チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ウズベキスタンは3つ

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ウズベキスタンは3つ

国立タシケント法科大学(写真)は卒業すれば弁護士、検事、裁判官の法曹資格が自動的に授与されるエリート大学だ。ウズベキスタン全国から優秀な学生が集まる。

法科大学は名古屋大学と法整備プロジェクトの提携関係を結んでおり、年3回名古屋大学の教官が講義に訪れる他、法律の講師、専門家各1名が派遣されていて日本語による講義を行っている。また日本語教育は日本人教師2名、ウズベク人教師3名の陣容で、「日本語による法律教育」が充分理解できるまでの教育を行っており、優秀な成績を収めた学生には名古屋大学大学院法律コースへの留学の道もひらかれている。


先頃、法科大学の4年生3名と懇談する機会があった。そのうち2名は英検に範を取った、日本語能力テスト1級に合格しており、残りの一人も2級とはいえ、日本語での意思疎通には問題がない。大学へ入ってから日本語の勉強を始め、これだけのレベルに達するのだから本人の努力もさることながら、日本語教育スタッフのレベルも並大抵のものではない。

3人は最終発表を待っているところだが日本に公費留学できる可能性が高い。2005年のアンディジャン事件を契機に欧米とウ国は関係が冷え込んでおり、欧米の奨学金による留学の道は閉ざされている。欧米にはお金持の子弟だけが私費留学しているだけというのが実情だ。

さて、3人はそれぞれ出身地がちがうという話しになった。ウズベクは19世紀にロシアに併合されるまで3つの王国からなっていた。つまりホラズム汗国、ブハラ汗国そしてコーカンド汗国の3つである。

ウルゲンチ、ヒバ、ヌクス、カラカラパク共和国(ウ国の中にこういった国がある)地方を含むホラズム地方はウズベク族中心でウズベク語が話される。ホラズム地方の住民は、蒙古軍を打ち破ったアッディーン王子の頃から名誉と尚武を尊ぶ。衣服は質素で羊毛で作った大きなデュッペ(帽子)を被る。

ブハラ、ナボイ、サマルカンド、カシュカンダリア、スルカンダリア、ジザクの一部を含むブハラ地方はインド・ヨーロピアン系のタジク語が話されている。トルコ語を起源とするウズベク語とは文法からして全く違う言語だ。服装もタジクの影響を受けており、チュポン(ウズベク風どてら)やデュッペは豪華で宝石や金が縫いこまれている。
タジク系の女性は美しいとされている。一説にはその昔、チムール帝国の祖、アミール・チムールがタジク地方から多数の美女をさらってきたのが始まりとか。ブハラ地方の人は利にさとく、商売上手と言われている。

タシケント、シルダリア、アンディジャン、ナマンガン、フェルガナ、ジザクの北半分を占めるコーカンド地方ではウズベク語が話されるがファルシー(ペルシャ語)も通じる。よい兵士はコーカンドからくると言われるほど忠誠心が高い。その一方で独立心が強く、タジク人とは一線を画したい(つまり仲が悪い)という気持ちが強い。

ウ国の言語は以上のように日本の関西弁、東北弁と言った範疇では考えられない違いがある。もちろん結婚も同じ地方で行うのが常識で、コーカンドの人がブハラの人と結婚するということはまれという。もっとも日本でも会津の人は、今でも長州の人とは結婚しないと聞いているが・・・

3つの個性ある地方がなぜウズベク語で統一されているか、それはカリモフ大統領の前、1983年からウズベク地方を抑えていたラシドフ大統領がウズベク語を話すタシケント出身だったからという。つまり大統領命令でウズベク語を国語としたわけだ。

この日会ったブハラ地方出身の学生は家で話すタジク語の他に、ウズベク語、ロシア語、英語、そして日本語を流暢に使いこなす。「ウズベク人はロシア人に感謝すべきかもしれません。3つの王国がそのまま並立していれば、アフガンやチェチェンのように国内で殺し合いが起こっても不思議ではなかったのですから」と彼らは言うが、いくつもの言葉ができる、という裏にはいろいろ複雑な歴史が隠されている。