祈りが通じますように
公徳心
こんな孫がいたらいい
お友達が一杯できているだろう
若い時にやっておくこと
■旅に出よう
学生の頃、友達に言われた。「まだ日本もろくろく旅行していないのだから、外国になんか行きたいとは思わない」。ウーン。
全国津々浦々、47都道府県を回ったところで、日本が分かると言えるだろうか。小学校では日本地図で都道府県名を覚える。間違いなく暗唱できたからと言って日本が分かったことにはならない。
若いときに海外に行ってみなさい、そして拙くても英語で現地の人と話して見なさい、と青山繁晴参議員は言っている。異国での経験は、いかに日本のことを知らないか、いかに日本は素晴らしいか、そしてどうしてこの国はこうなっているのだろう、どうしてそういう考え方になるのだろう、と考える切っ掛けになる。世界の中の日本、世界の中の自分に気づけば、「なぜ、どうして」が無数に頭の中に湧いて出てくる。
やるべき年齢の時にやるべきことをやっておく、は必要だ。ボクシング、柔道などの格闘技は今の自分にはムリだ。中高年でも楽しめるスポーツはあるが、テニスだって若い時からやっていたらなあ、と思う。読書でも今更、ヘルマンヘッセやトルストイなど・・・、それよりも「終活のすすめ」なんて本に手が伸びる。海外旅行も若い時に行っておいたほうがいい。誰もが、とは言えないが、旅は人に変化を及ぼす。
自分の場合、小田実の「なんでも見てやろう」に触発されて、半世紀前にスペインを訪れた。アスタマニャーナ(何とかなるさ)のラテン気質が伝染って、我が人生、鬱になることはなかったが、多少、不真面目に過ごしたかな、という反省はある。初めて日本人を見るというバレンシアの村でバールにいた村人全員からワインをおごってもらった、ビルバオでは声を落として学生達とフランコ総統の話をした。思い起こせばそう悪くない旅だった。
■深夜特急
自分より少し後の世代は沢木耕太郎の「深夜特急」を懐にアジアへ飛び出した。2,3カ月バイトをすればアジアを回るだけのお金が稼げる時代だった。この本には毒がある。思わず日本を飛び出したくなるからだ。そうしてタイのカオサン、インドのガンジス辺りで沈没してしまい、帰国しても日本社会に適応できなくなった若者を生んだ。努力すれば誰もが五輪選手になれるというわけではないように、誰もが貧乏旅行をしたからといって沢木耕太郎にはなれない。でも若さは「向こう見ず」に通じる。経験が生きるか、無駄になるか、進むか、戻るか、すべては自分次第、自分を信じるしかない。沢木耕太郎はこう書いている。
<さて、これからどうしよう……>
そう思った瞬間、ふっと体が軽くなったような気がした。
今日一日、予定は一切なかった。せねばならぬ仕事もなければ、人に会う約束もない。すべてが自由だった。そのことは妙に手応えのない頼りなさを感じさせなくもなかったが、それ以上に、自分が縛られている何かから解き放たれていくという快感の方が強かった。今日だけでなく、これから毎日、朝起きれば、さてこれからどうしよう、と考えて決めることができるのだ。それだけでも旅に出てきた甲斐があるように思えた。(引用終り)
仕事をやめて旅に出た沢木の心情がよくわかる。最終行の「旅に出てきた甲斐」を「年金暮らしの甲斐」と読み替えれば、今の自分と同じだ。ああ幸せ。
■旅と人の一生
沢木に戻る。彼は、旅には旅の生涯があり、幼年期から老年期に至る、人の一生に似た移り変わりがあるのかもしれないという。旅の青年期には、何を経験しても新鮮で、どんな些細なことでも心を震わせていた、と彼はいう。
20代で異国体験をした自分にもその感じはわかる。カスバやモンマルトルを十数時間、歩き回る体力はもはや残されていない自分にとって、あの時期が自分自身と旅の青年期が重なっていたのだなあと思う。タイに10年、ウズベクに2年暮らした。そして短期に旅した国は20ヵ国を越えると思うが、だからと言って「この国は、」などと断定するほど図々しくはない。でも日本とここが違うんだよな、と比較することはある。比較対象が増えるにつれて、異国への心震わせるような感動は薄れていったような気がする。
ソニーの創業者、盛田昭夫氏は日本を出たことのない若者と海外に行くことを好んだという。若者が異国で何に、どう感動するかを観察していたらしい。好奇心を持ち続ければいくつになっても旅の感動は得られる、とは言うが、若い時の異国体験は新鮮で驚きに満ちている。
青山さんと沢木さんに倣って、自分も、若者よ、とにかく外へ出てみたら、と言いたい。