会世話人のIさんにご迷惑をおかけしたことをお詫びしたい。