チェンライの市場から

「市場に並べられた商品からその国の生活がわかる」と言われます。当ブログを通じてチェンライに暮らす人々の生活を知って頂きたいと思います。 チェンライに来たのは2009年から、介護ロングステイは2018年8月母の死去で終わりとなり、一人で新しい生活を始めました。

ヴェルニー公園にて

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京急汐入の駅前、ヴェルニー公園入口

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小栗上野介忠順の像

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ヴェルニー胸像

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ヴェルニーの説明板

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二人の像がいつも見ている元製鉄所

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公園内にある戦艦陸奥の主砲、

 

ヴェルニー公園にて

■文化の基本
日本に来てこんなところに吃驚した、という外国人のユーチューブをよく見る。自分も10年以上海外に住んでいたので半分外人だ。日本にいれば、また日本人なら当たり前のことでも改めて外国人に指摘されて、そう、そう、そうなんだ、と納得することが少なくない。
道にゴミが落ちていない、どこにでも自動販売機があって壊されることがない、夜間、女性独りで歩いても危険ではない、食べ物が豊富でおいしい、などは誰もが指摘する。

ある外人が「日本人は人混みの中で人にぶつかることなしに最短距離で目的地に到達するんだ」と感心していた。確かに渋谷のスクランブル交差点を見ても人がぶつかる様子はない。人と人の間合いを見てお互いに衝突を避けあう、これは日本人には当たり前であるが、そうではない国は多い。例えば新兵を一直線に並ばせることが難しい国はざらにある。一人一人、君はちょっと前、君は少し後ろと指示して横一線に並ばせようとしても、列が常にぐにゃぐにゃ動いてしまう。

今の若い人なら、別にきちんと並べなくても鉄砲が打てれば問題ないんじゃない?というかもしれないが、規律の基本がしっかりしていないことにはその次に進めないし、規律がなければ組織は成り立たない。

■遣米使節
1860年、幕府は、タウンゼント・ハリス初代駐日領事の勧めもあり、日米条約の批准書の交換のため正使新見豊前守正興、副使村垣淡路守範正、目付小栗豊後守忠順の3人を使節として正式にアメリカに派遣した。世にいう万延元年の遣米使節団である。一行はワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークで歓待を受けたが、米国人を驚かせたのは日本の武士が威儀を正し、寸分の隙も無い行列を作って行進したことである。それまでアジアの人間は列を作って歩くことはできないと信じられていた。米国人も一行の立ち居、ふるまいを見て、日本の文化、民度の高さを感じ取ったものとみえる。

77名からなる使節団であったが、実際に日米交渉を取り仕切ったのは小栗忠順(ただまさ)であった。小栗は日本初の通貨交渉を行っている。経済外交に不慣れな幕府は、金と銀の通貨の交換比率を日本に不利な形で結んでいた。つまり、メキシコ銀を持ち込んで小判に代えて、その金を米国で売れば4倍になる。タウンゼント・ハリスはこれでぼろもうけをしている。小栗は日本の一分銀と一分金の含有量をフィラデルフィア造幣局で分析させ、金の価値による通貨是正を要求した。米国は小栗の主張の正当性は理解したものの、通貨交渉は国力の差のもとに合意には至らなかった。小栗はソロバンを懐から出して素早く計算をし、煙草を燻らせながら米国人の計算結果を待った。米国人はオグリはタフネゴシエーターと唸ったという。

■秀才、小栗忠順
小栗は譜代の旗本、小栗家2500石に生まれた。今に残る写真を見ると華奢な感じであるが、島田虎之助の道場に入り、直心影流免許皆伝を許される。また砲術を田付主計に、柔術と山鹿流兵学(19歳から4年間)を窪田助太郎清音(のちの講武所頭取)に師事している。学問にも秀で、同学のある藩主から娘を是非にと乞われて妻に迎えている。文武両道にたけた人物だった。

小栗は徳川幕府の内政、外交を一手に引き受けた。明治新政府が実行した横須賀の製鉄所(のちの横須賀海軍工廠)建設、株式会社の設立、廃藩置県などは小栗の立案になるものが少なくない。大隈重信は小栗について「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語っている。
小栗は薩長との主戦論を唱え、徳川慶喜に罷免された。蟄居していた高崎で新政府軍に捕らえられ、慶応4年斬首される。享年42。小栗の能力を恐れた政府軍が捕縛翌日に処刑したという。

近頃、小栗忠順を見直す動きがある。慶喜が小栗案を容れて戦えば幕府にも勝機はあった。小栗はフランス公使ロッシュと結び、北海道をカタに500万両を借り入れる計画だった、日本分割にならずによかった、という人もいる。実際は蚕糸の独占輸入権の提示だけで借款を交渉したから日本分割の非難は当たらない。

ロシュも小栗を高く評価し、横須賀製鉄所建設に当たってはヴェルニーという一流の技師を日本に招いてくれた。今、京急汐入駅の前にある、フランス式庭園であるヴェルニー公園にはヴェルニー、小栗忠順の胸像が横須賀製鉄所跡地を臨む位置に建っている。武士としての矜持を全うした小栗、また製鉄所ばかりでなく、水道、観音崎、城ケ島の灯台建設にも寄与したヴェルニーは、もっと評価されてしかるべきだろうと思う。